二十年目の夏至

4.

「腕輪……」
 それは高価な品に見えた。
 高く売れるのではないか。
 そう考えた天狼師のターコイズの色をした眼が、刹那、はっと大きく見開かれた。
「赤い……宝石……?」
 以前、一度だけ青い石を見た。
 神代、四魔神の持ち物だったという、伝説の精霊の宿り石だ。
 あの石の、青色を赤色に変えれば、ちょうどこのくらいの大きさと光沢の石になる。
「まさか──
 天狼師は息を呑んだ。
 封印文字が施された小筐。
 その可能性は──ないではない。
「出でよ! 赤い石の精霊──!」
 天狼師はいきなり叫んだ。
「……」
 そこには老人と犬がいるだけで、辺りはしんとしている。
 彼はおもむろに地面に赤い宝石が象嵌された腕輪を置いた。そして、勿体ぶった様子で声を張り上げる。
「赤い石の精霊よ、我が召喚に応じよ!」
 シリウスが興味深げに老人を見つめ、ふるふると尻尾を振っている。
 老人はごほんと咳払いをして、仰々しく両手を腕輪にかざし、もう一度言い直した。
「赤い石の精霊、出てまいれ……!」
 ──何も起こらない。
 天狼師はぜいぜいと肩で息をした。
「何じゃ、ただの宝石か。……まあ、よい。売り方ひとつで高値がつこう」
 途端に興味を失ったように、天狼師は無造作に腕輪を持ち上げ、荷の中に入れようとする。
 と、
「ううぅ……」
 シリウスが不服そうに呻った。
「何じゃ、おまえのもんじゃと言いたいのかえ?」
「わぅ」
 老人に近寄って、その腕輪の匂いを嗅ぐシリウスの様子を憮然と眺めていた天狼師だったが、よっこらせ、と、やおら荷の中から麻紐を取り出した。
 シリウスの首に首輪のように腕輪をあてがうと、腕輪の留め金にその麻紐を巻き付け、外れないように固定する。
「わう!」
「ほう、気に入ったか。ほっほっ。よい買い手が見つかるまでなら、おまえがつけていても構わんぞ」
 赤い石の首輪は、シリウスの白に薄い灰色が混ざったような毛並みに意外と映える。嬉しそうに尻尾を振り、じゃれついてくるシリウスの頭を、天狼師は満更でもなさそうに撫でてやった。
 神殿の静けさは平穏そのものであった。

* * *

 大陸暦一〇二〇年、六月二十一日──

 夏至のその日、巫女の資格をも持つ方士のディディルは、神殿の沐浴場で沐浴をして身を浄め、ティトゥスの許しを得て、ネプトゥーヌスの神託所に入っていた。
 王子ユリウスは朝から海が見渡せる島の高台にいた。
 草の上に座り込み、彼は見えない眼で海をじっと見つめていた。
 潮風が王子の亜麻色の髪をなびかせる。その額のサークレットに嵌められた黄色い石が時折り光を撥ねた。
 やがて人の気配が訪れた。
「どうだ?」
 草を踏みしめる音とともに、巡礼の黒衣をまとった淡い金髪の青年が王子のもとにやってきた。
 ディディルと同じく、黒いユリウスも、ネプトゥーヌス神殿の沐浴場で身を浄めた。その左耳には青い石を象嵌した耳飾りが揺れる。
 二人は今日、二十歳になる。
 ユリウス王子は翡翠色の眼を遠くの空へと向けた。
「空が暗い。君も感じるか? ユリウス」
「ああ。まだ視覚には捉えられないが、前兆のようなものを感じる。……日蝕の始まりのような」
 王子は軽くうなずく。
 空は白い雲に覆われていた。
 雨雲ではない。
 雲の向こうには陽光があふれているのが解る。
 巡礼のユリウスが、王子ユリウスの隣に腰を下ろした。
 前を向いたまま、ふと、王子が口を開いた。
「今後、この島のヒッポカムポスのように、大陸のあちこちで日常的に魔物と遭遇するようになると思うかい?」
「かもしれないね」
 ユリウスの口調は茫洋と、どこか他人事のようだ。
「それが神の定めならば」
「君自身はどうあってほしい?」
「どちらでも。僕はそのままの世界に従うつもりだ」
 王子は、考えるように少し眼を閉じた。
「君はあるがままを受け入れるのだね。大地のように。それが理不尽な現実であっても?」
「冷めてるだけかもしれないよ。僕は青珠以外にこの世にしがらみがないから」
「私とて、全てのしがらみを捨てて国を出たつもりなのだが……」
 ユリウスは王子の横顔を見遣る。
 いつも物柔らかな表情を浮かべているその顔は、迷いを持つことを恐れているように見えた。
「君は国に大切な人たちがいるからね。それは別に悪いことじゃない」
 雲の向こうの太陽が少しずつ移動する。
 青い石の精霊・青珠が、不意に二人の背後にふわりと姿を現した。
 続いて、黄色い石の精霊・黄珠も姿を見せる。
 それを受けて、巡礼のユリウスと王子ユリウスの視線は再び空へと向けられた。
「……来た──
「ユリウス、君の眼を借りるぞ」


 それは、突然訪れた。

 全天に広がる白い雲の端から黒い波が押し寄せてくるように、その色に空が染められていくように、さあっと天上が仄黒い翳に覆われていく。
 瞬く間に天が暗くなっていく。
 薄暗さが大地を覆う。

 大陸全土に、それは起こった。


 白い都の塔の上で、冬将軍とガデライーデが空を見上げていた。
 空を覆う薄暗さは次第に濃さを増してく。
「これは……? どんどん日が暮れていくようだ」
 驚きの声を上げる白い衣裳をまとった長身の男の傍らで、仮面の老婆がくぐもった声で答えた。
「我が君様。これは、どうやら沈黙の封印が解かれた結果、起こった現象のようでございます」
「沈黙の封印が?」
 冬将軍は精悍な顔を曇らせてガデライーデを見遣る。
「我が君様にはあれが何と見えまする?」
「ひどく黒い雨雲が空を覆っているように見えるが」
「いえ、あれは──

 カヌア侯国の小さな町の飲食店──テルモポリウムの前で、天狼師はぽかんと空を仰いでいた。
 店にいた人々や、通りにいた人々も、何事かと一様に空を見上げている。
「信じられん。これは一体──
 テルモポリウムの外に待たせていた中型犬──シリウスが天狼師の足許により、空を見上げて、わん、と大きく吠えた。老人はそちらには見向きもせず、愕然とつぶやいた
「まさか、沈黙の封印が解かれていた、のか……?」
 辺りに人々の不安の声がさざめく。
 町の人々の眼には、それは異常な暗さが天を覆っているかに見えていた。だが、天狼師には、それがおびただしい数のドラゴンの群れが飛翔している影としてはっきり捉えることができた。
「ドラゴンが大陸中の魔物たちに目覚めの時代を知らせておる……」
 天空を見つめるシリウスが興奮したように尻尾を振り立てている。その首輪にしている銅の腕輪に象嵌された赤い宝石が妖しく光っていた。

 黒曜公国の黒い都。
 黒耀城の自室の露台に立つセラフィムは、一人、空を眺めていた。
「ドラゴンが目覚めたか」
 少し髪が伸びていた。
 何の感情も映さない菫色の瞳を、彼は暗く曇った大空に向けている。
「無数のドラゴンが飛行する影。だが……実際に飛んでいるのは十数頭だろう」
 十数頭のドラゴンの影が幾重にも雲に重なって映り、地上に薄闇をもたらしている。沈黙の封印が解かれ、目覚めた魔物たちがついに本格的に動き出す、これは予兆だろうか。
「果たして、大陸中で幾人がドラゴンの存在に気づいたかな。常人にはドラゴンの影など解らんだろう」
 セラフィムの口許にふっと昏い笑みが浮かぶ。
 彼は右手にはめた緑の石の指輪に軽く口づけた。
「さて。ユリウスは──地の御子はどう動く」

 ヘスベルの港では、鮮やかな鳥・彩羽が空に顔を向けて目を見張っていた。
「何が……起こって、いる……翠珠、おい! 翠珠……!」
 彼に指示を与える“声”はいとも簡単に答えを返した。
<恐れることはない。ドラゴンが空を渡っているだけだ>
「ドラゴンだと……?」
 彩羽には異常なほど黒い雲が空を覆っているようにしか見えない。
 港の高い建物の陰に、ただ身を潜めるばかりだ。

「ドラゴンが……目覚めの時代を告げている……」
 巡礼のユリウスと王子ユリウスは、巡礼のユリウスのひとつの視界で、天翔けるドラゴンたちを見守っていた。
 千里眼を持つ王子と視覚を共有することで、黒いユリウスも、翼を広げるドラゴンの姿と、その影が幾重にも重なり、無数のドラゴンの影となって、黒い雲を作り上げている様をまざまざと知ることができた。
 海を臨む高台に座る二人の背後には、青珠と黄珠がたたずんでいた。
 精霊にとってはドラゴンの出現など動ずるほどのことではない。
 かつて魔神たちが治めていた神代においては、幾種もの魔物の存在は当たり前の光景であったのだ。

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2024.7.21.