海の露
8.
イェソルテは力なく寝椅子にもたれ、呆然と従兄の顔を見つめた。
「ロスマリンは……どう、なりますの……?」
ダルティウスは低い声で応えた。
「正規軍の訓練兵という身分を剥奪され、囚人として幽閉されることになる。お咎めなしでは世間が納得しないだろうからね。陛下は彼を表には出さず、必要なときだけ動かすおつもりなのだろう」
「動かす……それは、また人を殺させるということ? それがロスマリンの仕事……」
「そう。それが彼の仕事だ」
「そんな──」
皇女は慄然と身を震わせた。
居合わせた侍女たちも、恐ろしそうに顔を見合わせた。
「そんな仕事、ひどすぎるわ。正規軍の兵士になれば──」
「彼は陛下個人のものなのだよ。彼の処遇は陛下に一任される」
「それでは、まるでロスマリンは父上の奴隷だわ。父上の目に留まり、奴隷から正規軍の兵士に加えられたはずなのに」
「そう。ある意味、彼は奴隷のままだ。彼の特異な生い立ちや額の印が、陛下をも惑わせているように思う」
「ロスマリンはどうなるの? 一生、幽閉されたまま?」
ダルティウスに視線を据えたまま、イェソルテはふらふらと立ち上がった。
青年は沈鬱な面持ちで首を振った。
「彼に選べる道は二つ」
「二つ?」
「そうだ。だから、イェソルテ。もし、彼が君に会いに来たら伝えてくれ」
ダルティウスは身をかがめ、真剣な表情で彼女の両肩に手を乗せた。
「陛下はロズマリヌスの幽閉を決定した。姿を見せたら即座に捕まる。皇帝陛下の御意のままに従うか、この国を出奔するか。二つにひとつだと」
「……」
イェソルテは息を呑む。
彼女は従兄の腕を強く掴んで言った。
「囚人か逃亡者か、選べというの?」
「無論、パウル陛下が退位され、君が次の皇帝になれば、ロズマリヌスの処置は君が決められる。だがそれは、十年も二十年も先の話だろう」
「わたくしは……」
イェソルテは躊躇いの色を見せて眼を伏せた。
ロズマリヌスがどちらの道を選んでも、彼女はそこには関われないのだ。
数日後の夜。
厚い黒雲と闇が辺りを覆うしんとした夜気の中、小さく灯を点し、宮殿の敷地内の兵舎の一室で、若い娘がうたた寝をしていた。
リサだ。
そのロズマリヌスの部屋の扉がそっと開かれた。
入ってきた黒衣の人物は、椅子に座り、テーブルに突っ伏して眠るリサに近づくと、その肩を小さく揺すった。
「う、ん……」
眼を覚ましたリサが顔を上げると、揺れる蝋燭の光に浮き上がる大きな影が目に入った。
「きゃ……」
「しっ」
素早くリサの口をふさいだ影の主はロズマリヌスである。
「ロズマリヌス様……!」
リサは跳ね上がるように起き上がって、椅子から立ち上がった。
「あたし……心配していました……! ケサドでトラブルがあったのですか? ロズマリヌス様が戻るようなことがあれば、すぐに報告しろと上から……」
「悪いが、時間がない。上への報告は、一日だけ待ってくれないか」
幾分顔色が悪かったが、ロズマリヌスははっきりとした声でリサに告げた。
「は、はい」
「おれはもうここにはいられない。もし、イェソルテ姫がおれを訪ねてきたら、これを渡してくれ」
彼がリサに手渡したのは、小さなパピルス紙だった。
何か書かれていたが、字の読めないリサが首を傾げると、ロズマリヌスは苦い笑みを浮かべた。彼の左耳につけられた青い石を嵌めた耳飾りが揺れる。
「別れと感謝の言葉だ。おまえにも世話になったな。おれはここから消える」
「え──!」
大きく目を見開いて、リサは背の高い美貌の少年を見上げた。
「あたし……あたしも一緒に行ってはいけませんか」
「それはできない」
「あたし、本気でロズマリヌス様をお慕いしています。どんな苦労も平気です」
「駄目だ。おれはおまえを必要としていない」
リサの瞳が悲しみに揺れたが、ロズマリヌスの意思ははっきりとしていた。
「皇帝陛下がおっしゃるように、本当におれに神の御加護があるのなら、おれの運命はネプトゥーヌスに委ねてみようと思う。そう姫に伝えてくれ。明日の夜までにはヘスベルを出るつもりだ」
そっと涙をぬぐい、声が震えないようにゆっくりと彼女は言った。
「あたしも祈ります。ネプトゥーヌス神に。ご無事で、生きていてください」
「ありがとう。元気で」
それだけを告げ、黒衣の少年は部屋の扉を閉め、夜の闇に消えていった。
翌日は、雨になりそうな雲行きだった。
リサはロズマリヌスの部屋でイェソルテの使いを待っていた。
数日前からイェソルテの侍女が、朝夕の二度、必ずリサのもとへロズマリヌスの安否の確認に来ていた。
リサのような立場の者には何も知らされてはいないが、何か大変なことが起こったことだけは解る。少しでもロズマリヌスの役に立ちたかった。
「リサ」
扉を開けて部屋に入ってきたのは、ロズマリヌスの下男だ。
「何も異常はないか」
「は、はい」
リサは用心深くうなずいたが、下男は彼女が手に持つ紙に気づいた。
「何だ、それは」
「これは──」
「ロズマリヌス様が戻られたのか?」
下男は彼女の手からパピルス紙を取り上げた。
「別れの言葉……ロズマリヌス様の字だな」
「皇女殿下へ渡してほしいと……上への報告は、夜まで待ってください」
必死にすがる少女に、下男は白髪まじりの髪をかき、やれやれというようにため息をついた。
「ロズマリヌス様が逃げる時間を作りたいのか。だが、わしらはロズマリヌス様の使用人である前に、ロズマリヌス様の動向を監視する役目を担っている」
「でも……」
「おまえがロズマリヌス様に惹かれているのは知っている。確かにロズマリヌス様はいい方だ。だが、皇帝陛下のお耳に入れる情報を集めるのが最も重要なわしらの仕事だ。それを忘れてはならん」
「……」
下男の諭すような言葉に、リサはうなだれた。
パピルス紙を手に、彼はその足で上への報告に向かった。
イェソルテの侍女が忍んできたのは、そのわずか数分後のことであった。
「おはよう、リサ。何かありませんでしたか」
「あ……あの──」
ほっとしたためか、リサは涙ぐみ、皇女の侍女に駆け寄った。
「夕べ遅く、ロズマリヌス様がここへ。皇女殿下への伝言を書いた紙を預かりましたが、さっき見つかって、取り上げられてしまって」
「では、ロズマリヌスがヘスベル、もしくはその近くにいるということが、もうすぐ陛下のお耳にも入りますね。伝言の内容は覚えていますか?」
「別れと感謝の言葉だそうです」
「それ以外に彼は何か言っていませんでしたか?」
「運命をネプトゥーヌス神に委ねると……巡礼の装束をまとって。そうだわ、今日の夜までにヘスベルを出ると」
侍女はうなずき、リサの肩にやさしく手を乗せた。
「ありがとう、リサ。これからのことは、そなたは知らなくてよい。イェソルテ殿下もそなたに感謝されています」
リサの眼を見て礼を言うと、侍女は周囲に気を配り、慌ただしく皇女のもとへ帰っていった。
取り残されたリサにできるのは、ロズマリヌスの無事を、ただ祈ることだけだった。
* * *
昼を過ぎると、雨雲が濃くなり、ヘスベルの街は夕闇のように暗くなった。
この町のネプトゥーヌス神殿内の、もう使われていない古い祈祷所の建物に、ロズマリヌスは身を隠していた。
今夜、雨が降る。
その夜の雨に紛れて、首都を出る。
巡礼の黒装束に身を包み、巡礼者が髪に巻く黒い布で髪の色と額の刻印を隠した彼は、祈祷所の隅にじっと座っている。そんな彼のそばには青い石の精霊がいた。
「来たわ」
「!」
「下女に言った言葉の意味が、姫君に伝わったようね」
またもや精霊に心の動きを見透かされ、ロズマリヌスは苦い顔をしたが、そのとき、祈祷所の扉が開く音がした。
「……イェソルテ姫──」
濃い藍色の外套で身をすっぽりと覆ったイェソルテが、そこに立っていた。
「ロスマリン……」
夕暮れのように薄暗い中、ロズマリヌスとイェソルテ姫は互いを探り合うようにじっと見つめ合った。
「……姫。よく、ここが」
「あなたがリサに言付けたのでしょう? 今宵、町を出ると。そして巡礼の姿だったと聞いた。あなたの守護神はネプトゥーヌス。ネプトゥーヌス神殿で夜まで待つという意味だと思ったの」
ロズマリヌスを見つめたまま、イェソルテは祈祷所の扉を後ろ手に閉めた。
「まさか、一人で来たのか?」
「ダルティウスに馬で連れてきてもらったわ」
「ダルティウス卿が外に?」
「大丈夫。彼はあなたの味方よ」
彼のそばまで歩み寄ると、イェソルテは、ほうっと息を洩らし、彼の肩に額を押し当てた。
「──心配したわ」
「何があったのか訊かないのか?」
「あなたを信じているから」
ロズマリヌスを可愛がっていると思っていた父皇帝が、彼の手を血に染めていたことを知り、イェソルテは涙も出ないほどの衝撃を受けた。
十六歳の少年が普通に生きることを許されない。こんな理不尽な扱いから、そろそろ彼は解放されてもいいのではないか。そう、ダルティウスは言っていた。彼女もそう思う。
「父はあなたを幽閉するつもりよ。その上で仕事は継続させると」
「そうか」
「でも、あなたはこの国を去るのね」
「……会って別れを言いたかった。会うべきじゃなかったかもしれないが、会えてよかった」
皇女の身体を硬く抱きしめ、決然とつぶやいたロズマリヌスは、すぐに彼女から身を離した。
「イェソルテ皇女殿下。あなたは幸せになってくれ」
だが、皇女はそんな彼の腕を両手で掴んだ。
「わたくしも連れていってください」
「え?」
「わたくしも、ロスマリンと一緒に行きます」
「馬鹿な! 一国の皇女がしていいことじゃない!」
「皇女の身分は捨てます。一人の女として、あなたの痛みや苦しみを共有したいの」
ロズマリヌスは片手で姫の手を握って、そっと己の腕から離した。
「おれなんかのために、自分の人生を捨てることはない。おれのことは、すぐに忘れられるよ」
心外そうに、わずかに眉をひそめたイェソルテは、ロズマリヌスから斜めに視線をそらして強い口調で続けた。
「忘れません。リサとの関係も、聞かなかったことにできるわ」
「リサ?」
イェソルテが彼と下女が深い仲だと誤解しているらしいことはすぐに判った。
下男が彼を監視していたのはロズマリヌスも承知していたから、下男が上に何か伝えたのだろう。リサに皇女への伝言をはっきりと頼まなかったのも、監視を警戒してのことだ。
「……そう、おれは不実な男だ」
ロズマリヌスの声音が変わった。
「情報を集めるためにその土地の妓館を利用することだってある。……現に今も、女と一緒だ」
「えっ」
ロズマリヌスの言葉に驚いた姫が、彼の視線の先をたどると、壁際の薄暗い場所に立つ蒼い髪の娘の姿が見えた。
ここに自分たち二人以外の人間がいるなどと思いもしなかったイェソルテは驚いて眼を見開く。
「どなた……? ロスマリンの知り合い?」
最後まで気配を消しているつもりだった青珠は、いきなり視線を向けられ、口を開こうとした。だが、それよりも早くロズマリヌスが言った。
「彼女の助けがあって、ケサドからここまで戻ってこられたんだ。おれの新しい恋人だよ」
「……っ!」
思いもかけないその言葉に、イェソルテ姫は愕然とロズマリヌスを見つめ、青珠を見つめた。
「だから、姫の想いは迷惑だ」
「……!」
薄闇の中、黒衣の少年はエメラルドのような光を放つ瞳でまっすぐに姫を見ていた。
迷いはない。
「……そう、ですか」
震える声でつぶやき、イェソルテは力が抜けたようにうつむいた。
「では……最後にひとつだけ」
低い声を絞り出すように彼女は言った。
「あなたの右の耳につけた真珠のピアスを、わたくしにください」
左耳の青い石を嵌めた耳飾りを揺らし、ロズマリヌスは無言で右耳の真珠を外した。それをそっと姫に手渡すと、彼女の頬をひとしずくの涙が伝った。
「お別れの口づけを」
涙の混じる声に従い、彼は彼女にそっと口づける。
離れていく唇の名残を惜しむように、一度、瞳を硬く閉じた皇女は、気丈に青珠を振り返った。
「ロスマリンを頼みます。どうか、彼を裏切ることだけはしないでください」
「ええ」
そうして、黒い瞳で彼に微笑みかけた。
「さようなら、ロス──いえ、ロズマリヌス」
声を詰まらせ、外套の裾を翻し、イェソルテ姫は足早に進んだ。薄暗い祈祷所の扉を開けて、逃げるようにその向こうへと姿を消す。扉が閉じた。
彼女がたった今までそこにいたことが幻のようだ。
ロズマリヌスは扉に背を向け、壁際に腰を下ろした。
「ロズマリヌス」
精霊の声が静かに響く。
「なぜ、皇女を連れていかないの? 彼女はそれを望んでいるのに。そして、あなたも」
「やめてくれ」
「彼女とともに生きればいい。わたしはそれを助けることができるわ」
「やめろ、青珠」
冷たい石の床にうずくまり、激しく首を横に振って、ロズマリヌスは両手で顔を覆った。
「姫を逃亡者にしろというのか? 家族も故国も、皇女としての責任も、大切な人や物を全て捨てさせて? 何より彼女はこの国で幸せになる権利がある」
「大事なのはお互いの心よ」
「じゃあ、人間の心は精霊のそれより複雑なんだろう」
彼は立てた両膝に顔を伏して、あふれてくる感情を抑え込むように、巡礼の黒い布を巻いた頭を両手で抱えた。そんな彼を、青珠はじっと見つめていた。
「おれなんか、海に身を投げたとき、海の露と消えればよかったんだ。神に許されたから生かされたんじゃない。おれは神に呪われたから生きているんだ……!」
パウル二世が言う通り、本当に神に愛されている身ならば、なぜ、周囲から疎まれ、蔑まれ、人を殺し続けなければならないのか。
「この手は血に染まっている。おれは彼女と一緒にいてはいけない人間だ」
黙って彼の言葉を聞いていた青珠は、そっと彼の近くに歩み寄り、うずくまる黒衣の少年を見下ろした。
「では、わたしがあなたのそばにいるわ。皇女の代わりに。ずっと」
「青、珠……」
青珠はロズマリヌスの傍らにひざまずき、彼の右手を取って、その手の甲に口づけた。
「青鱗帝の青い石・青珠は、あなたを主に選びます」
それは石に宿る精霊が主に忠誠を使う言葉だ。
「だから、自暴自棄にならないで。生きて、ロズマリヌス」
「……」
ロズマリヌスは己の両腕の中に顔をうずめた。
心を見透かす精霊であっても、こんな涙は見せたくない。
青珠は彼の隣に腰を下ろした。
そして、黙って彼と一緒に夜を待った。
外は雨が降ってきたようだ。
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2022.11.12.