海の露

6.

 宮殿内を急ぎ足で歩く皇女とすれ違う人々が、次々に慌てて立ち止まり、一礼する。それらを無視して、イェソルテは城内の一角にある兵舎の方角へと向かった。
「姫様!」
 長い回廊を歩いているうちに、彼女を捜していた侍女の一人に見つかった。
「イェソルテ様、どちらへ行かれるのです」
「ロスマリンの部屋です」
 侍女は驚いて、皇女の前に立ちはだかった。
「兵舎など、皇女殿下が行っていい場所ではございません。ロズマリヌスにご用なら、いつものようにわたしたちの誰かにご伝言をなさいませ」
 だが、イェソルテは鬱陶しそうに侍女の脇をすり抜けた。
「言伝を待つ暇はありません。彼はいないかもしれないのだから」
 速足で進むイェソルテを慌てて追いかけ、辛抱強く侍女は問う。
「いない? 彼がいないのになぜ行かれるのです?」
「ロスマリンがいなければ、下女に確かめたいことがあります」
「なりません!」
 侍女は力ずくでイェソルテの歩みを押しとどめた。
「皇女殿下ともあろう者が、奴隷と軽々しく口を利いてはなりません。お立場をおわきまえください!」
「ロスマリンのことよ。自分の目と耳で確かめたいの」
「いけません」
 侍女はゆっくりと言い聞かせるように、イェソルテの意志の強い黒い瞳を見て、言った。
「姫様に近しいわたしたちはロズマリヌスがよい若者だということを知っております。ですが、ロズマリヌスが姫様の好意を利用して陛下から特別な扱いを受けていると誤解している者たちが多いこともお忘れなきよう」
「解っているわ。それでも……」
「皇女殿下たるもの、いかなるときも慎重な行動が求められます」
 イェソルテは屹となった。
「わたくしが皇女でなくなればいいの? そうすれば、ロスマリンと自由に会うことができて?」
「姫様……」
「父上は肝心なことは何も教えてはくれません。自分で確かめるしかないのです」
 勝気な姫君の性格を思い、侍女はため息をついた。
 ここで制止しても、皇女は侍女たちの目を盗み、強引に兵舎に足を運ぶだろう。
「……仕方ありません。ロズマリヌスはわたしが呼んでまいります。彼がいなければ、その下女を。姫様はどこか人目につかないところに隠れていてください」
「薔薇園の入り口にいるわ。葉がよく茂っているから、姿を隠しやすいでしょう」
「かしこまりました」
 薔薇園で待つ皇女のもとに、侍女は四十分ほどで戻ってきた。
 侍女が伴ってきた自分と同じ年頃の、一人の娘を見て、イェソルテの眉がやや険しさを帯びる。
 娘は奴隷だ。
 だが、彼女はロズマリヌスの下女として、常から彼の身の回りの世話をしている。
 イェソルテよりもずっと長い時間を、ロズマリヌスのために使っているのだ。
 そして、質素な衣をまとっていても、彼女が美しいということは、誰が見ても明らかだった。
「そなたがロズマリヌスの下女ですか」
 隠れていた薔薇の茂みの陰からイェソルテは出てきた。
 薔薇園のそばに彼女たち以外の人影はない。
「答えなさい」
 美しい下女はその場にひざまずき、少し震えていたが、困ったように侍女を見た。
「直答は許されません。答えはわたしに言いなさい。皇女殿下はここにはいません。そなたはわたしと話しているのです」
「は……はい」
 下女はうなずいた。
 再びイェソルテが口を開く。
「名は?」
「リサです」
「ロズマリヌスは今、兵舎にいないのですね?」
「急なお仕事のようで、今朝、旅支度を整えてヘスベルを発たれました」
「仕事の日程は?」
「知りません。あたしはただの下女なので、ロズマリヌス様のお仕事についてはいつも何も知らされません」
 身体を縮めるようにして、小さな声でリサは答える。
 イェソルテは微かに吐息を洩らした。
「そなた、ロズマリヌスとはどのような関係なのです」
「えっ……」
 思わぬことを訊かれ、リサは思わず顔を上げ、皇女の顔を見上げた。
「これっ、リサ……!」
 奴隷が皇女の顔を凝視するなど無礼に当たる。
 慌てて侍女が叱ったが、イェソルテは侍女を制した。
「構いません。──リサ、そなたは、ロズマリヌスと特別な関係にあるの?」
 夕べ、ロズマリヌスに寝台に押し倒されたことが不意に思い出され、リサはさっと頬を染めた。
 それをイェソルテは見逃さなかった。
「わたくしとロズマリヌスのことは知っていて?」
「は、はい」
「それでも、ロズマリヌスと特別な関係だというの?」
「あ、あたしは──
 リサは声の震えを抑えようと、舌で唇を湿し、叩頭した。
「あたしが、勝手にロズマリヌス様をお慕いしているだけです」
「解りました」
 イェソルテはひざまずくリサに背を向けた。
「そなたはロズマリヌスがどこへ行ったのか、いつ戻るのかも知らない。そして、彼の恋人でもない。そういうことですね」
「は……はい」
 威厳あふれる皇女の態度にリサはさらに小さくなって、地面に額を押し当てた。
「行ってよろしい」
「……は」
 恐る恐るリサが頭を持ち上げると、侍女が横から声をかけた。
「下がってよい。今日のことは、他言無用に」
「は、はい」
 リサはおどおどと周囲を確認するようにして立ち上がり、皇女と侍女に深々と一礼して、兎のように身を翻した。
 薔薇の香りを風が運ぶ。
 穏やかな空、穏やかな風、そんな中にあって、皇女の周りの空気は緊迫に満ちていた。
「姫様……」
 リサの姿が見えなくなってもその場に立ち尽くすイェソルテの表情は険しい。
 ──ロズマリヌスを信じている。
 だが、リサはロズマリヌスとの関係を否定しなかったのだ。

* * *

 旅人が行き交う銀の街道。
 美しく整備された石畳の街道は、大型馬車が余裕をもって行き来できる道路と、その両側に広い歩道がある。いずれも充分な道幅だ。
 その街道の人の流れに紛れるように、一人の巡礼者が歩く姿があった。
 左耳に紺瑠璃の石を嵌めた燻し銀の耳飾りが揺れている。
 背が高く、若い──ロズマリヌスだ。
 巡礼の黒衣を身にまとった彼は、灰色の髪や額の紋様、そして目立つ美貌を隠すように、巡礼者が頭に巻く黒い布を巻いていた。
 目的地はこの街道上にあるケサド市。
 ケサドの太守・クルトに汚職の疑いがあるらしい。
 正式な視察団の先触れとして太守の邸に何ヶ月かとどまり、不正の有無等、太守の仕事ぶりを内々に調査するようにというのが、今回の任務だった。
 ロズマリヌスはいつも単独で任務にあたる。
 今回も、巡礼の姿で人目につかぬように数日をかけて徒歩でケサドまでの道を行き、帝室の紋章入りの身分証を持って、太守邸に向かった。
 街道上の街には関所がある。
 商人など、通行の理由によっては通行税がかかる。
 ロズマリヌスは巡礼者として難なく関所を通り、ケサドの街に入った。
 そして、太守の公邸を訪れる。
 賑やかな街の中心に、石造りの邸は堂々とそびえていた。
 取り次ぎの役人に身分証を見せ、案内を頼む。
 取り次ぎを待つ間、ふと、ロズマリヌスは耳飾りの青い石に意識を向けた。
 容易く心を見透かす青い石の精霊を彼は拒み、石の精霊はそれを受け入れた。
 以来、青珠は一度も彼の前に姿を現していない。
 彼が青珠の存在を拒んだとき、再び石の中に眠ると彼女は言っていた。
 では今は、彼女はいないも同然なのだろうか。
「ロズマリヌス殿」
 ロズマリヌスははっと我に返った。
「クルト閣下がお会いになるそうです。こちらへ」
 戻ってきた役人が無機質に告げた。

 荷物と剣を案内の役人に預け、外套を脱いで、髪に巻いていた布を取ったロズマリヌスは、太守の執務室に通された。
 執務室に入って正面に大きな執務用の机があり、初老のでっぷりと太った男がそこに座っていた。
 これがケサド市の太守・クルトである。
 ロズマリヌスは机を挟んで太守と向かい合い、恭しく一礼すると、必要な書類を差し出し、さり気なく室内の様子を窺った。
 ──何かおかしい。
 広い室内の中心にいる太守を囲むように同席する官の数が妙に多いような気がする。
 おまけに彼らは文官ではなく、武官のようだ。
「視察団の先触れ……か」
 クルトはロズマリヌスから受け取った書類に目を通し、苦い声でつぶやいた。
 視察の目的が実は監査であることを太守は察したのだろうか、とロズマリヌスは思った。後ろ暗いことを自覚しているのだろう。
「はい。正式な視察団が到着するまで、私はケサドの街の様子を把握しておきたいと思っております」
「視察……な」
 クルトは陰鬱な眼差しで長身の黒衣の美少年をじろじろと眺めまわした。
「半分死んだ灰色の髪、額の死の紋様、そして美しい容貌──噂通りだ。陛下はわしを切り捨てるおつもりだな」
「クルト閣下。陛下はケサドの視察をと──
「視察ごときに、何ゆえ、陛下の死神がしゃしゃり出る。わしの生命を狙ってのことであろう?」
 ロズマリヌスはぐっと眉をひそめた。
 執務室を武官で固めた意味を理解したのだ。
「陛下のため、私は情報を集めるのが仕事です。閣下のお生命を狙うなど、そのような──
「黙れ、死神!」
 激昂して、クルトは立ち上がった。
 場に緊張が走る。
「おまえが陛下の命で裏で暗殺業をやっていることは知る者は知っておる。陛下が手に負えぬと見限った者を事故に見せかけて闇に葬る。それがおまえの主な仕事であろう。公邸に堂々とやってくるとはいい度胸だ」
 太守の拳が重厚な机を叩く。そして、ロズマリヌスが立つ両側には武官が剣を携えて並んでいた。
「皆の者、ロズマリヌスを捕らえよ! 手向かわば斬り捨てて構わん!」
 狂ったように太守は叫んだ。
 こうなっては何を言っても無駄だと考え、ロズマリヌスは室内にいる人間の数を目で数えた。
 彼は帯剣していない。
 太守に面会を求めるため、一切の暗器も身に付けていなかった。
「観念しろ。おまえは陛下がわしを亡き者にしようとしたことの証人だ」
「そのような命令は受けてはおりません。閣下の思い違いです」
「黙れ、死神め。おまえがここに来たことこそが、暗殺が企てられた証拠なのだ……!」
 目の前にいる少年が己を殺しに来たと、太守は信じ込んでいる。
 太守に一番近い位置にいた大柄な武官が、すらりと腰の剣を抜いて言った。
「ロズマリヌス。おまえの逃亡を防ぐため、この部屋の外も番兵で固めている。覚悟せよ」
 唇を噛み、苦々しく黒衣のロズマリヌスは身構えた。

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2022.8.28.