カルムの巫女姫
4.
中庭に咲く一面のローズマリーの花々が風に揺れている。
「どうぞ座ってください、イェソルテ姫」
イェソルテはやわらかく青珠を見つめ、彼女の隣に優雅に腰を下ろした。
「青珠さん──」
「青珠と呼んでください、姫」
「……青珠、あなたは……ロズマリヌスの恋人だったのですよね?」
青珠はうつむき、少し考えるような眼差しをした。
「恋人、と言い切れる瞬間はなかったかもしれない。わたしはロズを愛したけれど、それはたぶん、彼にとって重荷だったと思うから」
「重荷……」
「六年ほど、わたしは彼と行動をともにしました。でも、彼は逃げた。姫の愛情から逃げたように」
「わたくしから、逃げた……?」
「姫が彼との逃亡を決意したとき、彼はあなたを拒んだわ」
「あれは──」
イェソルテは哀しげに眉根を寄せて、小さく首を振った。
「あのときの判断は、彼が正しかったと思います。わたくしが子供すぎました」
ふと、青珠はあのとき彼が言った言葉を思い出した。
姫を逃亡者にしたくない。
人間の心は精霊のそれより複雑なのだと。
「姫にはロズの気持ちが解るのですね。ロズは姫の幸せを気にかけていました」
「あのとき、あのまま二人で国を逃げ出しても、わたくしたちに未来はなかったでしょう。何も知らない十六の子供が二人で生きていけるほど、世間は甘くありません」
青珠は顔を上げてイェソルテを見た。
「わたくしはあまりにも世間知らずでした。一緒に行っても、それこそ、彼の重荷にしかならなかったでしょう。巫女として生きることを選び、この神殿に来て、それが身にしみて解りました」
「イェソルテ姫」
強い女性だと青珠は思った。
愛し合い、ともに生きることを望んでもそれが叶わないのであれば、離れていても、ただ愛し続ける。
ロズマリヌスへの愛を貫くことが姫の矜持なのだ。
「わたくしはこの島が好きです。ここにいることに満足しています。あとは、ロズマリヌスがどこかで幸せに暮らしていると判れば……」
「彼は自分を呪っている」
イェソルテの黒い瞳が、遠くへ視線を投げる青珠の横顔を見つめた。
「彼は自分自身の存在を肯定できない。呪われた身であることから逃れられない」
「呪われてなど……」
「彼がそう思っている。彼が、彼自身が、自分を許せないの」
青珠は視線を上空へと向けた。
「だから、他者から愛され、許されてはいけないと思っている。そういうものを恐れ、自分から手放してしまう」
「……」
イェソルテは言葉を失い、うつむいた。
彼女はしばらく黙ってうつむいていたが、やがて、覚悟を決めると、硬い声で青珠に言った。
「次はあなたが話してくれますか。──ロズマリヌスのこと」
「……ええ」
* * *
昼食のために食堂へ向かおうと部屋を出たユリウスは、中庭で話し込む青珠とイェソルテの姿を遠目に見た。
十年以上の歳月を経ても、それは精霊にとっては昨日のことのように近い出来事なのだろうか。ロズマリヌス──彼は今どこで何をしているのだろう。
「ユリウス」
ふと、その声に振り向くと、隣の部屋から王子ユリウスとディディルが出てきたところだった。
「不思議な縁だね。青珠とこの国の皇女が知り合いだったとは」
「二人には共通の知人がいる」
うなずき、ユリウスは中庭にいる二人に視線を向けた。
そんな彼の指先が左耳の耳飾りに触れる。
「古い……けれど、大切な人が」
* * *
青い石の精霊は、青い、ローズマリーの花の群れのその先に、過去を見つめるように遠い眼差しを注いだ。
その花と同じ名を持つ人のことを想う。
大陸暦一〇〇七年、九月。
タナトニア帝国を逃れた十六歳のロズマリヌスは、巡礼の装束に身を包み、青い石の精霊・青珠とともに、国境を越えた。
一番近い隣国は、都市国家のレアテだ。
そこから北へ進み、巡礼者が髪に巻く黒い布で髪の色と顔を隠し、追手を警戒しつつ、移動しながら生活できる場所を探した。
ロズマリヌス自身が優れた窺見であり、また、青い石の精霊も付き従っていたため、帝国の追手から逃れることは難しいことではなかった。
難しいのは普通に暮らすことだ。
どんな職に就こうが、額の刻印が偏見の目を生む。
一度神に捧げられた贄として疎まれ、特異な存在と見做され、まともな職を得ることができない。ただ、彼の美貌が女たちを惹きつけた。
しばらくの間、彼は女のもとを転々とした。
だが、イェソルテ皇女とのつらい別れを引きずる彼は、どんな女にも心を開けない。心の繋がりを持てない女たちに養われる生活など、虚しいだけだ。
その頃、タナトニア帝国やレキアテル王国などの大国は別にして、大陸北部のセイル地方や南部のヴァルカン地方では、小国同士の小競り合いが絶えなかった。
どこの国も、兵はどれだけ集めても足りないくらいだ。
傭兵はどの国でも歓迎された。
自分にできるただひとつのこと。
タナトニアで兵士として訓練されたロズマリヌスは、市井の生活を捨て、傭兵になった。
大陸暦一〇〇八年。
ロズマリヌスは、とある国に傭兵として雇われた。
傭兵には多種多様な人々が集まる。肌の色も、髪の色も。
そういった意味では気が楽だったが、そこでもやはり、生贄の刻印を持つ彼は敬遠された。
際立った美貌と朱の刻印が、彼を特別なものにする。戦場でどれだけ手柄を立てようが、彼は孤独だった。
夜、幕営の外で、独り星を眺めながら、幾度も自問自答をした。
毎日、上官に命じられるままに敵兵を殺す。
タナトニアの西帝のもとで暗殺をしていた頃と、何が違うのだろう、と。
「ひとたび戦になれば、兵士は人を殺すもの。当然でしょう?」
と、青珠は素っ気ない。
「タナトニアは戦争をしていなかったから、訓練はしていても、防衛以外の理由で兵が動かされることはなかった。でも、ここは戦場よ」
「頭では解っている。だけど、青珠」
ロズマリヌスは浮かない様子で背後を振り返る。
闇の中、陣営の天幕が不気味な影となって威圧してくるようだ。
青珠の存在だけが、彼の癒しだった。
「こんな生活を続けていると、頭がおかしくなりそうだ」
髪をかき上げ、うつむくロズマリヌスの左耳の、青い石を嵌めた耳飾りが気だるげに揺れた。
所属している地域の戦争が一段落すると、そして、傭兵としての契約が切れると、国を移して新たな傭兵の職を探す。
そんな暮らしを繰り返した。
額の刻印への偏見や差別はどこへ行っても相変わらずだ。
集団の中にいると孤独が際立つ。
ロズマリヌスの精神は徐々に限界を迎えていった。
大陸暦一〇〇九年。
ある夜、ロズマリヌスは、突然、所属している部隊の上官に呼び出された。
「お呼びですか」
会議用の天幕に入る。
広い天幕の中には、椅子代わりに粗末な木箱が並べられ、周囲を取り巻く棚の複数のランタンに灯が点されている。訪れたロズマリヌスをちらりと見遣った上官は人払いをした。
「ロズマリヌスといったな」
「はい」
「目覚ましい活躍をしているとか」
「は……」
ロズマリヌスは言葉を濁した。
戦場で目覚ましい活躍をしているということは、それだけ多くの人間を殺しているということだ。
「他の兵たちがおまえのことを何と称しているか知っておるか?」
「……」
「死神……いや、天使だ。死を告げる美しい天使。おまえと対峙した敵は必ず死ぬ。告死天使のようだと」
上官は思わせぶりにロズマリヌスを斜めに見遣る。
「死神といえばな、噂を聞いた。タナトニア帝国から流れてきた男が言っていた」
ロズマリヌスの視線が微かに動いた。
「タナトニアの西帝は、かつて死神を飼っていたと。その死神は、絶世の美男で、額に生贄の刻印を持っていたそうな」
「……!」
唇を噛み、ロズマリヌスは上官の次の言葉を待った。
「おまえが西帝の死神だな? 武器の扱いも見事だと聞く。暗殺の訓練を受けたというのもまことのようだ」
「……私にどうしろと?」
「我が軍のために死神として働け。単身で、敵軍の将を殺めてくることを秘密裏に命じる」
淡々とした上官の言葉にロズマリヌスは息を呑んだ。
「暗殺など卑怯です。正々堂々と戦わないのですか」
上官は眼を眇めて奇妙な顔をした。
「戦争をしているのだぞ? 卑怯も何もあるか。大勢の兵士が死ぬより、敵将一人が死ぬほうが、何倍も効率が良い」
道理だ。
戦争とはそういうものだ。
だが、暗殺者であった過去を思い出したくないロズマリヌスは、頑なに首を横に振った。
「嫌です──もう誰も殺したくない」
「何を言っておる、雇われ兵風情が。おまえに拒否権などない。その代わり、成功報酬は弾んでやるぞ」
ロズマリヌスはぎゅっと手を握りしめて眼を閉じた。
激しい苦痛を感じる。
そのとき、耐え続けてきたロズマリヌスの内なる何かが一気に弾けた。
2023.8.29.