海の露

7.

 大人しく捕まるべきだろうか。
 だが、誤解を解く術がない。
 一瞬の逡巡の後、ロズマリヌスは横から鋭く突き出された白刃を間一髪で避け、信じられない面持ちで、剣を振るった武官を見た。
 それは容赦なく相手を討ち取るつもりの剣のひと振りであった。
 はなから殺すつもりだ。
 剣を構えた武官は他にも十人近くいる。
 執務室の中で、彼は完全に取り囲まれていた。
 ロズマリヌスは警戒の色を濃くしながら、太守を屹と一瞥した。
「閣下! 汚職はともかく、皇帝陛下の使者を手にかけたら、ただではすみませんよ!」
 執務用の机の向こうで、ケサドの太守はふてぶてしくふんと鼻を鳴らした。
「何やら知っておるようだな。だが、おまえが先に手を出したと言えば、わしは正当防衛になる」
「そんな嘘が通ると……!」
「正当防衛の証人は何人でも作ることができる」
 続いて反対側から振り下ろされた剣をかわしたロズマリヌスは、素早く床を蹴った。
 目の前にある太守の机に飛び乗り、整然と並んでいる筆記具の中から青銅製のペンを掴むと、太守のいる向こう側に軽々と着地した。そして間髪をいれずに太守・クルトを羽交い絞めにし、その首筋に青銅のペンの先を押し当てることで周りを牽制した。
 一連の動作は流れるようだ。
「こっ、こいつ!」
「閣下を傷つける気はない。本当にそんな命は受けていない。道をあけてくれ。おれを通してくれれば、何もしない」
「お、おのれ……!」
 剣を構えた武官が唸る。
 ロズマリヌスはペンを握る手にぐっと力を入れた。
 額にじっとりと汗が滲む。
「頼む。通してくれ。おれを外に出してくれたら、閣下の身を解放する」
「くぅ……」
 拘束されたクルトが呻き、壁際に引き下がった副官が引きつった表情で叫んだ。
「やはりロズマリヌスは逆賊だ! 早く閣下をお助けしろ!」
「はっ!」
「暗殺者といえど、所詮は十五、六の子供。怯むでない!」
 武官たちが口々に応え、じりじりと黒衣の彼を狙う。
 クルトはロズマリヌスの戒めから逃れようと必死に身をよじった。
「わ、わしを殺したら、生きてこの邸から出られんぞ……!」
「始めからおれを暗殺者と決め付け、殺すつもりだったんでしょう」
 ロズマリヌスはクルトの身体とともに前へ進み、少しずつ部屋の外へ移動しようとした。
 だが、クルトはそれに抗う。クルトは太っており、思うように前へ押しやれなかった。その背後に廻ろうとした武官に気を取られ、黒衣の少年がバランスを崩したそのとき、クルトが大きく身をよじった。
 ロズマリヌスがはっとしたが、遅かった。
「ぐぅっ!」
 ペンを突き立てる手に力が入り、太守の頸部を圧していたペン先が皮膚に強く食い込んだのだ。
「閣下──!」
 青銅のペンが凶器となり、太守の頸動脈を斬り裂いた。
 鮮血が噴き上がり、いくつもの叫び声が上がる。
「あ……」
 返り血を浴び、蒼ざめるロズマリヌスの目の前で、血にまみれた太守はスローモーションのようにゆっくりと床に倒れていった。
 ロズマリヌスが持つペンの先は、正確にクルトの急所を押さえていたのだ。
「閣下!」
「誰ぞ、医者を呼べ──!」
 混乱する場の中、蒼白になったロズマリヌスは呆然と立ちつくした。
「ロズマリヌスを捕らえよ! クルト閣下暗殺の下手人ぞ!」
 何名かが医者を呼びに走り、倒れた太守の傍らに膝をついた副官が、立ちつくす少年を指差して叫んだ。
 残った武官たちが、改めて剣を構え直してロズマリヌスににじり寄る。
 ロズマリヌスは血に汚れた両手に目を落とした。
「あ……」
 人を殺したことはある。
 常日頃から人を殺す訓練を受けていた。その一方、手加減の仕方など教わってはいない。彼ができるのは、相手を確実に殺すこと──それだけだ。
「うわあああっ──!」
 彼は両手で顔を覆って、絶叫した。
 過失で人を殺したのはこれが初めてであった。
「小僧、観念しろ!」
 幾人もの武官たちがロズマリヌスを取り囲む。取り押さえるというより、斬り捨てる勢いだ。その次の刹那──ふっと空気が変わり、違和感を覚えてロズマリヌスがそっと顔を上げると、室内の人々はみな倒れていた。
「……?」
 眼を見張るロズマリヌスが軽い気配にはっと振り返ると、アイス・ブルーの長い髪を後頭部に結い上げた美しい娘がそこにいた。
「……青、珠──
 青い石の精霊・青珠だった。
「これはどういうこと?」
 血にまみれて倒れ伏した太守と、周囲に眠る大勢の武官。その場の光景を確認して、青珠が言った。
「どういう状況なの? なぜ、あなたが殺されそうになっているの?」
「青珠……どうして……」
「あなたの叫びで、眠りから醒まされたの」
「武官たちは……」
「とっさに眠りの結界を張ったわ。皆、眠っているだけ」
「医者を……! 太守閣下が瀕死なんだ」
 そちらへちらと目をやった青珠は、静かに首を横に振った。
「手遅れよ。あの人間はもう死んでいる」
「そん……な」
 ロズマリヌスは崩れるようにその場にうずくまる。
「おれは……なんてことを……」
「どちらにしても、ここを出なくてはならないのではない? あなたは血まみれだし、外の番兵の数も尋常じゃないわ」
 青珠に促され、ふらふらとロズマリヌスは立ち上がる。
 執務室の扉を開けると、廊下にも兵士が溢れていた。
 青珠の眠りの結界により、皆、意識を失って倒れている。
 己の訪問がこれほどまでに警戒されていたことに、ロズマリヌスは衝撃を禁じ得なかった。青珠がいなければ、文字通り、生きて太守邸を出ることはできなかったのだ。

* * *

 ロズマリヌスがケサドへ発って以来、イェソルテ姫は自室にこもり、ふさぎ込んだ毎日を過ごしていた。
 そんな姫の部屋を、突然、従兄のダルティウスが訪れた。
「何事ですの? そんなに血相を変えて」
 いつも冷静なダルティウスがこのように感情を表に出すことは珍しい。
 長椅子に腰掛けるイェソルテを見て、ダルティウスは周囲にいる侍女たちをちらと見遣った。
「人払いを」
「何ですって?」
「早く。ロズマリヌスに関することだ」
 イェソルテは驚きに眼を見張った。
「ケサドで何かあったの? いえ、人払いは必要ありません。侍女たちはわたくしとロスマリンのことについて、全て知っています」
「早馬で知らせが来た。ケサドの太守が殺されたらしい」
「太守が……殺された? それで、ロスマリンの身にも何かあったのですか?」
「ロズマリヌスが殺したと──そう報告が来ている」
「!」
 思わず長椅子から立ち上がったイェソルテだったが、そのまま、ふらふらと眩暈を覚えて、椅子の上に崩れ落ちた。侍女たちが皇女のもとへ駆け寄る。
「嘘です。誰が、そんなことを」
「確かな筋からの情報だ。先程、他の側近たちとともに陛下のもとに呼ばれ、話を聞いた」
 第一報を受けたタナトニア帝国の皇帝・パウル二世は、「愚かな」と吐き捨てたという。
「クルトめ。ロズマリヌスが余の使いというだけで血迷ったか。クルトを殺せとは命じておらぬ。思っていたより肝の小さい男だったな」
 パウル二世は座っている椅子の肘掛けに肘をつき、その手に顔を乗せ、大きなため息をついた。
「だが、これで手間が省けた。クルトに従っていた者たちも、今後はもう少し身を慎むことを知るであろう」
「ロズマリヌスについては」
 末席にいたダルティウスが遠慮がちに声を上げた。
「陛下。ロズマリヌスの処分はどうなりますか。太守を殺したあと、公邸から逃亡していますが」
「クルトの周りにいた者は、ロズマリヌスが突然太守を襲ったと言っているらしいが、それはロズマリヌスらしくない。ロズマリヌスの名に怯えた太守らがロズマリヌスを殺すか捕らえるかしようとして、あの者はそれに反撃したのであろうよ」
「さすれば、捕らえて裁判など……」
「いや。ロズマリヌスがここに戻ってきたら捕らえればよいが、裁判など必要ない」
「ですが、陛下」
「あれは余の大切な窺見であり、刺客であるぞ? 表向きだけ捕らえ、幽閉する。が、今まで通り、余のために働いてもらう」
 パウル二世は不敵な表情を浮かべ、居並ぶ側近たちを見廻してから、甥の顔を見つめた。
「余がなぜロズマリヌスを重宝しているか知っておろう? あれは神に愛された者だ。ロズマリヌスが行い、事が進めば、それは神がお認めになったという天啓となる」
 それはこじ付けではないのかとダルティウスなどは思う。
 パウル二世は汚職や不正に厳しく、より悪質な場合には死をもってあがなうべきだと判断した。狡猾で怠惰で手に余る帝国内の役人たちを、密かに闇に葬る役割をロズマリヌスに課していたのだ。
 そして、神の名のもとにロズマリヌスの行いを正当化し、ひいては己の行いを正当化した。
 この一年、数は多くはないが、ロズマリヌスの行く先々で要人が事故死したり、不自然な死に方をした。皇帝にとって煙たい人物ばかりだ。ロズマリヌスが手を下したという証拠はないが、不穏な噂は広まっていく。
 ゆえに、彼は皇帝の犬と罵られ、死神と噂された。
 窺見としても動いているが、彼の本来の仕事は皇帝直属の暗殺者なのだ。
「しかし陛下。形だけでも裁判を起こし、ケサドの太守の部下たちと、ロズマリヌスの言い分も聞かねばなりません。それが帝国の掟です」
 側近の一人が口を開いたが、パウル二世は首を振った。
「それはロズマリヌスに不利だ。裁判を起こすと確実に死刑になる。あの者は死なせるには惜しい」
 そして、議論を打ち切るように皇帝は立ち上がった。
「裁判はせぬ。これは決定だ。ロズマリヌスを捕らえ、できるだけ内々に処理する。そのうち、ロズマリヌスの名が悪事への抑止力になろうよ」
 それ以上、皇帝の決定に反対する近臣はいなかった。
 ケサド市の太守が殺された事件の真相は、公には有耶無耶になるだろう。
 結果はどうあれ、皇帝はケサドの太守・クルトを処分するつもりだった。パウル二世の推測が正しいなら、事件というより事故だったようにも思える。
 では、ロズマリヌスは?
 彼に皇帝の臣下としての人権はないのだろうかと、ダルティウスは釈然としなかった。

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2022.9.19.