カルムの巫女姫
3.
「タナトニア帝国の第一皇女……?」
その場にいた者たちは皆、目を見張った。
その言葉に一同は驚きを隠せない。
「青珠、本当か?」
「そんな身分の方が、なぜここに?」
ユリウスたちの視線を受けた黒髪黒瞳の巫女は、困惑したように訪問者たちを見返した。
「わたくしは確かにイェソルテですが、今は一介の巫女です。帝室とは係わりありません。それより──」
言葉を続けようとする黒髪の巫女を老神官・ティトゥスが制した。
「何やら因縁があるようだが、イェソルテ殿、まず客人を僧房へ」
「は、はい。失礼いたしました」
イェソルテが慌てて頭を下げる。
「皆様、どうぞこちらへ……」
神官や巫女たちが寝泊まりする僧房に、狭くはあるが、一人一部屋ずつ個室が用意された。
「お世話になります」
礼を述べ、各自がそれぞれの部屋に荷を置きに行くと、廊下に残った蒼い髪の娘に、イェソルテは不審の目を向けた。
「なぜ、わたくしのことを知っているのですか?」
巡礼のユリウスがすぐに部屋から出てきた。
そちらを見遣ったイェソルテの瞳が、再びまっすぐ青珠に向けられる。
「あなたとは初対面のはずですが」
「ロズマリヌスを覚えている?」
青珠が発するその名前に、イェソルテははっとなった。
「あなた方は、やはりロズマリヌスと係わりが? そちらの方の耳飾りは……わたくしがロズマリヌスのために作らせたものです」
ユリウスの左手が耳飾りに触れた。
──彼には恋人がいたの──
そう言っていた青珠の言葉がよみがえった。
ロズマリヌスの故郷に、彼のために耳飾りを作らせたひとがいた。
つまり、この女性が彼の……
「殿下」
つぶやくようなユリウスの呼びかけに、巫女は哀しげに苦笑した。
「殿下はやめてください。今のわたくしはただの巫女です」
「では、なんとお呼びすれば」
「ただ、イェソルテ、と。周りの人たちはわたくしを巫女姫と呼びます」
「では、イェソルテ姫」
イェソルテの瞳がふっと翳りを帯びた。
かつて、ロズマリヌスが彼女をそう呼んでいた。
「ロズマリヌスは生きています。たぶん今も」
「生きて……」
「それが知りたかったのでしょう?」
物憂げな美しい青年の言葉に、イェソルテは両手を組み合わせ、深い息を吐き、祈るように、すがるように目を閉じた。
「……ロスマリン……」
「僕たちは、去年、彼に会いました」
「彼は元気でしたか?」
「……」
彼は殺し屋として生きている。
どう答えればいいのかとユリウスが青珠と目を合わせると、イェソルテは固く両手を握り合わせたまま、軽く首を振った。
「無事で、生きていてくれればそれでよいのです」
こぼれそうな涙を抑え、イェソルテはユリウスと青珠を交互に見て言った。
「そのときの彼の様子を聞かせてくれませんか。あ……でも、お疲れでしょうから」
ユリウスはやさしい眼差しを蒼い髪の娘に向けた。
「青珠、僕は席を外すよ」
彼の意を汲み、青珠がうなずく。
「わたしが姫のお相手をするわ」
「でも、あなたも旅の疲れが」
「わたしは平気。あなたに時間はある?」
「はい」
遠慮がちにイェソルテがうなずくと、青珠は呼応するようにうなずき返した。
* * *
神官たちの宿舎には、建物に囲まれた中庭があった。
きらめく陽のもと、イェソルテは青珠をその庭の東屋に案内した。
庭にはロスマリヌス──ローズマリーの花がたくさん咲いている。
「彼の花ね」
青い可憐な花の群れを見て青珠がつぶやくと、イェソルテも遠い眼差しで微笑んだ。
「海の露──海の雫……彼が生まれる前から、この庭にはロスマリヌスの花が咲き乱れていたそうです。ところで、あなたの名前は?」
「青珠です」
「青珠さん……やはり、わたくしはあなたを知らないわ。どこかでお会いしましたか?」
二人は東屋の質素な木のベンチに腰を下ろした。
「あなたがロズマリヌスと別れた日、彼と一緒にいた女を覚えている?」
「え……?」
イェソルテは青珠の顔を穴が開くほど見つめた。
「まさか──あのときの……?」
イェソルテがロズマリヌスと別れたのは十六歳のとき──十三年も前だ。
現在、彼女は二十九だが、目の前にいる娘は、どう見ても、いま十六、七だった。
「あのときは暗かったし、混乱していたので、彼といた女性の顔など覚えていません。でも、それがあなただとすると、年齢が……」
「歳を取っていないのは、わたしが精霊だから」
「……」
蒼い髪の娘を見つめたまま、イェソルテは愕然と眼を見開いた。
「精……霊……?」
「あの耳飾りの青い石。わたしはそれに宿る精霊」
「……!」
驚愕したイェソルテは思わず立ち上がり、青珠を見下ろした。
「精霊……青い石の精霊ですって……?」
庭の一面のローズマリーの上を、さあっと風が走った。
数多の青い花が波のように揺れる。
イェソルテの前に座っているのは、結い上げた長い蒼い髪と青い瞳を持つ、碧羅をまとった清楚な娘。その娘はただの人間のように、そこに存在し、静かにイェソルテを見返している。
「伝説の……四宝珠のひとつの? ロズマリヌスは、その青い石の主だったのですか……?」
「彼があなたに別れを告げた日、わたしはロズを主に選んだわ」
「では、なぜ……なぜ、あの耳飾りは違う人の手にあり、あなたは彼のそばにいないのです。彼にはあなたがいると思っていたのに、あなたは彼を捨てたのですか?」
しぼり出すように言うイェソルテのその声には涙が混じっていた。
「彼に大切な人がいると思うから、わたくしは身を引いたのに──」
「捨てたというなら、それは彼のほう。彼は青い石を手放した。彼が石を捨てた以上、石に宿る精霊のわたしは彼のそばにはいられない」
「……」
イェソルテの黒い瞳からはらはらと涙がこぼれた。青い海の雫のように──
「……ロズマリヌスの真珠ね」
彼女の両耳につけられた真珠のピアスを見て、青珠はけぶるようにつぶやいた。
「わ……わたくしには、これしか残されていなかったから」
「ロズの真珠をつけて、彼が故郷に戻ってくるのを待つつもりだったの?」
嗚咽を抑えようと両手で口許をおおいながら、イェソルテは首を横に振った。
「彼はここに戻ってこないでしょう。でも、わたくしは彼の代わりに、彼の故郷で暮らしたかったのです」
「ロズの代わり?」
「本来、彼が送るはずだった生活……彼が見るはずだった景色……係わるはずだった人々……」
もし、神への贄として捧げられることがなかったら──
彼は違う名で違う人生を送っていただろう。
おそらく平凡な人間として、このカルム島で幸せに暮らしていた。
イェソルテは在るべきだったロズマリヌスの人生を代わりに送ろうと思ったのだ。
「あなたは従兄と結婚するだろうと思っていたわ」
青珠の言葉に、イェソルテは淋しげに微笑んだ。
「ダルティウスとわたくしの間に恋愛感情はありません。兄妹のようなものです。ダルティウスはタナトニアの政に強い関心がありました。だから、帝室を捨てたわたくしと結婚するはずありませんわ」
「身分を捨てたの?」
「ええ。ダルティウスが欲しかったのは皇女の夫という位置。現に彼はわたくしの妹と結婚し、皇帝の政を助けています」
「姫は全てを捨ててカルムに来たの? ロズを愛していたから?」
イェソルテはまっすぐに青珠を見て微笑んだ。
そして、やや恥ずかしげに頬や睫毛の涙をぬぐう。照れ隠しのように、視線を流して庭の花々を見遣り、彼女はわずかに瞳を伏せた。
「感傷的にすぎますわね。でも、あの頃のわたくしに他の選択肢はありませんでした」
青珠はじっとイェソルテを見つめた。
「西帝はすぐに許してくれた?」
「すぐには無理でした。ロズマリヌスが逃亡したことで、わたくしの言動にも好奇の目が向けられましたから」
帝室と縁を切り、カルム島で巫女になりたいとイェソルテが告げたとき、パウル二世は激怒したという。
それでも、イェソルテの意志は変わらなかった。
「わたくしは一年ほど謹慎して、その後、皇帝が折れました」
聡明な愛娘が帝室を去ろうとしていることに、パウル二世は怒り、悲しみに暮れた。
だが、皇妃をはじめ、家族や侍女たちがどんなに説得しても、イェソルテは、ロズマリヌスを暗殺者として育てた父を許すことができなかった。
それがこの国のやり方ならば、自分は帝国の政に携わることなどできないと感じたのだ。
「外聞が悪いと、皇女の身分を捨てることは許してもらえませんでしたが、斎姫として帝室から遣わされるという形でなら、カルムに移ってもよいと」
「それからずっと、巫女としてカルムに?」
「ええ」
風が渡る。
ローズマリーの庭を背に立ち、ゆっくりとうなずく皇女は、どこか誇らしげに見えた。
2023.7.8.