二十年目の夏至
5.
十数頭のドラゴンの影が無数に重なり、出現した影が全天を覆う。
その現象は三十分ほど続いた。
「……」
やがて、薄闇に支配されていた空が再び明るさを取り戻し、黒い雲がさあっと白く染め上げられていくと、真昼の光がよみがえった。
ユリウスは眼を細めて空を仰ぐ。
巡礼の黒い布が巻かれた彼の淡い金髪が海風になびいていた。
草の上に並んで座っている巡礼のユリウスと王子ユリウスは、しばらく空へ眼を向けていた。
不意に王子がはっとした。
「ユリウス、これを」
ユリウスの片手に王子が自らの手を重ねる。
「これは……」
脳裏に映像が流れ込み、ユリウスは眩暈を覚えて眼を閉じた。
「神託所……?」
「そう。今、見えた。ディディルに神託が下ったようだ」
二人が見たものは、巫女の装束をまとったディディルが祭壇の前に倒れ込む姿だ。
レキアテル王国の第一王子づきの方士として選ばれたディディルは、巫女としての資格も有している。国王になる王子に仕え、神に仕える方士は、自らが依巫となって、神の言葉を王子に伝えるのだ。
倒れた彼女の周囲には神殿の他の巫女たちもいる。
「これは覗いてはいけない場所なんじゃないか?」
「秘儀ではないが、確かにそうだね。巫女しか入ってはいけない禁断の場所を見るのはやめよう」
王子がユリウスから手を離すと、彼の脳裏に現れた映像はすっと消えた。けれど、王子の脳裏には、今もディディルの様子が鮮明に映し出されているのだろう。
それが王子の千里眼だ。
その力をして、自分の意思に拘らず、王子は様々なものを見つめてきた。
巡礼のユリウスの心に感応することもそのひとつだ。
「そろそろ宿舎へ戻ろう。ディディルだけでなく、ここのネプトゥーヌス神殿の巫女たちにも神託が下っているだろう」
「そうだね。行こうか、ユリウス」
気だるげに立ち上がった王子ユリウスは、見えない眼をユリウスのほうへ向けて微笑み、神殿のほうへと歩を進めた。巡礼のユリウスと二人の精霊、青珠と黄珠が無言でそれに続く。
足を止めてふっと振り向いた青珠の長い蒼い髪が風に流れてなびいた。
先ほどの変事が嘘だったかのように、広い空には当たり前に白い雲が流れ、海は青く穏やかだった。
三日後、カリア氏族の族長・ティトゥスが、二人のユリウスをネプトゥーヌス神殿の神官長の執務室に呼んだ。
カリア氏族の長老会議の結果を伝えるためだ。
ティトゥスの表情は険しかった。
「ご託宣についてはディディルからお聞きでしょうな」
執務用の机に座るティトゥスに対し、来客用の長椅子に黒いユリウスと並んで腰かけた王子ユリウスが簡単に答えた。
「はい。ディディルの託宣では、時代の行く末は天と地の御子次第だと……そんな内容でした」
依巫となり、託宣を受ける最中に倒れたディディルは、その後、丸一日眼を覚まさなかった。だが、彼女の言葉は他の巫女が記録していた。
時代を沈黙させるも、目覚めさせるも、天と御子と地の御子の心のままに
妖霊星が現れたとき、その行方が決定される
夏至の日、託宣所でディディルはそう言って意識を失ったという。
近い将来、妖霊星が再び現れるということか。
自分たちが天と地の御子であるという前提のもと、その選択が時代を左右させるかもしれないと、二人は何か重いものを課せられたような心地であった。
「同様の神託がネプトゥーヌスの巫女にも下りました」
「……はい」
「それを踏まえ、我々はあなた方お二人を天の御子と地の御子だと考えることにした」
机に両手の肘をついて指を組み、ティトゥスは、巡礼のユリウスと王子ユリウスの顔を交互にじっと見て、重々しく言った。
「時代の行方を見届けるため、あなた方に協力しよう。だが、黒紙文書と白紙文書を直にお見せすることはできん。これらはカリア氏族でもごく限られた者しか見ることができん代物だからな」
「はい」
「ただ、文書を解読させ、今後必要な内容があれば、それを共有することをお約束する」
「ありがとうございます」
「感謝します、神官長様」
二人のユリウスはカルムの神官長に頭を下げ、丁寧に礼を言った。
「だがな、王子、ユリウス殿。今回の託宣で伝説だと思われていた天地の御子の存在が現実味を帯びてきたというだけで、あなた方がその御子だとは信じ難いという者たちも多い」
「……それは、そうでしょうね」
「かく言う私とてそうだ。確たる根拠がない」
「それは僕たち自身も同じです。自分の生まれた意味など解りません。ただ、僕はラウルスと沈黙の封印について知らなければと思った。そのために、あなたたちに力を貸していただきたいんです」
ユリウスが言うと、王子も口を開いた。
「私は真実が知りたい。私が天の御子ならば、すべきことを行いたい」
「解り申した」
静かに語るユリウスの碧い眼を、そして王子の翡翠色の瞳を見て、老神官長は大きくうなずいた。この二人の若者を信じても大丈夫だと直感したのだ。
目覚めの時代が訪れる以上、それに対し、対策をとらねばならない。
* * *
「セラフィム様」
一応、扉をノックしたが、その音は広い続き間の奥の部屋にいる人物の耳にまでは届かないだろう。
物悲しい想いにとらわれ、小さくため息をついたユリアが、扉の取っ手に手をかけるより早く、扉は中から開かれた。
「……っ!」
中から出てきたのは寛衣をまとった長い金髪の美しい娘だ。
娘はユリアを一瞥すると、青白い顔に何の表情を浮かべることもなく、小さく会釈をして、そのままその場を後にした。しずしずと去っていく娘の後ろ姿をぼんやりと見送り、ユリアは改めて扉を開けて室内に入る。
「セラフィム様、お食事の用意ができました」
その部屋のさらに奥に続くのがセラフィムの寝室だ。
セラフィムは大きな寝台の夜具の中に横たわっていた。
「セラフィム様」
「……誰だ」
「ユリアです」
「ユリア……?」
寝台の上で、黒髪の青年が肘をついて裸の上体を起こした。
以前より少し伸びた癖のある髪をかき上げ、気だるそうにユリアを振り向く。ユリアが好きなその菫色の瞳は昏く澱んでいた。
もと傭兵らしい逞しい裸身からユリアは眼を逸らす。
解ってはいるが、他の女を抱いていた直後の彼の姿を見るのはつらい。
「何の用だ」
「お食事の用意ができました。こちらにお持ちしましょうか?」
「……いや、いい。衣を取ってきてくれ」
「どれにいたしましょう」
「どれでもいい」
ユリアは窓掛けを開け、朝の光を室内に取り入れて、セラフィムの衣裳を選んだ。
セラフィムは機嫌の悪いときにしかユリアを求めない。
ユリウスが去ったあの日を境に、すでに興味を失ったように、普段はいてもいなくても構わないような扱いだ。ただ鬱屈した気分の夜にだけユリアを呼び出し、彼女を凌辱して鬱憤を晴らす。
今も自分はあの巡礼の青年の代わりに過ぎないことを、ユリアは承知していたが、やはり哀しかった。
「……おまえの名は何といった?」
寝台から降り、彼女が用意した衣を着ながらセラフィムが問うた。
「ユリアです」
「本名のほうだ」
「あたしの名はユリアです。他に名前はありません」
頑なに答えるユリアをちらと見て、彼女の男装にセラフィムは眼を留めた。
最初に彼が命じた装いだ。
「もう男装をせずともいいと言ったはずだぞ」
「あたしがこの姿を気に入っているんです」
「黒耀城にいる必要もない。白い都へ帰りたければ帰れ。見たこと全てを冬将軍に報告しても構わん」
「あたしはセラフィム様のものです。出て行けと言われるまで、お仕えします」
「……意外と強情だな」
強張った表情の娘を見て、それでもセラフィムは何かを思うでもなく、無感情に寝室を出て行った。
残されたユリアは小姓として、彼の部屋を掃除し、整える。
少しでもセラフィムの役に立っていると思いたい。
けれど、言いようのない淋しさと孤独に苛められるのはどうしようもなかった。
寝室を出て食堂に向かうセラフィムは、ふと、足を止めて昨日の夏至の空の異変を思い返した。
「……そうか」
彼の表情に、初めてあたたかなものが揺蕩う。
「夏至か。奴の誕生日だ。二十歳になったのか」
地の御子が誕生して二十年目の節目。
「だから、魔物どもが動き出したのか」
セラフィムはくすくすと笑った。
「沈黙の封印はおれのために解かれた。それに振り回されるか、ユリウス。おれたちにそんな繋がりがあってもいい」
セラフィムの忍び笑いはやがて哄笑になる。
この先、再びユリウスの進む道と己の道が交わることを確信し、それが楽しみであった。
セラフィムの笑い声はひと気のない広い廊下の高い天井に響き渡り、やがて、それは不穏な残響となってわだかまった。
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2024.9.11.