カルムの巫女姫

1.

 大陸暦一〇二〇年、五月──

 巡礼のユリウスと王子ユリウスは、黒曜公国を出て、タナトニア帝国に入った。
 商業都市・ケサドからは銀の街道を南西へ進み、大陸の西の都と呼ばれるタナトニア帝国の首都・ヘスベルを目指す。二人のユリウスが年若い方士を連れてヘスベルへ到着する頃には、五月はもう終わろうとしていた。
 ユリウス王子が故国の王宮を去ってから、優に半年以上が過ぎている。
「レキアテル王国は大陸で最も東に位置する国。私は、大陸の東から西の端まで来たのだな」
 感慨深げに王子がつぶやく。
 方士の少女・ディディルがそれに応えた。
「ヘスベルには海もあるのですね。何もかもが新しく感じます」
「ああ。世界は広い」
 宿をとって、馬を預け、三人はこの町の主祭神であるユピテルの神殿を詣でた。
 賑やかな首都の人ごみに紛れて歩いていると、いつの間にか、青い石の精霊も実体となって姿を現し、石のあるじに付き従った。
 壮麗な拝殿で祈りを捧げるユリウスたちから少し離れて立つ青珠のもとへ、ディディルがやってきた。
「お祈りは終わったの?」
「……ええ」
 二人は拝殿を出て、多くの参拝客が行き交う広い参道のわきに足をとめた。
 ディディルは物言いたげに蒼い髪の美しい娘を見上げた。
「青珠」
「なに?」
「青い石は水の石なのよね」
「ええ」
「水は、愛だと聞いたことがあるわ」
「……?」
 金褐色の髪を双髻そうけいに結った小柄な少女は、茶色の瞳でじっと精霊の白い顔をひたむきに見つめた。黒耀城からの脱出の際に青珠に助けられたディディルは、青い石の精霊を姉のように感じているのかもしれない。
「水は、どのようにでも形を変えて、全てのものを満たす。海のように広く、泉のように清く、雨のように恵みをもたらし、人の心にしみ込んでいく」
「……」
「あなたが珠精霊の中で、一番人間に近いね」
「わたしが?」
 驚いた青珠の瞳がディディルを映した。
「わたしは人間という種族を、必ずしも好いていないわ」
「それは、少なくとも、人間に対して何らかの感情を抱いているということでしょう?」
 参道に沿って植えられた樫の並木の葉陰に立つ二人の頭上で、その葉が風に揺れている。
 人々のざわめきが遠くに聞こえる。
「わたしは紅珠に会ったことはないけれど……翠珠も──黄珠でさえ、人間には全く無関心だわ。嫌いという感情さえ持っていない」
 ディディルは青珠から眼をそらし、うつむいた。
「わたし……時々、黄珠が怖い」
「怖い?」
「ええ」
 青珠は幼い方士のうつむく横顔を見つめた。
 少女は両手の指を組んだり解いたりを繰り返している。
「黒耀城を脱出するとき、黄珠はわたしを護ってくれたけど、それはユリウス様のめいだったから。わたしを護るため、人を殺すことに、黄珠は何の躊躇いも見せなかった。──怖かった」
「それが石に宿る精霊よ」
「でも、あなたは怖くない。あなたは愛することを知っているから。人間を──ユーリィを愛することができるひとだから」
「ユーリィは、人間であるとともにわたしの主よ。黄珠も──翠珠も、それぞれの主を愛しているわ」
「あなたは黄珠や翠珠とは違うわ」
 小さな声で、ゆっくりとディディルは断言した。
「黄珠にとって人間とは、主であるユリウス様の敵か味方か──それ以外には無関心。どうでもいいのよ」
「そうね。それはわたしも同じ」
 けれど青珠には、もう一人、ユリウス以外に忘れられない人間がいる。
 ふと、ディディルが声をひそめた。
「いま話していること、黄珠には聞こえているかしら」
「霊体になっているときに人間たちを監視しているわけではないわ。主の声が聞こえる場所にいる。あとは“無”よ」
 樫の並木の下に立っている二人のもとに、巡礼のユリウスと王子ユリウスがやってきた。
「お待たせ。行こうか」
 黒いユリウスの言葉に青珠がうなずく。
 ユピテル神殿を出た四人は、二手に分かれることにした。
「王子とディディルは宿で休んでいてくれ。僕は青珠と船を手配してもらえるかどうか頼んでくる」
「解った。頼むよ、ユリウス」
 タナトニアに来てから、彼らはカルム島を目指していた。
 沈黙の封印を解いたのが、緑の石の精霊・翠珠だと判っても、それに対し、彼らができることは具体的には何もない。神代の天狼帝国の黒牙帝の血を引くというセラフィムの存在は無視できないが、真っ向から対峙するのは危険であった。
 ならば、まずは情報を得ようと、賢者・ラウルスとも接点がある魔道師の島・カルムを訪ねてみることにしたのである。
 四帝時代から沈黙の時代、さらに目覚めの時代へと移ろうとする歴史の流れを知りたかった。
 そして、その中での天地の御子の役割を知りたい。
 港へ向かうユリウスと青珠を見送り、宿へ戻ろうとした盲目の王子は、方士の少女の気配が動かないことに気づいて足を止めた。
「ディディル?」
「あの……ユリウス様、わたし……」
「どうしたのだ? 何か心配事でも?」
 ディディルは意を決したように口を開いた。
「後悔……なさっていませんか?」
「何を?」
「……ユリアを、黒耀城から連れ出さなかったこと」
 王子ユリウスは見えない翡翠色の眼に軽い驚きの表情を浮かべた。
 ディディルは王子とユリアの関係を知っていたのだ。
「ユリアは黒耀城の人間だ。私たちの旅には関係ない」
「でも、ユリウス様はユリアのことを……」
「ディディル」
 王子は静かにディディルの言葉を遮った。
「ユリアという女性は、黒耀城が見せた幻影まぼろしだ」
「……」
「もう、私たちとは関わることのない女性なのだよ」
 刹那、懐かしむように口許に微かな笑みを漂わせた王子ユリウスは、その想いを断ち切るように踵を返した。
「この先は、ただひたすら前を見ていなければ進めぬぞ」
「ユリウス様……」
「だが、そなたはまだ十四歳の少女だ。いつでもメディオラに帰っていい」
「……!」
 ディディルはぎゅっと両手を握りしめた。
 生半可な覚悟では、この先、ユリウス王子に仕えることはできない。
「いいえ。ディディルはユリウス王子様の方士。どこまでもお供する覚悟です」
「そうか」
 歩き始めたユリウスに従って、ディディルも歩を進めた。
 子供扱いはされたくない。
 ただ、一生を王子ユリウスに捧げるために、前を向かなければと思った。
 王子が誰を愛しても構わない。
 覚悟を決めよう、と。

 黒いユリウスと青珠は、ヘスベル港にやってきた。
 大陸有数の大都市であるだけに、オプス・カエメンティキウムと呼ばれるコンクリートを用いて造られたそこは、堂々たる立派な港であった。
 タナトニア帝国はこの西の海──緇海しかいを隔てた国とも交易があり、それに力を入れている。つ国から得た品々は、銀の街道を通り、ケサド市を経て、主に大陸中央部のハザント市国で取り引きされる。そして、大陸各地へと渡るのだ。
 ハザント市国は別名・自由都市とも称される商業の盛んな都市国家であった。
 ヘスベル港には大きな船が係留され、人々が荷を運んでいた。
 海は凪いでいるが、ユリウスの視線の先──カルム島の方角には、仄白い霧がかかっているように見える。
「霧? こんなに晴れているのに」
「カルムは神秘の島だから」
 同じ方角に青珠も眼を向け、短く説明した。
「霧は島の防御壁よ。霧が見えるのはこちらからのみ。島の中からは見えないはず」
 近くの石段に一人の老人が座って海を眺めていた。
 ユリウスはその老人に声をかけた。
「こんにちは。旅の者ですが」
「ほう。巡礼者かね」
 巡礼の黒衣を身にまとう淡い金髪の美しい青年に老人は軽く眼を見張る。
 青年の左耳に青い石を象嵌した耳飾りが揺れる。
「カルム島へ行きたいのですが、定期便はないと聞きました。船を頼むには、どこへ行けばいいでしょう?」
「カルムからは商用の船が月に一度やってくる。島へ行くにはそれに便乗すればいいが、そうさのう、あと半月ばかり先になるかの」
「個人で船を出してもらえませんか?」
「ほれ、沖のほうに薄く霧が見えるじゃろう?」
 日に焼けた老人は海の向こうへくいと顎をやった。
「霧が船を拒んでおるのじゃ。霧が晴れるまで、カルムへは誰も船を出したがらんよ」
 ユリウスと青珠は顔を見合わせた。
「半月先は長いな。では、船を調達するにはどうすれば……」
「おまえさん方、二人でカルムへ渡るつもりかえ?」
「はい」
 老人は驚いて二人の顔をまじまじと眺めた。
「船は……そうさな。わしのところにもう使わん古い舟があるから、それを譲ってもよいが……」
「三人乗れますか?」
「ああ。じゃが、水主かこが見つからんじゃろう」
「それは大丈夫」
 蒼い髪の娘が淡く微笑んだ。
「わたしが舟を操れます」
「嬢ちゃんがかい?」
 再び老人が驚く。
 ユリウスはその場で老人と交渉し、古い小さな舟を格安で譲ってもらうことにした。

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2023.4.20.