カルムの巫女姫

5.

 ふっと複数のランタンの灯が消えた。
「何事だ──!」
 緊張が走り、身構えた上官の背後にだけ、たった一つ、灯の点されたランタンが残っている。
 上官の足許から、濃い影がロズマリヌスの足許に向かって伸びる。その床の影の、心臓のある辺りをロズマリヌスの軍靴が踏みつけた。
「ぐっ、ぐわあっ!」
 苦悶に満ちた叫びが上がった。
──もう嫌だ……おれは戦場を離れる。どうせ逃亡者なんだ。脱走兵になろうがどうでもいい」
「ぐ……ぐうっ」
 上官は心臓を押さえてうずくまった。
「あんたの言う通りだ。おれと対峙した奴はみんな死ぬ」
 冷めた眼を伏せ、茫漠とした声でそう言うと、ロズマリヌスは腰の剣を抜き、上官の影の心臓部分──軍靴で踏みつけている床に突き刺した。
「ぐふっ……」
 天幕の中に一つだけ灯されたランタンの光が作る大きな影。
 不気味な薄闇に断末魔の呻きが聞こえたあと、どさっと男の身体が倒れるのと、床から剣が引き抜かれるのとが同時だった。
 吐息のようなつぶやきが洩れる。
「何も言うな、青珠」
 それからのロズマリヌスの動きは素早かった。
 上官の屍体をそのままに、人目を忍んで急ぎ荷をまとめ、三日分の食料と馬を一頭盗んだ。
 その馬の影に人差し指を置き、呪文を唱える。馬はロズマリヌスを乗せ、蹄の音を立てずに走り出した。
 陣営から脱走して夜闇の中を一時間ほど走り続け、とある村で馬は止まった。
 数日前にここで戦闘があった。
 戦場になる前に村人は逃げ出していたが、村は火を放たれ、破壊され、戦死した兵士たちの骸があちこちに放置されたままだ。
 ひと気のないその村の、焼け残った民家のわきの木に、ロズマリヌスは馬をつないだ。黒くすすけたその家で夜を明かすことにする。
 青い石の精霊・青珠がふわりと姿を現した。
「言いたいことは解っている」
 荷を下ろし、壁際に座り込んだロズマリヌスは、青珠を見ずに硬い声で言った。
「おれは魔術を扱うことができる。この力は封じていたが、もう限界のようだ」
「ただの魔術じゃない。相当優秀な魔道師レベルね。どうして黙っていたの?」
 ロズマリヌスは自嘲するようにはっと息を洩らした。
「おれが修得したものじゃない。呪われた力だ」
 ぽっと空中に火が灯る。
 灯りの代わりに青珠が作り出した精霊の火だ。
 彼女はロズマリヌスの隣に立ち、壁に背をもたれさせた。
「その額の刻印と引き換えに、海神に与えられた力?」
「そう。親父から引き継いだ魔力だ」
「お父様の……?」
 ロズマリヌスを海神に捧げた実の父親──
「親父は優れた魔道師だったらしい。だが、増長した。魔道師としての最高の栄誉は魔術をもって裏から大陸を支配することだと狂信した」
 それを神に望み、自らの野望の代償として、実の息子を神への贄に差し出した。
「行き過ぎた望みは神への反逆だ。結局、親父は生贄として差し出した息子に殺された。殺したのはおれの意思だが、神が導いた結果だとも思っている」
「なぜ?」
「親父を殺したあと、十日間もこの世の終わりのような嵐になった。神の怒りだと思い、おれは死ぬつもりで海に身を投げたが、でも、死ねなかった」
 生まれて三月みつき余りで実の父に海神への生贄とされ、それを咎めた母も父によって殺された。
 九歳のとき、父を手にかけ、嵐の海に身を投じたが、首都・ヘスベルの浜に流れ着き、奇跡的に生き延びた。
 生き延びたものの、額の刻印を忌み嫌う人々に奴隷として売られ、何年かのちに国の最高権力者に買い取られた。皇帝のもとでは暗殺者として教育され、命じられるままに人を殺した。
「親父は影を使う魔道師だったと聞いている。親父が死んで、その力が、そのままおれのものになった」
 ロズマリヌスが手を一振りすると、彼の影が生き物のように動き、精霊の火を覆う。刹那、そこは暗闇になった。
「どうしておれが石に宿る精霊の視線に気づいたか、これで解るだろう?」
「海神があなたという存在に介入しているから?」
「そうだ」
 彼が手を振ると、火を覆っていた影はふっと消え、元通り、精霊の火が荒れた室内を照らす。
「人間とは、愚かな種族ね」
 青珠がぽつりと言った。
「身の程をわきまえない。己を顧みず、他者を蔑む。何事も在るがままを見ていれば、自ずと成すべきことが判るでしょうに」
 実の子の生命を己の利欲の代償にする親。
 生贄の刻印を持つという理由だけで、九歳の子供に差別的な目を向ける人々。
 そういう過去があるだけで、ロズマリヌスはまともな一個の人間だ。なぜ、ここまで差別されなければならないのか青珠には理解できない。
「……もう疲れた」
 灰色の髪をかき上げ、額の紋様に触れ、眼を伏せたままロズマリヌスはつぶやいた。
「どうあっても海神の呪いから逃れられないのなら、おれらしく生きてやるさ」

 その年──大陸暦一〇〇九年の早春、大陸に大きな動きがあった。
 白い都・レアテ市国の連合軍が、大陸北部のセイル地方のドール王国・ヴァントラ王国との戦争に勝利した。
 俗に「北攻め」と呼ばれるこの戦いで、大陸の各国の勢力図が微妙に変化し、大陸南部・ヴァルカン地方での小国同士の戦争も次第に縮小していった。
 傭兵の需要は減り、代わりに各国の間諜の動きが活発になった。

 自分らしく生きるとロズマリヌスは言った。
 だが、彼が選んだ主な仕事は殺しだった。
 情報を売り、暗殺の仕事を請け負う。それはタナトニアにいた頃と何ら変わらない。
 これまでと違うのは、自分で仕事を選び、積極的に魔術を使うようになったことだけだ。
「あなたらしくって何?」
 青珠は彼に問うてみたことがある。
「平凡な生活を送るほうが、あなたらしく生きられると思うわ」
「今さら平凡に生きられると思うか? 海神の御心に沿って生きるのが、おれに許された生だ」
「人殺しを生業にすることが、海神の御心に沿うことなの?」
「おれの手についた血は拭えない。この業を背負っていくしかない。もとの傭兵仲間が、告死天使の名を宣伝してくれるだろうよ」
 ロズマリヌスは淡々としていたが、青珠は釈然としなかった。汚れ仕事をあれほど嫌っていたはずの彼があえて殺し屋を選んだことに、彼女の心は痛んだ。
 精霊の力で人々に目くらましをかけ、ロズマリヌスを普通の生活の中に溶け込ませることはできる。
 だが、それは彼という存在を否定することにもなる。
 他者に弱さをさらけ出すことはロズマリヌスのプライドが許さなかった。それが己の使い魔であっても。
 一ヶ所にとどまらずに拠点を変えながら、殺し屋として生きることにした彼は、訪れた土地で彼に想いを寄せる娘が現れても、そういった情を拒絶した。
 全てのものから心を閉ざし、守り石だけを拠り所に生きるなら──
 自分が彼のそばにずっといよう、そう青珠は思った。

* * *

「不器用な人……」
 伏せた瞳に涙を湛え、イェソルテは掠れた声でつぶやいた。
「罪を重ね、自分を傷つけることでしか己を保てないなんて」
 蒼穹の下にローズマリーの花々が揺れている。
 この花と同じ名を持つ人は、今も独りで呪われた生を生きている。
 青珠もイェソルテも知る由もないが、我が子を生贄にしたロズマリヌスの父に下った神託は、さらなる血が流れる、というものだった。
 生贄の祭壇から救出されたロズマリヌスの手によって、皮肉にも血は流され続けることになる。
「それで、あなたと彼は……」
 イェソルテは言いかけて、躊躇った。
「ごめんなさい。無神経でしたわね」
「わたしこそ、姫にロズが殺し屋になったことを話すべきではなかったかもしれない。無神経だったでしょうか」
「いいえ、真実を知らないほうがつらいわ。わたくしは大丈夫です」
 彼女は涙をぬぐい、青珠に向かって霞むような微笑を見せた。
「巫女姫様」
 中庭の東屋のベンチに座る青珠とイェソルテのもとに、二人の幼い少女がやってきた。
 巫女見習いの少女たちだ。
「巫女姫様、ここにおられたのですか」
 二人は神殿の客である青珠に気づき、慌てて会釈した。
「お食事をとってあります。早くしないと、片付けられてしまいますよ」
「お客様も食堂へどうぞ」
 イェソルテは優雅にベンチから立ち上がった。
「わたくしを捜してくれたのですね。いま行きます」
 そう言って少女たちに微笑む皇女の顔は、やさしい、一人の巫女の顔だった。
 彼女にはここでの生活がある。
「ありがとう、青珠。わたくしは何もできないけれど、ロズマリヌスのために祈ります」
 青珠は軽くうなずいてみせた。
 黒髪黒瞳の巫女は、二人の少女を伴って、宿舎の食堂のほうへと歩いていった。
 三人の後ろ姿を見送り、青珠はゆっくりと空を仰ぐ。
 この同じ空の下で、大陸のどこかで、ロズマリヌスも生きているのだろう。
「青珠」
 不意に呼ばれ、そちらへ顔を向けると、巡礼の黒衣に身を包んだ美しい青年がたたずんでいた。
 彼の左耳に青い石の耳飾りが揺れる。
「……ユーリィ」
「姫と話せた?」
「ええ。これでいいのかは解らないけど」
「正解なんて、どこにもないよ」
 ベンチに座る青珠に歩み寄り、ユリウスは明るい陽射しに眼を細めて、中庭の花々を眺めた。
「今、正しいと思うことをするしかない」
「そうね」
「戻ろうか」
 振り向いたユリウスが青珠に片手を差し出すと、軽くうなずき、その手を取った青珠も立ち上がった。
 ローズマリーの花の群れが清かな風に揺れている。
 花はどこまでも無言だった。

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2023.9.27.