人形と猫 −後編−
とにかく“あれ”を見えなくしたい。
野乃子はアトリエやキッチンを探し、ちょうどいい大きさの缶を見つけた。
たぶん、ヨーロッパの菓子か何かの缶だろう。美しい花模様の、深さのある八角形の青緑色の入れ物だった。
それを手に、野乃子は二階の自分の部屋へと向かう。
もちろん五一を片腕に抱いたまま。
「いい? あんたはあたしのボディガードだからね。なんかあったら、すぐに“あっち”を引っ掻くのよ」
だが、五一は知らんぷりで眠そうだ。
夜の十一時。
林の中の別荘地に建つこの家の周囲には、肉眼で見える位置に「隣の家」はない。
車はあるが、野乃子には免許がない。
一人でこの家の留守を預かることが、これほど心細いものだとは思わなかった。
「いい? あたしから離れないでよ」
そっと五一を床に下ろし、野乃子は灯りを点けたままのゲストルームの扉に手を掛けた。
ゆっくりと開ける。
チェストの上。
人形の口は閉じていた。
五一を先に室内に押し込んで、手に持った缶を汗ばむ手で握りしめ、野乃子も部屋に入った。
扉は開け放す。
缶の蓋を開けて、
チェストに近づいて、
栗色の髪──
「……っ」
髪を持ち上げ、人形の首を缶の中に入れる。
バンッ!
蓋をする。
「これで、明日、捨て──」
ガタンッ! ダンッ ダンッ!
突然、八角形の菓子の缶が暴れ出した。
チェストの上に飛び乗った五一が鋭い鳴き声を上げた。
ダンッ ダンッ ダンッ ダンッ ダンッ!
「やめてぇーっ!」
チェストの上で跳ねる缶を両手で押さえつけ、野乃子が叫ぶ。
「やめて! なに? あんた、何!」
半ば恐慌状態だ。
「何? 捨てられるのが嫌なの?」
人形の頭を入れた缶が静かになった。
「言葉、解る?」
五一がフーッと缶に向かって威嚇する。
「──コッペリア。そう、あんたの名前はコッペリアよ。今からあたしが言うことに返事して。イエスなら一回、ノーなら二回、中から缶の蓋を叩いて」
不気味な一瞬の静寂ののち、コン、と缶の中から音がした。
野乃子は震える手で缶を押さえ付けたまま、唇を舐めた。
「捨てられるのが嫌なら、供養してもらう。お寺とかで。それならいい?」
コン コン
「どうしたいのよ。ここにいるの?」
コン
「やめてよ。この家はあたしの家じゃないの。ちょっと待って。頭、動かない」
苛々と怒鳴るように言って、野乃子は大きく頭を左右に振った。
「待って。待ってね、とにかく考えるから。答えが出るまで、静かにしてて」
しゃべり続けていないと、恐怖と混乱で頭が変になりそうだ。
「五一、この缶、見張ってて!」
急いで部屋を出て、アトリエへと向かう。
そこで彼女はセロテープを取り出し、ゲストルームへと戻ってきた。
「コッペリア、しばらくここにいて。絶対よ! 暴れたりしたら、捨てるわよ!」
缶の中から返事はなかったが、野乃子は八角形の青緑の缶の蓋をセロテープで何重にも巻き、開かないように固定した。
「おいで、五一!」
彼女はベッドの上から掛け布団を引きはがし、五一とともに部屋を出て、一階の薄暗いリビングに駆け込んだ。と、その瞬間、息を呑んで立ちすくむ。
人形。
広いリビングに飾られた、人形、人形、人形──華やかな衣装を着た美しいビスクドールたち。
濃い眉。
愛らしい頬。
閉じられた唇や、少し開いた唇。
陰影に浮かぶ青い複数のグラスアイが、あちこちでじっと虚空を見つめている。
「何体あるのよ」
しぼり出した声は掠れていた。
大好きなビスクドールをこんなに怖いと思うなんて。
所狭しと飾られたいくつもの人形たちを片端から抱えていき、それらを全て、叔母のアトリエに押し込んだ。
野乃子はソファーにうずくまり、薄い掛け布団をかぶって、猫たちの存在を確認する。
ライト、五一、ジョゼ、シシィ。みんな、いる。
フロアライトは点けたままにした。
時計が針を刻む。
猫たちが寝静まって森閑となったリビングで、一人、野乃子は自らの鼓動の音だけを聞いていた。
眠れない。
眠れるわけがない。
未だにどこまでが現実でどこまでが夢だったのか、理解できない。
それでも、彼女は時間の経過とともにうとうとと微睡み始めた。
コン コン コン
びくっとする。
(空耳──?)
出し抜けに何かの音で眼が覚めた。
コン コン コン
それは確かに、廊下に通じる扉を向こうからノックする音に聞こえた。
(コッペリア?)
ノックは三回。イエスでもノーでもない。
頭しかないコッペリアは自分で扉を開けられないのだろうか。
しかし、扉には猫用出入り口がついている。
(入ってこないで──!)
野乃子は手探りで足許に丸まっている猫を掴んだ。
掴んだ猫を抱きしめる。
「にゃあ」
強く抱きしめられて、抱かれたシシィは野乃子の腕から逃れようともがいたが、野乃子はただじっと息をつめて、廊下に続く扉を見ていた。
* * *
どれくらいの時間が経過しただろう。
気づいたときには、カーテンの隙間から朝の光が射し込んでいた。
あれ以来、ノックの音は聞こえない。
野乃子はすぐに動くことができなかったが、時間をかけてそろそろと身を起こし、うずくまっていたソファーから降りた。
全身が汗ばんでいる。
一晩中抱いていたシシィを腕に抱えたまま、音を立てないように扉に向かい、そっと開けてみる。
家の中はしんとしていた。
灯りがついたままの階段を上がる。
ゲストルームの扉は閉まっていた。
息をひそめて、扉を開ける。
チェストの上には、何事もなかったように、美しい花模様の、八角形の青緑色の缶が置かれていた。
食欲もなく、オレンジジュースだけを飲み、猫たちの食事の用意をすると、無邪気な彼らはいつもと同じように餌に寄ってくる。
「ライト?」
だが、三匹の父猫のライトだけは、寝床に丸まったままだ。
そろそろシニアと呼ばれる年齢のライトは、マイペースな性格で、寝てばかりいるが、食欲は旺盛なほうだった。
「ライト、ご飯は?」
野乃子が呼びかけても、ぐったりとしたままだ。
ふと、野乃子はある予感を感じて、スマートフォンを手に取った。
電話をかけた先は、クロエを預けている動物病院である。
「……おはようございます。岡崎です。その後、クロエの様子は……」
『ああ、岡崎さん。クロエちゃん、元気ですよ。餌もしっかり食べました』
野乃子はライトを振り返る。
弱っていたときのクロエと同じ状態だ。
『岡崎さん?』
「すみません、別の子が体調崩しちゃって、都合で、クロエ、もう一日預かってもらっても大丈夫ですか?」
『それは構いませんが……』
「よろしくお願いします。もし今日行けなくても、明日、迎えに行きます」
通話を終えると、スマートフォンを持つ手が小さく震えた。
不穏な戦慄が心臓をかすめ、すっと意識の奥に沈み込んでくる。
感覚のない足で必死に立った。
「一緒に来て」
野乃子は片手に五一、もう片方の手にはしっかり者のジョゼを抱き、意を決してゲストルームへと向かう。
ライトは寝床に横たわったままだが、何事かとシシィもついてきた。
「コッペリア」
相変わらず、チェストの上の八角形の缶は静かだ。
「あんたのせい? クロエやライトに何かした?」
何をしたのかとは訊けなかった。
“精気を吸い取っている”──?
そんな言葉は口にしたくない。
「あんた、いつからこの家にいるの?」
わざとイエスかノーでは答えられないことを詰問した。
無音。
不気味な沈黙に耐えかねて、野乃子はバタバタと階段を駆け下り、リビングに置いていたスマホを掴み取って、母親のスマホへ電話をかけた。
『もしもし、野乃子?』
「お母さん!」
『どうしたの? ちゃんとやってる?』
「お姉ちゃん、今日暇? 従兄の伸ちゃんでもいい。誰か車持ってる人に連絡して、ここへ来てもらって!」
『どうしたのよ、野乃子。あと三、四日で佳穂子が帰ってくるから……』
「待てない! あたし帰る! 猫たちも一緒ね。誰も来れないんなら、タクシーで家まで帰るから! 料金高くついても怒んないでよ!」
『ちょっと、野乃子。落ち着いて』
「でなきゃ、誰か死んじゃう。来てくれる人が決まったら、できるだけ早くこっちに電話して!」
そんな説明では母親も何のことやら解らないだろうが、とにかく一刻も早く、猫たちを連れてこの家から離れたかった。
<コッペリア 開封厳禁>
そう書いたメモをコッペリアの頭を入れた缶の蓋にセロテープで貼り付け、野乃子は荷造りを急いだ。
* * *
叔母の佳穂子の検査入院は、一週間ほどで終わった。
あの日、慌ただしく叔母の家を出た野乃子は、五匹の猫を連れて、自宅に帰っていた。
佳穂子の退院には野乃子の母が付き添ったが、野乃子は猫の世話と称して家にいた。
あの恐怖が忘れられない。
自宅で猫とじゃれていると、病院から別荘地にある叔母の自宅に戻ってきたと、野乃子の母から電話があった。
母のあとに佳穂子が電話に出た。
『ありがとう、野乃子ちゃん。お世話になったわね。ニャンコたちはみんな元気?』
「あ、うん──」
『それにしても、どうしちゃったの? リビングの人形が全部アトリエにしまってあったけど。野乃子ちゃん、ビスクドール怖かったっけ?』
「そのことなんだけど」
野乃子は言葉に迷う。
頭だけのビスクドールの唇が動いていた。
そのドールが野乃子の問いにノックで返事をした。
そんなこと、信じてもらえるだろうか。
「佳穂子叔母さん、猫を引き取りにうちに来るでしょ? そのとき、話したいことがあるの」
『うん、解った』
「それから、すごく大事なことなんだけど、あたしが使ってたゲストルームのチェストの上に、青緑の八角形の缶があるの。アトリエに置いてあった花模様のやつ」
『ああ、あれね。綺麗な缶でしょう? 気に入ったのならあげるわよ』
野乃子はごくんと唾を飲み込んだ。
「あれ、触っちゃ駄目。開けないで。蓋に“コッペリア”って書いて貼ってあるから、できるだけ近づかないで」
叔母が笑う声が聞こえた。
『変な子ね。ただのお菓子の空き缶よ?』
「叔母さん、身体、大丈夫? 今日はお母さんと一緒にうちに来て泊まったほうがいいんじゃない?」
『大丈夫よ。体調不良で倒れたのが嘘みたい。明後日には叔父さんも出張から帰ってくるし。心配性ね、野乃子ちゃん』
できるだけ早くあの子たちを迎えに行くようにするわ、と屈託なく笑い、佳穂子は電話を切った。
都会の夏は暑い。
別荘地にある佳穂子の家は涼しかったから、なおさらだ。
五匹の猫は、叔父が出張から帰ったあと、夫婦二人で迎えに来るという。
気晴らしに友達とケーキバイキングに行っていた野乃子が帰宅すると、母親が彼女を待ち構えていた。
「野乃子、早く支度なさい。佳穂子の家に行くわよ」
野乃子はびくりとする。
「何かあったの?」
重苦しい予感。
母の表情が硬い。
「お母さん?」
「……野乃子。佳穂子叔母さん、亡くなったって」
「え……?」
息がつまった。
「さっき、連絡が来たの。心臓麻痺ですって」
「……」
呆然とする野乃子の足許に近寄ってきたクロエが、にゃあ、と鳴いた。
白い板壁に白い枠の格子窓、グレーの急勾配の切妻屋根の、木立ちに囲まれた瀟洒な家。
喪服を着て、家族でその家に到着した野乃子は、すでに来ていた親族の間をすりぬけて、真っ先にゲストルームを覗いた。
チェストの上に、それはあった。
美しい花模様の、八角形の青緑色の缶。
その缶の蓋はセロテープを何重にも巻いて、開かないように固定してある。
しかし。
「コッペリア……?」
“コッペリア”と、“開封厳禁”と、そう書いて貼っておいたラベルがない。
「コッペリア、まだそこにいるの?」
返事はない。
けれど、ラベルが消えているということは、叔母はこの缶に触ったのだ。
(……もしくは、叔父さんが?)
「イエスなら一回、ノーなら二回よ。缶の蓋を叩いて。そこにいるの?」
無音。
「佳穂子叔母さんに……なにか、した?」
美しい缶は無反応だ。
野乃子が貼ったセロテープは剥がされていない。
“彼女”はここにいるのか、いないのか。
たたずむ野乃子に、沈黙が無情に突き刺さる。
「これで最後よ、コッペリア。いるなら返事して。捨てられてもいいの?」
返事はない。──
逃げ出したい。
けれど、足が動かない。
そろそろと缶に伸ばしかけた手が小刻みに震えて、そこで止まった。
その蓋を開けて中を確かめるのが、野乃子には恐ろしかった。
≪ 前編 〔了〕
2018.2.3.