「くっそ! ねえ! あのバカ、鍵どこへ置きやがった」
まさかとは思うが、司の奴、ひとんちの鍵を持ったまま帰っちまったんじゃ──
ポストをはじめ、メーターボックスの中まで探したが、ないものはない。
畜生、鍵かけたあと、そのままポケットにでもつっこみやがったな?
──まいった。
おれは腕時計を見た。午前一時を廻っている。
くそ、今夜はこのまま、この廊下で夜明かしかよ。
JE TE VEUX
夕べは大学の悪友たちと、おれのマンションで明け方近くまで飲み明かした。
マンションといっても十畳ほどのワンルームだ。
そこへバイト仲間やその友人だかなんだかが押しかけてきたのが、夜の十一時をとっくに廻っていたんじゃなかったか?
そのまま飲み会に突入し、今朝、目覚めたおれの目に映ったものは、だらしなく酔い潰れて眠りこけているそいつらの姿。
「おい、司。おれ、部活の朝練あるからもう出るぞ?」
「あぁ──?」
幸せそうに眠っている茶髪の男の肩を乱暴に揺さぶり、おれはため息をついて部屋の中を見廻した。
鍵を託すにはどいつもこいつも不安だが、こいつが一番マシだろう。
「ほら、この部屋の鍵だ。出たらポストにでも放り込んどいてくれ」
「りょーかーい、解りました、あかりちゃーん……」
本当に解ったのかよ?
いや、解ってねえから、今こんな状況に陥っているんだろう、おれが。
今からスマホで呼び出したら、誰か泊めてくれる奴はいるだろうか。……無理だろうな。
しかし腹減った。だが、手持ちの金がねえ。部屋に入らないことには飯も食えねえ。
何が何でも元凶となった司のバカに鍵と飯を届けに来させてやる。
苛々と、鍵を持っているであろう張本人へスマホで電話しようとしたそのとき、
「……あの」
「ああ?」
不意に遠慮がちな女の声で呼び掛けられ、不機嫌この上ないおれは面倒そうにそちらへ目を向けた。
艶のある落ち着いた声だ。聞き覚えはない。
「どうしたの、あなた。その部屋の住人にご用?」
──驚いた。
そこに立っていたのは、癖のない黒髪を肩の少し下で切りそろえたすらりとした女。
向こうはおれを知らないが、おれは彼女を知っている。
「もう、こんな時間だし。今夜はとりあえず家に帰ったほうが……」
「ここがおれの家なんだよ」
思わずぶっきらぼうな口調になってしまった。
女は意外そうに眼を見張る。
「あなた、その部屋に住んでいるの?」
「それがどうした」
女の顔がふっと綻んだ。
「お隣さんなのね。ごめんなさい、知らなくて。私はこの部屋の者よ」
そう言って、女はおれの隣の部屋の扉を指差してみせる。
おれは仰天した。
「なぜ部屋に入らないの? 鍵を失くしたとか?」
「まあ、そんなようなもんだ」
「今夜はどうするつもり?」
「生憎、今から連絡取ったところで泊めてくれるような奇特な友達はいねえ。ここで寝る」
「ここでって、廊下で……? 不審者だと思われるんじゃない?」
「あー、じゃあ、ネカフェにでも行くよ」
女が首を傾げつつ眼を見開いたとき、絶妙のタイミングで腹が鳴った。
よりにもよってこの女の前で。──くそ、カッコわりい。
「じゃあ、うちに泊まる?」
「はっ?」
「お腹空いてるんでしょう? 残りものでよければ用意してあげられるわ」
って、おい。
なんだ、この女? 普通、部屋に呼ぶか? 初対面の男だぞ。
「遠慮しないで。どうぞ入って」
軽く固まっているおれの返事を待つことなく、今、帰宅したらしい女は玄関の鍵を開け、扉を開くとおれを中にいざなった。
隣の女の部屋は、同じワンルームとは思えないほどきちんと整頓された、居心地のよさそうな趣味のいい部屋だった。
「座ってて? ろくなものがないけど……ドライカレーと、あと、ポテトサラダでいいかしら」
「あ……ああ。悪いな」
とにかく飯が食えるならここは素直に従っておこう。
だが、部屋の隅に置かれたベッドがどうしても視界に入って困る。
いや、意識するなってほうが無理だろう。女は──彼女はここんところずっと、おれの頭ん中に居座っている人物だからだ。
「おい」
「なあに?」
「おれみたいなよく知りもしない男を泊めていいのかよ」
「お隣さんでしょう? 身許は判っているわ」
「いや、そういう意味じゃなくて!」
電子レンジで温めたドライカレーとサラダの皿、それに冷やした麦茶を小さなテーブルの上に載せ、女はおれの向かいに腰を下ろす。
「どうぞ食べて? それに、私、あなたのこと知っているわ」
「は?」
「大学が同じなのよ。図書館でよく見かけるもの」
思いもかけない言葉に唖然とした。なぜこの女がそれを知っている。
おれの疑問に気づいたように、女は苦笑した。
「だって、あなたって目立つんだもの。ここ二週間ほど、ほぼ毎日図書館に来て寝てるでしょう」
……気づかれていた。
だが、そういう意味か。そりゃ、嫌でも目につくな。
「何年生?」
「三年。あんたは?」
ありがたく出されたものを食べながら、さりげないふうを装って尋ねてみる。
見たところ、おれとそう変わらない年齢だろう。いや、一、二歳年上かもしれねえ。
何でもいい。この女のことが知りたい。
「私は院生よ」
ドライカレーを口に運ぶ手が止まる。
ちょっと待て。院生ってことは。
「ふふ、年齢を訊きたそうね」
「ばッ──!」
女は気にしていない様子でくすくすと笑った。
「あなたこそ、もう少し年上かと思っていたわ。三年というと……二十歳? 二十一?」
「二十一だ」
「嫌だ、四つも年下だったのね」
「へ?」
「あら、その反応は失礼よ?」
眉をひそめて軽く睨んでくるものの、本当に怒ってはいないらしい。
しゃべるとボロが出そうなので、おれはひたすら食べることに専念した。やっぱり、人に作ってもらった飯は美味いな。この女の手料理だからなおさらだ。
「そういえば、まだ名前も知らないわ。私は宮原亜弥。あなたは?」
「杉崎圭一」
「杉崎くん?」
「圭でいい」
奇妙な成り行きだったが、その夜、おれはその女──宮原亜弥の部屋に泊めてもらった。
誓って言うが、何もなかった。
知り合ったその日に、嫌われるわけにはいかない。
翌日、おれは亜弥さんと一緒に部屋を出た。
どうせ行き先は同じ大学だ。
ああ、なんか嘘みたいだな。結局、一睡もできなかったが、こうやって並んで歩いていることが信じられねえ。
いや、それ以前にまさか隣の部屋に住んでいたとは。奇遇すぎて言葉もない。
なんでもっと早く気づかなかったんだ。
ふと横を歩く彼女の様子を窺うと、何か言いたげにこちらを見ていた。
「なんだ?」
「ああ、ごめんなさい。ずっと気になっていたのだけど……」
そう前置きをしてから、亜弥さんはおれに、なぜ毎日図書館で寝ているのかと尋ねた。
「やっぱり静かだから寝やすいのかしら?」
「そんなわけねえだろ。図書館へ行くのはあくまで勉強のため、だ」
実際はそれだけじゃねえが。
「勉強してるところ、見たことないわ」
「うるせえ。途中までは確かに勉強してんだよ」
そう、試験期間が目の前だ。
部活の弓道と深夜までのバイトの疲れやなんかで、講義中、それこそほとんど寝ちまっているため、マジでヤバい。
慌てて同じ講義を取っている奴らにノートを借りまくり、試験に備え、図書館にこもって集中的に勉強しようとしてたってわけだ。
「でも、いつ見ても寝てるわよ、あなた。勉強のほうはいくらもはかどってないんじゃない?」
「わーってる! 本を開くと眠くなんだよ」
いや、勉強がはかどらないのはそれだけのせいじゃない。
──図書館でおれの目を釘付けにした、一人の女の存在。
いつも同じ席で、いつも数冊の分厚い本を机に並べ、静かに読みふけるその女の周りだけ、空気の色が違う。まるで時間が止まっているかのような静寂に包まれている。
美しいと思った。
思ったら目が離せなくなった。
今まで何人かの女に言い寄られたことはあるが、自分から特定の女に興味を持つことなどなかった。
なのにその女は、引力のような力でおれの心を惹き付ける。
勉強なんか手につかねえ。
その女を見るために、ただそれだけのために、気がついたらおれは毎日図書館へ通っていた。女を眺めているはずが、いつの間に眠っているのかは謎だ。
「しょうがないわね」
ふと夢想から現実に引き戻されてみると、昨日まで名前も知らなかったその女がおれに向かって微笑んでいる。
「試験までもう何日もないでしょう? よかったら、私が勉強を見てあげましょうか」
「は?」
「無理にとは言わないわ」
いや、願ってもない。
「一人だとまた寝ちまいそうだからな。頼めるんなら助かる」
「じゃあ、よろしくね」
「ああ」
堂々と彼女に逢える口実が向こうから転がり込んできた。
その日から、試験期間が終わるまで、おれと亜弥さんは何とか時間のやりくりをして、亜弥さんの部屋で試験勉強をすることになった。
この人に情けない姿は見せられないので、おれもそれなりに勉強に身が入る。
自分から勉強を見ると言っただけあって、亜弥さんはかなりの博識だった。史学が専門だそうだが、専門外の分野でも、おれに教えるくらいなら充分すぎるほどの知識を持っている。
おかげで、今回、赤点は免れそうだ。
「ちょっと休憩にしましょう」
そう言って、亜弥さんは立ち上がった。
キッチンに向かい、コーヒーの準備を始めた。
そんな亜弥さんの後ろ姿を見るのが好きだ。
気になる女の部屋で、同じ時間を共有し、その女の淹れたコーヒーを飲む。
まるで恋人同士みたいじゃねえか。
図書館でのクールな印象とは裏腹に、亜弥さんはよく笑う陽気な人だった。
仄かな至福じみた気分に浸っていると、不意にどこかで聴いたことのあるメロディが流れ出した。
「なんだ?」
「あ、私のスマホ」
ベッドの上に置かれたバッグの中からスマホを取り出すと、二言三言話し、亜弥さんは通話を終えた。そして、淹れたてのコーヒーのカップを二つ、こちらに運んでくる。
「亜弥さんの着メロ、どこかで聴いたような曲だな」
「有名な曲よ。“ジュ・トゥ・ヴ”っていうの。知らない?」
「いや?」
すると、亜弥さんはテーブル越しに身を乗り出し、黒い瞳でまっすぐおれの眼を捉えると、紅い唇からその言葉をゆっくりと紡ぎ出した。
「“あなたがほしい”」
「なっ──?」
どきりとした、なんてもんじゃねえ。
幻聴かと耳を疑った。
「フランス語よ。とても好きな曲なの」
「って、曲の名前かよ!」
脅かすなっつうの! 心臓止まるかと思ったぞ?
一瞬でも勘違いしそうになった自分に腹が立つ。そんな無邪気な顔でころころ笑ってんじゃねえ。
「……男からの電話か?」
「いいえ? 女友達だけど」
亜弥さんは微笑みを湛えたまま、やや首を傾げておれを見遣る。
「気になる?」
そんな顔で見るな。誤解するだろうが。
いや、待てよ。
今まで考えもしなかったが、恋人がいる可能性は大いにある。彼女みたいな美人に恋人がいないなんて、そのほうがおかしくねえか?
「亜弥さん、つきあってる男とかいねえのかよ?」
我ながら声が尖っているような気がしなくもないが。
「残念ながら」
と、亜弥さんは頬杖をついてにっこりと笑う。
「いたら、お隣さんを部屋に招いて勉強を教えるなんて、誤解されかねないようなことしないわ」
そりゃそうか。……安心した。
「しかし、周りの男が放っておかねえだろ」
「そうかしら? 古代史の研究に夢中になっている女なんて、きっと、つきあってもつまらないと思われているわ」
怪しいもんだ。
周囲の男どもは必死にアプローチしていても、亜弥さんが気づいてないだけなんじゃねえか?
「それとも、あなたが立候補してくれる?」
「ぶっ!」
危うくコーヒーを噴き出しかけた。
「なっなっなっ……!」
「やだ、そんなに慌てなくても。ふふふ、私、年上だものね」
いや、年なんか関係ねえ。ねえ……んだが。
──くそ、からかっただけなのかよ。
無性に腹が立ち、優雅にコーヒーカップに口をつける亜弥さんを睨みつけてやった。
2007.7.13.
加筆修正 2019.3.18.