人形と猫 −前編−

 スーツケースを引っ張って歩いていた野乃子は、目的の家の前で立ち止まった。
 林の中の別荘地。
 ここは、野乃子の叔母・佳穂子の住まいである。
 白い板壁に白い枠の格子窓、グレーの急勾配の切妻屋根の瀟洒な家が、木立ちに囲まれて建っている。
「……着いた」
 最寄りの観光地のバス停から歩いてきた野乃子は疲れた声でつぶやいた。
 昨夜、緊急入院した叔母の代わりに、急遽、この家で飼われている猫たちの世話をすることになったのだ。
 車で来ればよかったのだが、如何せん、野乃子は免許を持っていないし、タクシーも拾えなかった。
「よいしょっと」
 煉瓦を敷いたアプローチを進み、重厚な木の玄関扉の前で、野乃子は肩にかけたバッグから鍵を取り出した。
 野乃子は大学生。
 ちょうど夏休みに入ったばかりで、叔母の愛猫たちの世話をするために駆り出された。
 叔母の夫は海外に長期出張中で、叔母夫婦に子供はいない。親戚の中で一番時間があるのが野乃子だったというわけだ。
 玄関を開けると、室内でみゃあみゃあ鳴いている複数の声が聞こえた。
 もう午後を過ぎている。
 この家で室内飼いされている五匹の猫は、さぞお腹を空かせているだろう。
「ごめんねえ、みんな」
 野乃子がリビングに入っていくと、猫たちは一斉に不意の来客を取り巻いた。
 荷物を置き、彼女は慌ただしくキッチンに駆け込んだ。
「すぐ、ご飯あげるから」
 猫用の皿を五つ取り出し、それぞれにキャットフードを入れていく。
 キッチンまで野乃子についてきていた猫たちは、皿が床に置かれるのを待ちきれないといった様子で食べ始めた。
「はい、最後はクロエ」
 五つ目の皿を床に置き、小柄な黒猫の前に差し出す。
 クロエと呼ばれた猫は、弱々しく野乃子を見て、ゆっくりと餌に口をつけた。
「はあー……」
 野乃子は叔母と仲が良く、毎夏ここへ遊びに来ているので、この家のことは、何がどこにあるのか叔父よりも詳しいはずだ。
 でも、今年の来訪がこんな形になるなんて。
 食事中の猫たちを置いて、彼女はリビングに戻った。
 しなければならないことはまだある。
 スマートフォンを取り出し、ソファーに座って、まずはメールのチェックから始めた。

 岡崎佳穂子は趣味でビスクドールを作っている。
 このリビングにも、あちこちに美しいドレスを着た可憐な人形たちが飾られていた。
 素人ながら、佳穂子の人形作りの腕はなかなかのもので、自作のビスクドールを紹介するサイトを立ち上げたところ、評判がよく、希望者に販売することも行っている。
 サイト作成やネット販売を叔母に勧めたのは、他ならぬ野乃子であった。
 野乃子は病院へ行った母親に電話をして、叔母の家に着いたことを報告、叔母の容体が安定していることを聞き、ほっとした。
「で、佳穂子叔母さん、なんで倒れたの?」
『少し前から体調が悪かったらしいわよ。夕べ、眩暈がひどくて緊急外来にタクシーで行って、そのまま病院で倒れたんですって』
「病気?」
『さあ。簡単な検査をすると言ってたけど、今はけろっとしてるの。単なる過労の可能性もあるって』
「そっか。叔父さんには?」
『連絡したわ。でも、出張を切り上げてまで帰ってこなくても大丈夫だって佳穂子が言うのよ。だから、野乃子。佳穂子の家のこと、しばらく頼むわね』
「解った」
 ともあれ、叔母の人形の購入希望者からのメールを確認し、ネットショップはしばらく休むという旨のお知らせの文章を書き、webサイトを更新する。
 それから冷蔵庫と食品庫の中を確認し、ネットスーパーで必要な品を注文した。
 この家の管理と猫たちの世話、それが、とりあえずの野乃子の仕事だった。

 いつも使っている二階のゲストルームに自分の荷物を収め、野乃子はリビングに下りてきた。
 リビングの隣の小部屋が叔母のアトリエだ。窓から外の木立ちの緑が見える。
 種類ごとに分けてあるたくさんの人形のパーツ。
 制作中だったのだろう、縫いかけの緑のタフタのドレスが置いてあった。
「みゃあ」
「危ないわよ。この部屋に入っちゃ駄目」
 いつの間にかやってきて、足許にまつわりつく茶白の猫をたしなめ、野乃子はアトリエの扉を閉めた。

 五匹の猫のうち、四匹は親子だった。
 父猫のライトと、兄妹の五一ごいち、ジョゼフィーヌ、エリーザベト。
 雄の名前は建築家の叔父がつけ、華やかなものが好きな叔母の佳穂子が雌の名前をつけたのだが、さすがの叔母も動物病院で「ジョゼフィーヌちゃん、エリーザベトちゃん」と呼ばれるのは恥ずかしかったようで、その後、二匹は、ジョゼ、シシィ、と愛称で呼ばれることに落ち着いた。
 そして、クロエだけが血がつながっていない。
 去年の夏、傷ついて道端にうずくまっていたところを叔母の家に遊びに来ていた野乃子が見つけたのだ。
 産まれたばかりで鴉にさらわれ、地面に落下したものと思われる。
 瀕死のところを助けられ、佳穂子の家の一員になった仔猫の名前は野乃子がつけた。
 クロエ。
 黒猫だから。
 ゆえに、野乃子はクロエを一番気にかけていた。

 翌日、野乃子のスマホに、病院の佳穂子から、迷惑をかけるけれどよろしく頼むとメールが来た。
 それに返信し、野乃子は叔母を安心させるため、ブログに猫たちの様子をつづることを始めた。
 写真をスマホで撮影し、短いコメントを添えてアップする。
 佳穂子のノートパソコンの使用許可をもらったので、編集は主にそれを使った。
 そして、ふと気づく。
 他の猫たちと比べて、クロエの食が細い。
(普段からあんまり食べないのかな。それで小さいの?)
 仔猫の頃のトラウマのせいか、気が小さく、いつも面倒見のいいジョゼのそばにくっついている。
 ソファーに野乃子が座ると、野乃子の膝に乗る。
「いい子だね、クロエ」
 野乃子が頭を撫でてやると、クロエは嬉しそうににゃあと鳴いた。

 夕食を終え、シャワーを浴びた野乃子がドライヤーで髪を乾かしていると、不意に、金属をひっかくような、甲高い耳障りな音が鋭く響いた。
 びくりとして、ドライヤーのスイッチを切る。
(……)
 辺りはしんとしている。
(やだ、空耳?)
 一瞬、悲鳴のように聞こえた。
 猫の声だろうか。
(もしかして、あの子たち、喧嘩でもしてるの?)
 急いでドライヤーを置き、野乃子はリビングへと足を向けた。
 猫たちのベッドはリビングに置かれている。
 茶白と三毛の四匹は、ソファーやサイドボードの上で、飾られた人形たちに交じって寛いでいたが、黒一色のクロエの姿だけが見当たらなかった。
「クロエ?」
 室内の行き来は自由だ。
 叔母のアトリエと、叔父の仕事場である書斎だけは猫が自分で開けられない仕様の扉になっているが、それ以外の扉には、基本的に猫用の出入り口がついている。
「クロエー?」
 念のため、野乃子は猫用トイレの置いてある洗面所へ行ってみた。
 が、そこにはさっき野乃子が使っていたドライヤーが洗面台の横に置かれているだけで、クロエはいない。
(当たり前か)
 トイレに来たのなら、彼女と鉢合わせるはずである。
 踵を返し、ふと、野乃子は叔母のアトリエの扉がわずかに開いていることに気づいた。
「クロ……」
 足を踏み入れ、ぎくりとした。
 暗闇の中、人形の白い手足が散乱している。
「クロエ? いるの?」
 にゃあ、と、か細い声がする。
 明かりをつけると、床に散乱したビスクドールの手足のパーツの中に、全身黒の小猫がいた。
「あんた、どうやってこの部屋に入ったのよ?」
 と、白いたくさんの手足の中に、ひとつだけ、人形の頭が落ちているのが見えて、野乃子の心臓がドキンと跳ねた。
「飼い主の大切なものを悪戯しちゃ駄目だよ」
 ことさらに明るく言って、クロエを抱き上げた野乃子だが、見慣れているはずの人形のパーツが、なぜか薄気味悪く見えたことは否めなかった。
 アトリエは、明日の昼に片付けよう──

 その夜、ベッドの中で微睡む野乃子の視界の端に、壁際のチェストの上の何か仄白いものがかすめた。
 が、かすめただけで、そのまま野乃子は眠りに落ちていった。

* * *

 掃除に洗濯、佳穂子のハーブガーデンの世話。
 料理もガーデニングも得意ではないが、ネットの情報に頼り、何とかこなす。
 今日もクロエは餌を残した。
 猫のトイレの砂を替えてから、アトリエを片付けようとそこに入った野乃子は、はっと動きをとめた。
 昨夜、クロエが散らかした人形の手足の中に、ひとつだけあったはずの頭がない。
(……え、ちょっと待って)
 扉はきっちり閉められていたし、猫たちの誰かが再びアトリエに入った様子はない。
(うそ。最初からなかった……?)
 人形の頭に見えたのは、単なる気のせいだろうか。
 嫌な胸騒ぎを覚え、鼓動が大きくなるのを感じた。
「みゃあ」
「っ!」
 びくっとして振り返ると、アトリエの入り口に三毛の猫がいた。
「脅かさないでよ、シシィ!」
 思わず大声を出してしまったことに、野乃子は自分で驚いた。
「ごめん。でも、今は遊んであげられないんだ」
「みゃう」
 シシィは踵を返し、野乃子をいざなうように優雅に振り向いた。
「何?」
 シシィのあとについてリビングに行くと、ジョゼに見守られ、ジョゼの寝床でぐったりと横たわっているクロエがいた。
 ライトや五一も、遠巻きにクロエの様子を気にしているようだ。
「クロエ? 具合、悪いの?」
 どこか痛めたのかと思って、野乃子は慌ててクロエの躯を調べてみたが、怪我などはしていないようだ。
 ただ、あまり餌を食べていないこともあって、体調が悪いのは確かだろう。
 不安な思いに駆られつつ、野乃子はクロエの皿にミルクを入れて差し出した。
「飲める?」
 クロエはのろのろと身を起こして、少しミルクを舐めたが、すぐにまた、寝床に戻ってしまった。
 残ったミルクの皿には、五一やシシィが口をつける。
 こんなとき、どうすべきなのかよく判らないが、徒に叔母を心配させたくはない。
 一日様子を見て、明日になってもクロエの体調が悪いままなら、動物病院へ連れていこうと野乃子は思った。

 着替えを取りに自分の部屋へ戻った野乃子は、びくっと立ち止まった。
 視界の端に何か映った。
 息をつめて、そろそろと、彼女は部屋の中に置かれたドレッサーからチェストへと視線を移動させた。
 チェストの上には花瓶、フォトスタンド、黒いアイアンのキャンドルスタンドが三つ、そして──
「……」
 人形の首。
 ビスクドールの頭の部分だけが、そこに置き去りにされていた。
「び、吃驚した。なんで、頭だけがこんなところに」
 動揺を鎮めようと唾を飲み込み、野乃子は何でもないことのように声に出して言った。
「叔母さんてば。作りかけの人形はアトリエに置いといてよねー」
 でも、何かが違った。
 人形の頭部は、ただのパーツではなく、きちんと顔が作られ、眉や睫毛も描かれてあった。
 栗色の髪。琥珀色の瞳。
 桜色の小さな唇は閉じている。
 まるで、完成しているビスクドールの頭だけをもぎ取って、そこに置いたかのようだ。
 ざわざわと不吉なものを感じたが、この家に人形の首があっても別段おかしいことではない。
 ただ、ビスクドールは、日本人形と同じように好む人とそうでない人がいるだろうと、普段からゲストルームには人形が飾られていないことを野乃子は知っていた。

 クロエはかなり弱っているようだ。
 翌日、クロエをキャリーバッグに入れ、野乃子はタクシーで動物病院へ向かった。
 かかりつけの病院の名前と場所はあらかじめ叔母から聞いている。
 昨日からクロエはぐったりとしたまま、餌を食べようともしない。病気にでもかかったのかと野乃子は気が気でなかったが、病院へ着く頃には、やや元気を取り戻していた。
「特に異常は見られませんね」
 診察を受け、獣医の言葉にほっとした。
「でも、ここ二、三日、ほとんど餌を食べず、ぐったりしてたんです」
 けれど、診察台の上のクロエは普通に立って、無邪気そうににゃあと鳴いた。
「では念のため、今晩はクロエちゃんをお預かりしましょうか。何かあれば、すぐご連絡します」
「お願いします」
 他の猫たちを放っておくわけにはいかない。
 野乃子は急いでタクシーで叔母の家に引き返した。

* * *

 夜、ようやくひと息つけた野乃子は、ベッドの上に寝転がって、今日の分のブログを更新した。
 クロエが一晩入院することは伏せて、五匹が仲よく寄り添って寝ている姿や、猫じゃらしで遊んでやっている様子の写真を載せる。
 スマホを手にそっと視線をずらすと、チェストの上の人形の頭が見えた。
 頭だけの人形の琥珀色のグラスアイが、じっと虚空を見つめている。
 視線をスマホの画面に戻した野乃子は、この家に来てからアップした猫たちのブログの記事を何となく読み返した。
 なんということはない普通の猫の日常。
 突然、彼女ははっとした。
 この家に来た日、このゲストルームで撮った写真が目に入ったのだ。
 荷物の整理をする野乃子の様子を覗きに来た猫たちが、ベッドの上やチェストの上に乗った写真。
 チェストの上には、花瓶、フォトスタンド、黒いアイアンのキャンドルスタンドが三つ──

 人形の首はそこになかった。

 心臓が音を立てて鳴り始める。
 頭のどこかで警鐘が響く。
 思わずそこにある人形の頭に目をやると、
「っ!」
 クローズマウスが、まるで金魚の口のように、ゆっくり、ぱくぱくと閉じたり開いたりしていた。
──
 叫ぼうにも声が出ず、金縛りにあったように、野乃子は息を呑んで全身を硬直させた。

 ぱぁく ぱぁく

 見間違いではない。
 シーリングライトがはっきりと照らし出している。

 ぱぁく ぱぁく

「みゃあ」
「きゃああっ!」
 思わず悲鳴を上げた野乃子の視線の先、扉に取り付けられた猫用出入り口から五一がゲストルームの中を覗き込んでいた。
「五一!」
 野乃子は反射的に立ち上がり、スマホだけを持って、扉へ走った。
 素早く五一を抱き上げ、廊下に出る。
「……」
 叩きつけるような勢いで廊下の灯りを点け、彼女は片手で抱いた茶白の猫の顔を食い入るように凝視した。
「見た? あんたも見た?」
「みゃあ」
「あんた、男の子でしょ? 今からあたしを護ってよね」
 野乃子とて、何が起こっているのか解らない。
 頭だけのビスクドールが口を動かしていた?
 夢だったのかもしれないし、気のせいかもしれない。
 けれど、ビスクドールの頭は、確かにチェストの上にあったのだ。
 野乃子はもう一度スマホの画面の写真を見た。
 三日前の写真。
 ビスクドールの頭は写っていない。
 五一は不思議そうに野乃子を見て、ふわりと欠伸をした。

後編 ≫ 

2018.2.2.