二十年目の夏至

1.

 朱羽暦三五五年、大陸に“沈黙の封印”が施される。
 その年が大陸暦元年となった。
 魔族が封印され、魔神たちが支配していた時代が終わり、人間たちが大陸の覇者となる。
 魔族の沈黙のもと、人間たちは自由を得、その時代は“沈黙の時代”と称された。
 沈黙の時代は約千年続き、だが、“沈黙の封印”が解かれた今、大陸は次なる時代・“目覚めの時代”へと移行しつつある。
 魔族の目覚め──
 それは、静かに大陸に影響を及ぼし始めている。

「あ、鳥だ」
 ヘスベルの港で小さな男の子が立ち並ぶ倉庫街の屋根を見上げて叫んだ。
 男の子はつないでいる母親の手を引っ張って嬉しそうに言う。
「見て見て、綺麗な鳥」
「どこ? 見えないわよ」
 母親はそのほうへと視線を向け、眼を細めた。
 それは鮮やかな鳥だった。
 港町には不似合いなほどだ。
「あ、いなくなった」
 人々が行き交う活気のある港町。
 その港の巨大な灯台の上に、倉庫の屋根から消えた色鮮やかな鳥が、空間から滲み出るようにふっと姿を現した。真紅の羽に黄色と緑の尾羽、白い頭に小さな鶸色の冠羽、嘴の下は鮮やかな青。一キュビットほどの美しい鳥。
 彩羽さいは
 朱夏の魔女・ファティマに飼われていた鳥──否、鳥の姿に変えられた人間だ。
 彩羽は潮風を苦手だと思った。
 鳥になったから苦手になったのか、人間だった頃から嫌いだったのか、それは解らない。
 目の前には青い海が広がっていた。
<彩羽、今どこにいる。報告しろ>
 不意に“声”が頭の中に直接流れてきた。
 彩羽は面倒そうにため息をつく。
「ヘスベルだ。港にいる」
<ユリウスもか?>
「ユリウスたちは、今朝、カルム島へ向かった。まだ港に戻っていない」
<追わないのか?>
 再び彩羽はため息をつく。
「霧が邪魔で島に入れない。進んでも進んでも霧の中だ。万華鏡の術で、何とか港に戻ることができた」
<結界か>
 “声”の主はふんと鼻を鳴らした。
<まあいい。おまえは引き続き、ユリウスの様子を見張れ>
 華やかな鳥は眼を閉じ、気だるげに首を振る。
 もといた朱夏の館を想った。
 真夏の大気に澄んだ風。豊富な果物。広大な庭園。噴水。白亜の館に美しい女主人。
 見方を変えれば、確かに彼は楽園にいた。
 人間としてのプライドにさえ目をつむれば、何もかもが美しい世界にいたのだ。
 今、ここにいることが、ひどく場違いな気がした。


 ユリウスの碧い瞳が、対座するカリア氏族の族長を映していた。
 名をティトゥスという族長は、ネプトゥーヌス神殿の神官長をも兼ねる。灰色の髪と灰色の長いあごひげをたくわえた、浅黒い肌の矍鑠かくしゃくとした老人だった。
「神官長様」
 ネプトゥーヌス神殿の応接の間に、巡礼のユリウスと王子ユリウス、そして青珠、黄珠が、ティトゥス神官長と向かい合わせに座っていた。
 広くはないが、居心地のいい部屋だ。
 ティトゥスの後ろには副神官長と族長の補佐官の二人が、ともに話を聞くために控えている。長細い低いテーブルには人数分のハーブティーを巫女見習いの少女たちが運んでくれた。
「では、ヒッポカムポスの存在を隠すために、この島の周りに霧を?」
「そういうことになるな」
 ディディルは、イェソルテに案内され、そのヒッポカムポスを見に行っている。
 海馬とも称されるそれは、一見すると馬のようだが、胴体から下は海洋生物のような、海の魔物である。この島の民は、海馬を飼い慣らしているのであった。
「確認しているだけで十数頭いる。あれたちが港まで出没しては、人々はパニックに陥るだろうよ」
「ヘスベルの市長やタナトニアの皇帝は……」
「皇帝陛下はご存じだ。秘密裏にお伝えしてある。市長は……どうかな、知っておるかもしれんな」
 ティトゥスは考えるようにあごひげをしごきながら言った。
「今はまだ、魔物の存在を公にする時期ではないのだよ。海馬が現れて、もう二年は経つが……」
 遠い眼で考え、ふと、ティトゥスは二人のユリウスを見比べた。
 金髪で碧い瞳の青年と、亜麻色の髪に翡翠色の瞳を持つ青年。
「海馬の存在に驚きなさらんのだな」
 黒衣の美しいユリウスが口を開いた。
「飼い慣らしておられることには驚きました。ただ、沈黙の封印が三年半ほど前に解かれています。僕自身も、アウネリア湖の主や、緋海ではトロールと対峙しました」
「それは……」
 老神官は大きく眼を見張った。
 その背後にいる副神官長と補佐官も驚いた表情で顔を見合わせた。
「沈黙の封印が解かれた……そうか、その可能性も考えんではなかったが……」
 深くしわの刻み込まれた老神官の顔が憂いを帯びる。
「海馬が現れたのは緇海だけの変異ならと思うていたが……大陸各地には、封印された魔物たちが眠っている。それらが目覚めるとなると、大変なことになるだろう」
 北のアトレス山脈にはドラゴン。レキアテル王国よりさらに東の果て、ゲドゥラ砂漠にはサラマンダー。霊峰群の麓にはグリフォンたち──
 それ以外にも様々な魔物が次元を別にした空間に封印されているという。
「全ての魔物が今すぐ目覚めるということはないと思いますが」
 亜麻色の髪の王子が静かに言った。
「ユリウス殿下。お父君はこのことをご存じか?」
 王子ユリウスははっとした。
 彼のサークレットに嵌めた黄色い石が光を撥ねる。
「魔道に秀でた者──例えば、黒曜公国の黒曜公、白い都の冬将軍あたりは、沈黙の封印が解かれたことに気づいているかもしれんが」
「多くの国は無防備だろうということですね」
 老神官はうなずいた。
「これは大陸の勢力図に大きな影響を与える。仮にセイル地方の国がドラゴンを飼い慣らせば、それは立派な兵器となる。ヴァントラやドールは六花同盟と対立している。ドラゴンを使って白い都を攻撃すれば、その戦争の規模は今までとは比べ物にならなくなりますぞ」
 小さく息を呑み、王子ユリウスは低い声ですぐに答えた。
「ただちに文を書き、レキアテル国王に届けます」
「それがよかろう」
 そうして、両手の指を組み、ティトゥスは改めてユリウスたちを見廻した。
「さて。それで私に何を求めておられる? それに何ゆえ、レキアテルの王子殿下までがご同行なのか」
 ユリウス王子は軽く眼を見張り、首を横に振った。
「敬称はいりません。私が旅をしているのは個人的な事情からで、レキアテル王家とは全く関係ありません」
「だが……」
「ユリウスが二人いては混乱しますね。私はこちらのユリウスをただ“ユリウス”とのみ呼んでいますが、彼は私を“王子”と呼びます」
「では、私もユリウス王子とお呼びしよう。そして、両側のお嬢さん方だが──
 王子はうなずいた。
「お察しの通りです。私のサークレットに象嵌されているのは黄色い石。ユリウスの耳飾りのは青い石。精霊の宿り石です」
「……!」
 期待を込めたように眉を上げ、ティトゥスは大きく深呼吸をした。
 室内に一種の緊張が走る。
「やはり、あの伝説の……しかしまさか、それが実在し、生きているうちに目の当たりにできようとは思いませなんだ」
 ティトゥスの青い瞳が子供のような好奇心を湛え、しげしげと青珠と黄珠を眺めやる。
「私は魔道師でもあるから、お二人が精霊だと気づいたが……普通の人間にはまず判らぬだろうな」
 青珠は微笑を浮かべ、黄珠は小さくうなずいた。
 巡礼のユリウスがハーブティーの硝子のカップに口をつけ、それをそっとテーブルに戻す。
「神官長様。僕たちは沈黙の封印が解かれたことを知りました。だが、だからと言ってどうすればいいのか判らない。まずは沈黙の封印について詳しいことを知りたいと思い、カリア氏族の族長を訪ねることを決めたのです」
「カリア氏族が関係していると思われたのか?」
「解りません。ですが、カリア氏族は──
 躊躇い、言いよどんだユリウスの言葉を青珠が引き取った。
「カリア氏族に伝わる黒紙文書こくしもんじょ白紙文書はくしもんじょを紐解けば、何か情報が得られるかもしれません」
「! 何と……!」
 青珠の口から出た単語に、ティトゥスは大きく眼を見開き、ぽかんと口を開けた。ティトゥスばかりではない。副神官長も補佐官も声こそ上げはしなかったが、愕然とした表情を見せた。
 しばらく唖然とし、ティトゥスは椅子に座りなおす。
「青い石の精霊よ」
「青珠です」
「青珠殿。それを一体どこから……」
「ロズマリヌスから聞きました。そういうものが存在すると」
「ロズマリヌス?」
 神官長が眉根を寄せる。
「それはこの島で生まれ、神に捧げられた印を持つ者のことかな?」
「そうです。ロズマリヌスは、過去に青い石のあるじでした」
「……!」
「石の持ち主だった彼は子供の頃の思い出としてわたしに話し、わたしはそれが今の主に必要な情報だと判断したので、持ち出したまでです」
 ティトゥスはため息を洩らし、皺だらけの片方の手で額を覆うように押さえた。
「ロズマリヌスに機密を漏らす意図はありません」
「……当然だ」
「青珠」
 明瞭すぎる青珠の言い方をたしなめるようにユリウスが青珠を見遣り、王子が困ったように苦笑した。青珠は何ら悪びれない。黄珠もいつもの無表情だ。珠精霊にとっては、現在の石の主が絶対なのだ。
「確かに、あれが幼い頃に話したことがある。この島の歴史とともに二つの文書の話もな」
 両手を組んで握りしめ、ティトゥスは一旦閉じた眼をゆっくりと開いて言った。
「あなた方は“沈黙の封印”について知りたいのですな? 我々もさほど詳しくはないが」
「お願いします」
「お力をお貸しください」
 二人のユリウスの声にも自然と力が入る。
 ティトゥスは大きく息を吐き、硝子のカップを手に取った。
「情報の交換、ということなら応じましょう。沈黙の封印が解かれたのであれば、あらゆる事態を想定せねばならん」
 そう言って、老神官はカップのハーブティーを一気に飲み干した。

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2024.2.4.

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