カルムの巫女姫
2.
翌朝、老人から譲ってもらった舟で、二人のユリウスと方士・ディディルは、浜から海へと乗り出した。
港の中で人や荷を大きな船まで運ぶ大きさの舟だ。六、七人が乗れる。この浜はヘスベル港からは少し距離があるので、他の船の影は見えなかった。
水主がいなくとも水の精霊と風の精霊がいる。
櫂も舵も使わずに、舟は海の上をなめらかに滑った。
空も海も気が遠くなるほどに青く、遠い。
大気は澄んでいたが、緊張の中、舟に乗る三人は沈黙を守っていた。
「王子、必要なら僕の眼を使ってくれ」
「ありがとう、ユリウス」
交わした会話はそれだけだ。
沖には薄い霧が見える。
霧は目指すカルムの防壁だ。
その霧が次第に濃さを増していくと、舟の舳先に黄色い石の精霊が、船尾に青い石の精霊が実体を現した。
舳先に立つ黄珠が口許に持ち上げた掌に乗せて、ふっと息を吹きかけると、前方の霧が左右にさあっと道を開けた。
「霧が……」
ディディルが驚きの声を洩らす。
波を風を操る精霊たちによって、三人を乗せた小さな舟は、一定の速さで霧の中へと進んでいった。
どれだけの時間が経過したのか。
霧を分ける舟はひたすらに前進した。
「……」
じっと前方を見つめていた黒いユリウスが微かに眼を細めた。
「人だ」
「……!」
ディディルが隣に座る王子ユリウスと前の席にいる黒いユリウスを見比べ、その視線を黒いユリウスと同じほうへと向けた。
霧の中から現れたのは獣に乗った人間だ。
獣──それは一見、馬に見える。
「あれは……何ですか?」
震える声でディディルがつぶやいた。
「馬? でも、海上だし、馬にしては……」
「ヒッポカムポス──俗に海馬と呼ばれる魔物だ」
前方の人影を見つめたまま、巡礼のユリウスが低い声で答えた。
「魔物……」
息を呑む方士の傍らで、王子が言葉を引き取った。
「これも沈黙の封印が解かれた影響だろう。緇海に魔物が棲息しているということだよ」
彼らの舟に近づいてきた男の姿が次第にはっきりとしてきた。
馬に似た姿の獣の背に乗っている。
陸の馬にするように、獣には手綱がつけられていた。
獣は上半身こそ馬に酷似していたが、前脚に水かきがついており、胴体の後ろは魚の形をしている。その異形の部分は、海中にあってディディルにはよく見えない。
「何者だ!」
海馬を操るのは剣を携えた若い男だ。
カルム島の民・カリア氏族の特徴である浅黒い肌と黒い髪を持っている。
「この霧を抜けてここまで来るとは只者ではないな。名を名乗れ。おまえたちの目的は何だ」
誰何され、ディディルはおどおどと二人のユリウスを見比べるが、黒いユリウスも王子も動じた様子はない。口を開いたのは舳先に立つ黄色い石の精霊だ。
「族長を訪ねてきました。案内を頼めますか」
「なに? 族長だと……?」
男の眼がじろりと黄珠を見遣る。
「まあ……いいだろう。ついて来い」
男はやってきた方向へと引き返すように海馬を操った。
あまりに呆気ないやり取りにディディルは愕然としている。
「あの……? これは……」
「精霊の言葉が持つ暗示の効力だよ」
と、王子が説明したが、初めて目にする魔物や石の精霊の言霊の力を目の当たりにして、ディディルは現実味が全く感じられなかった。ふわふわと夢の中を進んでいるようだ。
海馬に乗る男について進むと、霧は嘘のように晴れた。と同時に、舟に乗るユリウスたちの目前に、真っ白い建物が点在する美しい島がみるみる姿を現した。
「カルム島……」
巡礼の黒い布を巻いた淡い金髪をなびかせ、黒いユリウスがつぶやいた。
彼の左耳に青い石を嵌めた耳飾りが揺れる。
この島で、何かが判るのだろうか。
* * *
カリア氏族の男に案内されて、ユリウスたちの一行は、海を臨む高台にある大きな神殿までやってきた。ここから見下ろす海は、どこまでも青く、濃い。
「族長はネプトゥーヌス神殿の神官長を兼ねておられる」
「取り次ぐことはできますか」
黄色い石の精霊が淡々と問うた。
「まあ、待っていろ」
神殿の中に消えた男は、しばらくすると、年老いた神官を伴って戻ってきた。
「何をしておるのだ、全く」
老神官は腹立たしげに男を叱責していた。
「侵入者を追い払うか捕らえるかしろと命じたのに、まさか、ここまで案内してくるとは」
「も、申し訳ありません、神官長様」
男は小さくなって老神官の背後に控えた。
浅黒い肌に灰色の髪と長いあごひげをたくわえたネプトゥーヌス神殿の神官長は、警戒の色を浮かべ、やや呆れたように訪れた一行を見遣る。
巡礼の黒衣に身を固めた淡い金髪の美しい青年。亜麻色の髪と翡翠色の瞳を持つ穏やかな雰囲気の青年。金褐色の髪を双髻に結った少女。
そして、三人の両側に、蒼い長い髪を後頭部に結い上げた繊麗な娘と、短い金髪の巻き毛が印象的な優美な娘がいた。
その二人の娘を見た老神官ははっとした。
「お嬢さん方は人間ではないな? まさか……精霊か?」
「その人に罪はありません。わたしの言霊でその人に案内を頼みました」
静かに金髪の娘が説明すると、亜麻色の髪の青年が口を開いた。
「初めてお目にかかります。突然、訪問した非礼をお許しください」
青年が軽く頭を下げたとき、彼の金のサークレットの、その中央に象嵌された黄色い宝石がきらりと光った。
「あなたがカリア氏族の族長ですね」
「さよう。ティトゥスと申す」
「私はユリウスと申します。怪しい者ではありません。レキアテル王家の血縁者です」
「レキアテルの?」
神官長が驚きの声を上げると、巡礼のユリウスが王子を見た。王子はその視線を感じ、軽くうなずく。
「いや、いいんだ、ユリウス。ここでは身許を偽らぬほうがよいだろう」
そして、両横に立つ二人を紹介した。
「こちらの巡礼の者はユリウス。私と同じ名です。この少女は方士でディディルといいます」
「ユリウス……まさか、レキアテル王国の、第一王子殿下か」
「私の名をご存じですか?」
「族長たる者、大陸の各国の情勢には常に気を配っておる。確か……先日、弟君が立太子の儀を終えられましたな」
はっとしたディディルが傍らの王子を見上げた。
「アウリイが、王太子に……?」
見えない眼を見開き、王子ユリウスは心底嬉しそうに微笑んだ。
アウリイが王太子になったということは、父王や弟が彼の手紙を読み、その心情を汲み取ってくれたということだ。
「そうですか。それは嬉しい知らせです」
「レキアテルからこのカルム島までいらしたのなら、さぞお疲れだろう」
ティトゥスが背後に控える男に何か命じると、うなずいた男は一行に一礼して、神殿の奥の建物のほうへ走っていった。
青い眼の光を和らげ、老人は訪問者たちに両手を広げる。
「カリア氏族の族長として、殿下とお連れの方を客人として歓迎いたしますぞ。それに、お嬢さん方が私の考える通りの精霊なら、たいそう興味深い」
ティトゥスは、さりげなく王子のサークレットの黄色い石を見、黒衣の青年の耳飾りの青い石を見た。
「まずは、部屋を用意させましょう」
カリア氏族の族長・ティトゥス神官長は、ユリウスたちを、神殿の敷地の奥にある神官や巫女たちの宿舎に案内した。
「空いている僧房がある。まずは、そこでおくつろぎください」
白い建物は、古いが、清潔で手入れが行き届いていた。ティトゥスは食堂や広間の場所を簡単に説明した。
「午前中は時間が取れぬが、昼食をご一緒に如何かな」
「ありがとうございます。喜んで」
「それではそのときに。午後はあなた方のお話をうかがおう」
「お気遣い、感謝します」
二人のユリウスが礼を述べる。
「神官長様」
「おお、ちょうどよかった」
そこに、ネプトゥーヌス神殿の白い巫女の装束をまとった背の高い女がやってきた。長い黒髪を一本に編んで背に垂らした若い女だ。
「こちら、客人だ。高貴な方だから、そなたに客人方の世話を頼みたい」
「承知いたしました」
その巫女は、鷹揚に客人たちのほうを振り向いたが、黒いユリウスをひと目見るなり、はっとなって大きく眼を見張った。
「その耳飾り──!」
驚きにすぐ言葉が出ないようであった。
ユリウスが怪訝そうな表情になる。
「あなた。その耳飾りをどこで手に入れたのですか?」
「耳飾り? エクノイの小さなネプトゥーヌス神殿ですが」
ユリウスは微かに首を傾けた。
その左耳に紺瑠璃の石を嵌めた優美な耳飾りが揺れる。
カリア氏族の者たちは、皆、浅黒い肌と黒い髪を持ち、眼の色は青か緑だ。だが、この巫女は髪こそ黒いが、肌の色は白く、黒い瞳を持っていた。
ユリウスの後ろから巫女のほうを覗いた青い石の精霊が、咄嗟に声を出した。
「! あなたは──」
「知り合いか? 青珠」
ふと、ユリウスが青珠を顧みる。
青珠は巫女から石の主に視線を移し、ゆっくりと確かめるように言葉を紡いだ。
「……ユーリィ、この人は、タナトニア帝国の第一皇女・イェソルテ姫よ」
2023.6.5.