試験期間に突入したかと思うと、瞬く間に日が過ぎていく。
久しぶりに司と学食で一緒になった。
あの日、おれの部屋の鍵を持って帰っちまった迷惑な奴だ。もっとも、そのおかげでおれは亜弥さんと親しくなれたわけだが。
司は昼飯を食っていたおれの向かいの椅子に座り、鞄から女からの差し入れと思しい弁当箱を取り出した。
「よう、圭。おまえ、最近つきあい悪いな」
「時期を考えろ。この期間中に遊び歩いてるおまえのほうが信じられねえ」
こいつ──司は女好きでチャラい奴だが、頭のほうは優秀らしく、いつ勉強してんのかってほど遊んでいても、単位を落としたことがねえ。
試験期間だってのに平然としたものだ。
「いや、圭だけじゃねえよ。飲みに誘っても誰も乗ってこねえ」
「当たり前だろ」
「で、試験の最終日の夜に的を絞ったわけだ」
「何か奢ってくれんのか?」
「おまえじゃねえ! あかりちゃんだ! 試験が終わり、解放された気分のところをデートに誘う」
「懲りねえな。何回当たって砕ければ気がすむんだ」
こいつは二学年下に笹本あかりが入学してきたときから狙っていたが、口説いては振られ続け、かれこれ三ヶ月以上になる。にも拘らず、めげることを知らない。
その根性だけは恐れ入る。
と、突然、奴は食べていた弁当の箱を押しのけ、テーブルに突っ伏した。
「……それが今回も砕けちまった」
「今さら落ち込むことでもねえだろうが」
「一度はOKもらったんだぞ? それが、今日になってやっぱり駄目ときた」
おれは箸を持つ手を止め、軽く眼を見張る。
「へえ、笹本がおまえとつきあう気になったのか。あいつ、チャラい男は嫌いじゃなかったのか?」
笹本あかりはおれと同じ弓道部での後輩でもある。
揶揄を含んだおれの言葉にも、てんで反応を返さないところを見ると、余程落ち込んでいるらしい。
「つきあうところまではいってねえよ。明日の夜、二人で野外コンサートに行こうとだけ、何とか約束を取り付けた」
「明日?」
そうだった。
試験期間は明日で終わり。おれが取っている講義の試験も今日の午前中で全て終了した。
おれと亜弥さんの関係も、もしかしてこれで終わりなんだろうか?
「あかりちゃん、お姉さんがいるだろ?」
「ん? ……ああ、そうなのか?」
「彼女、お姉さんとルームシェアしてんだよ。そのお姉さんが、夏風邪こじらせて寝込んじまったらしい。それで、おれとのデートよりお姉さんが心配で看病がしたいんだと。あかりちゃん、やさしいなあ……」
うじうじとつぶやくように独りごちる司はテーブルに頭を落としたまま人差し指で「の」の字なんか書いている。……ありえねえ。
ってか、他の女に弁当作らせて、別の女を口説こうとしてる時点でどうなんだよ。
「まあ、そうしょげるな。今回ははっきり振られたわけじゃねえんだろ」
「おれはなあ、明日の夜はそのコンサートでマジに告白しようと思ってたんだよ」
まだ続ける気か。
って、おまえの「マジに告白」はいったい何回あるんだよ。
「毎年一日だけやる人気のコンサートでさ、あかりちゃん、行きたがってたから、ちょっと頑張っていい席取ったのにさ……」
「別に明日告白しなきゃいけないこともねえだろうが。諦めろ」
「チケット高かったんだぜ? ああ、でも、ここであかりちゃんとお姉さんのためにスイーツでも持ってってあげたら、好感度は上がるんだろうなあ」
つまりチケットを無駄にするのが勿体ないってか。
「何のコンサートなんだ?」
「これだ」
奴は丁寧に折りたたまれたチラシとチケットをよこしてきた。
「ピアノ? クラシックか」
こんなもんに興味はない。だが──曲目のリストにふと目が留まった。
「人気ピアニストの夏の恒例コンサートだ。曲名見てみろ。って、おまえには解らねえか。上から三つ目の曲。それが始まったら、さりげなくあかりちゃんの耳元に、この曲はおれの気持ちだよ、とこう──」
“ジュ・トゥ・ヴ”。
確か、この曲が好きだと言っていた。
「おい、おまえ、どうせ明日はコンサートには行かねえんだろ?」
「まあな。別の女誘ったりしたら、今度こそ完璧に嫌われる」
「なら、これおれに譲れ。このチケットで、いつかの鍵のことチャラにしてやる」
すると、今までの落ち込みようは何だったんだと思うくらいの勢いで、奴はがばっと顔を上げた。
「なんだ、圭? 女か?」
「おまえには関係ねえ」
「女だな? そうなんだな? とうとうおまえも女に目覚めたか。誰だ。この大学の学生か?」
あーもう、面倒くせえ。こいつにだけは絶対亜弥さんを紹介するまい。
「誰でもいいだろ。とにかく、これで貸し借りなしだ」
すでに飯を食い終えていたおれは、相手は誰だとわめく傍迷惑な男を置き去りにして、早々に学食を出た。
建物から出ると、まぶしい夏の陽の光が視界を白く灼く。
おれは大学の構内の木陰に設置してあるベンチに腰を下ろし、スマホを取り出すと、亜弥さんのナンバーを押した。
『もしもし?』
すぐに耳に心地好い、落ち着いた声が聞こえてくる。
「亜弥さん、明日の夜はあいてるか?」
『明日? ええ、あいているけど』
「じゃあ、そのままあけとけ。七時に駅前で待ってる」
『七時に駅前って、もしかして……』
微かに息を呑む気配が伝わってきた。
野外コンサートは七時半から駅前の公園内の野外音楽堂で行われる。驚かせてやろうと思ったのに、察しのいいことだ。
「勉強手伝ってもらった礼だ。必ず来てくれ」
向こうの都合も聞かず、言うだけ言って、通話を切った。
待ち合わせ場所に辿り着いたとき、腕時計の針は七時五分前を差していた。
彼女を待たせるような真似だけはせずにすんだと安堵しかけたとき、肩をたたかれ、やわらかな声で「圭くん」と呼ばれた。
振り向くと、涼しげな砂色のワンピースを着た亜弥さんが、微笑みながら立っている。
「……悪い。待たせちまったか」
少し落胆の響きを含んだ声で応えると、黒髪をさらりと揺らし、肩をすくめて首を振る。
「私が早く来すぎたの。私の予想通りなら、野外コンサートに誘ってくれたんでしょう? とても行きたかったんだけど、チケットが取れなくて」
そんなに人気のあるコンサートだとは知らなかった。今回ばかりは司に感謝だ。
「嬉しいわ。でも、本当は他の人と行く予定だったんじゃないの? ──彼女とか」
「彼女がいたら、あんたんちにあがりこんで勉強を教えてもらったりしねえよ」
いつかの亜弥さんと同じ台詞を吐くと、安心したように彼女は笑う。
まいったな。
“気になる女”だったこの人は、ここ十数日の間に“惚れた女”に昇格しちまった。
「ここの野外音楽堂では、音楽を聴きながらの飲食が容認されているって知っていた?」
「知らねえ」
そういえば、コンサートに誘うことばかりに気を取られ、晩飯にまで頭が廻らなかった。どこかレストランでも予約しとくんだったか。
「コンサートの日は、この辺りの店はどこもすごい混みようなの。だから、お弁当を持ってきたわ」
嬉しそうに肩に掛けた籠バッグの中身をおれに見せる。まるで少女のようだな。
おれより年上のはずの亜弥さんを、可愛い、などと思っちまった。
「わざわざ作ってきたのか?」
「サンドイッチだけど。これだけではあなたは足りないでしょうから、部屋には夜食も用意してあるわ」
部屋?
この人は、また不用意に期待を持たせるような言葉を……
ため息をついて口を開きかけたとき、亜弥さんのバッグの中から知らないメロディが聞こえた。
「ごめんなさい」
そう言ってスマホを取り出すと、おれから少し離れ、亜弥さんはそれを耳に当てた。
亜弥さんのスマホが鳴るとき、そのメロディはいつも“ジュ・トゥ・ヴ”だった。いつもと違うメロディが告げるのは、特別な相手からの電話なのか。
しばらくして戻ってきた亜弥さんに誰からだと問おうとしたら、先手を打たれた。
「研究室の仲間からだったわ」
「着メロ変えたのか?」
「ええ」
「前のやつは? 好きな曲だって言ってた──」
「ああ、あれ?」
亜弥さんはややバツが悪そうな顔になり、困ったような笑みを見せた。
「あなた専用の着信音にしたわ」
思わず眼を見張ると、誤魔化すように手を握られた。
「ここ人が多いから。はぐれないように」
開演の七時半が近づくにつれ、どんどん人があふれてくる。そんな公園内を、亜弥さんに先導されて音楽堂へと向かった。
つながれた手に力を込めると、やわらかく握り返された。
人込みの中をゆっくりと歩きながら、前を見ながら、亜弥さんが話す。
「あなたのこと、実を言うと以前から気になっていたの」
「なっ……?」
今なんて言った?
驚いて亜弥さんを見遣ると、眼の表情を隠すように、わずかに睫毛を伏せていた。
「図書館で寝ているあなたを見かけて、この人はどんな夢を見ているんだろうって想像するようになって、それが楽しくて、あなたに興味を持った」
歩きながら、おれはじっと亜弥さんの表情を探るように凝視した。
悪戯が見つかった子供のような、遠慮がちな告白は続く。
「偶然にも隣に住んでいることが判って、本当に驚いたわ。あなたのことがもっと知りたくて、勉強を見てあげるなんて、単なる口実だったのよ」
そこでちらりとおれを見遣り、恥ずかしそうに微笑んだ。
「今だから言うけど、試験が終わったら、もうあなたとの関わりもなくなってしまうかもしれないと少し寂しかった。だから、誘ってくれて本当に嬉しい。あのあと、すぐに“ジュ・トゥ・ヴ”をあなた専用の着信音に変えたくらい」
音楽堂の入り口に到着する。
列を作る人の群れの最後尾に並び、足を止めると、亜弥さんは少しうつむき加減になり、おれにだけ聞こえるくらいの声でぽつりと洩らした。
「あの曲、好きだから」
そして、こちらを向き、吸い込まれそうな瞳でおれを見つめる。
「これからも電話してくれると嬉しいわ」
「……」
くらりときた。
これは、言葉通りの意味として受け取っていいんだな?
これまでの思わせぶりな態度は、おれの勘違いじゃなかったってことだよな?
おれは、つないだままの華奢な手をぎゅっと握りしめると、ぐいぐいとその手を引き、音楽堂にずらりと並ぶ椅子の中から、チケットに記載された座席番号を持つ椅子を探した。
やっと席を探しあて、そこに落ち着くと、おれは音楽堂の入り口で受け取ったプログラムを亜弥さんの手に渡す。
「三曲目、見てみろ」
「あ……」
「この曲があったから、亜弥さんを誘った」
「圭くん──」
察しのいいあんたのことだ。
曲名を見れば、おれの言いたいことくらいお見通しだろう。でなきゃ困る。
そして、おれは自分のスマホを亜弥さんに差し出す。
「おれのスマホも設定変えてほしい」
「設定? 何の?」
唐突な申し出に、おれのスマホを受け取った亜弥さんが不思議そうに、やや不安そうにおれを見る。
「亜弥さんから掛かってきたらすぐ判るように。着メロ、個別設定してくれ」
大きな黒い瞳があどけなく見開かれた。
「それは、今後も電話していいということ? 用がなくても?」
もうひと押し。
隣に座る亜弥さんの艶やかな黒髪をすくいあげると、おれはその耳元に唇を寄せた。
「リクエストは“ジュ・トゥ・ヴ”だ」
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2007.7.27.
加筆修正 2019.3.18.
当時はガラケーだったのもスマホに変えました。