我が愛を愛す
01:あなたは美しいが冷淡だ
激しい嵐の夜だった。
けたたましく扉を叩く音に、ベスは驚いて玄関に向かった。
「……どちら様?」
わずかに扉を開け、様子を窺えば、顔を知っている数人の村の男たちが雨風にびしょ濡れになって立っていた。
慌ててベスは大きく扉を開けて、彼らを家の中に迎え入れた。
簡素な、小さな民家だ。
「悪いな、ベスさん。この男を預かってほしい。村長の意向だ」
「誰ですって?」
男たちの中に、両手首を縄で縛られた、彫像のように端麗な青年がいた。
美しい。けれど、その表情は冷たく、衣は汚れ、顔にはたくさんの痣や傷の痕があった。
冷ややかな視線が突き刺すようだ。
「村では見ない方ですね。どなたですの?」
村の男たちは困ったように顔を見合わせた。
「数日前、浜に打ち上げられて、倒れているのを村の者が見つけたんだが、これ以上、この男を村に置くことはできんのでな」
「ええ?」
「記憶を失っている。引き取り手がいないんだ」
ベスは大きく眼を見開いた。
村の男たちは顔を見合わせて、うなずき合う。
「村長が、あんたなら、この男をどうにかできるだろうと……」
「我々もあんたが適任だと思う」
だが、ベスは困惑して首を振った
「でも、この家には私一人ですし……」
「この男は、人魚に攫われて記憶を失ったんじゃないかと、皆、思っている」
「人魚に攫われた?」
中世と呼ばれる時代。海の近くの僻村には、人魚の伝説があった。
ベスは一人で山際のこの家に住み、その人魚の伝承を研究している。
「人魚は災いをもたらすのだろう? 我々では対処できんのだ」
「現にこいつは村の娘を何人も惑わせ、村の若者の中には、婚約者を寝取られた者もいる」
「この嵐もこいつが招いたに違いない」
「まあ……」
さすがにそれらの言葉にはベスも眉をひそめた。
「あんたが一人暮らしだとは承知しているが、家畜小屋に縛り付けておけば大丈夫だ。少なくとも、あんたは人魚の専門家だからね」
人魚は怒らせると嵐を呼ぶといわれている。
村人たちは、村の娘たちが青年の虜になり、憤慨した若者たちが青年を棒で殴りつけたため、青年がこの嵐を起こしたのだと信じているのだ。
嵐の中、そそくさと青年を家畜小屋の柱にくくり付けて帰っていく村人たちを、ベスはなす術もなく見送るしかなかった。
残されたベスが縛られた青年を見遣ると、青年の青い美しい瞳が、冷淡な眼差しでベスを見つめていた。
02:小さな幸せ
夜が明けると、昨日の嵐が嘘のように、空は晴れ渡っていた。
眠れぬ夜を過ごしたベスは、朝早く、水を入れたコップを持って家畜小屋を覗いた。
美しい青年は、柱に縛られたまま、ぐったりと眼を閉じている。
しばらくその顔を眺めていると、ゆっくりと青年の瞼が開かれた。
ベスは息を呑む。
「あ、あの、昨夜はごめんなさい。あなたはこの国の人? 言葉、しゃべれて?」
「……ああ」
掠れた声で、彼は答えた。
「お水、どうぞ」
「……」
「あ、縛られていたままじゃ、飲めないわね」
コップを置き、青年を縛っている縄に手を伸ばしたベスを、青年は警戒するように見据え、鉛のように重い口を開く。
「いいのか? 縄を解いて、おれが暴れるとは思わないのか?」
彼女は初めてそのことに気づいたように、ふと、その手を止めた。
「本物のならず者なの? 縄を解いたら、暴れたりする?」
どこか呆れたように、冷たい瞳でじっとベスを見つめ、ややあって、青年は首を振った。
「暴れないよ」
「本当に記憶喪失なの?」
「ああ」
「何も覚えていないの?」
「……ノーマン。それだけだ」
ベスは青年の身体を家畜小屋の柱にくくり付けていた縄を解き、水の入ったコップを手渡した。
「ノーマン。あなたの名前ね」
ベスの差し出した水を、青年──ノーマンは一気に喉を鳴らして飲み干した。
「傷だらけね」
「村の奴らに手ひどくやられた」
「私、薬草に詳しいのよ。家に入って。手当てするわ」
「あんた、変わってるな」
昨夜、嵐の中をあのような異常な状態で連れてこられた見知らぬ男を、おそらく女の一人暮らしであろう家に招き入れるなど、怖くはないのかとノーマンは尋ねた。
「だって、あなた、淋しい目をしているもの」
「……」
「道に迷った野良犬みたい」
ベスは立ち上がり、手を貸して彼を立ち上がらせた。
「記憶喪失なら、記憶が戻るまでここにいればいいわ」
ノーマンは警戒の色を濃くし、彼女を見遣る。
「……あんた、貴族のお姫様だったんだってな。エリザベスという名前だと村の奴が言っていた」
「昔の話よ。その名は捨てたわ。ベスと呼んでちょうだい」
「ベス──」
ふらつくノーマンの身体を支え、彼女はうなずく。
「あなた、今、独りぼっちなのね」
そして、微笑した。
「私もよ。だから、話し相手ができると嬉しいわ」
表情の選択に戸惑い、ただ己を見つめる美しい青年を見上げ、ベスは、これまで自分が孤独だったことに気づいた。
03:あなたの哀しみに寄り添う
家に入ると湯を沸かし、ベスはノーマンに身体を拭うように言った。
その間、彼女は食事の支度と薬草の用意をした。
全身の打撲の影響か、彼は微熱もあった。
ベスはそのための薬草も煎じた。
「あんた、人魚のことを調べているんだってな」
薬草を塗布した布を身体に巻かれ、煎じ薬を飲まされ、ノーマンは強張った低い声で問う。
「あんたは、おれが人魚に攫われた災いをもたらす存在だとは思わないのか?」
「人魚の伝承を研究しているのよ。実際に人魚に出会ったことはないわ」
答えたベスは、テーブルに簡素な食事を並べ、彼に勧めた。
昨日から何も食べていないらしい彼は、温かいスープやパンをがつがつと口に入れた。
「人魚は美しい人間の若者を好み、魔力で虜にして攫うというけれど、私はまだ、攫われて、戻ってきた人間を見たことがないわ。そんな事例はまだないの」
ベスは上品にスープを口に運んで、さりげなくノーマンを見つめる。
言動は粗野だが、古の神の彫像のように、彼は整った顔立ちと均整の取れた肉体を持っていた。
「あなたの記憶がない以上、あなたが人魚に攫われたかどうかなんて、誰にも証明できないわ」
食事をするノーマンをじっと見つめていたベスは、ふと、気にかかることを尋ねた。
「あなたが村で若い娘さんに……その、ひどいことをしたというのは、本当なの?」
「眼が覚めたら、真っ暗な部屋の中に女がいた。だから、おれの女だと思った」
「まあ」
「女も抵抗しなかった。なんで、おれだけが責められ、殴られるんだ」
「……」
貴族出身のベスには理解しがたいが、彼の属する階級の者たちは、恋愛に対する考え方も、ベスが思うよりずっと素朴なのだろう。
ベスが葡萄を盛った皿を持ってきて、テーブルに置くと、ノーマンはそれに手を出し、ちらとベスを見た。
「貴族のお姫様だった人が、こんな辺鄙な村で何をしているんだ?」
「その貴族のお姫様というの、やめて」
彼女は苦笑した。
「過去なんて、捨てたいの。今の私はただのベス。ここで人魚の伝承を研究している、それが全てよ」
「どんな過去でも、記憶はあったほうがいい」
「なくしたい記憶だってあるのよ」
房から葡萄をひとつつまみ、それを口に入れる。
愁いを帯びたベスの表情は、どこか崇高に見えた。
「あんた、いくつだ?」
「もうすぐ三十になるわ。あなたはたぶん、私より五つくらい若いのでしょうね」
「いつから、この村にいる?」
「どうでもいいことよ」
ベスは遠い目でつぶやいたが、逆にノーマンはベスの過去に興味を抱いたようだった。
「おれには過去がない。代わりにあんたの過去を聞かせてくれ」
「つまらない話よ」
淋しそうに微笑んで、彼女は言った。
「恋人に捨てられたの」
「恋人も、やっぱり貴族なのか?」
「彼は各地の伝承を研究する学者だったわ。爵位はない。私は伯爵家の三女だった。彼は私の家庭教師の紹介で、私の生家の城にまつわる歴史を調べるため、私が十六のとき、一年ほど城に滞在したの」
学問が好きで好奇心旺盛だった十六歳のエリザベスは、次第に学者である博識な彼に惹かれていった。
最初は師として。
それから、異性として。
「私は彼を師と仰ぎ、やがて、それは恋心へ変わっていった。彼は私より十も年上だったけれど、私を受け入れてくれたわ」
やがて二人は恋人の関係になった。
エリザベスは父親に、城を出て都へ行く学者について行きたいと伝えたが、当然、そのようなことが許されるはずはなかった。
伯爵令嬢が一介の学者と一緒になれるわけがなく、女性が学問を究めることも、彼女の父には何の意味もなさないことだった。
彼女は家を出る決意をした。
母は泣き、兄や姉は彼女をいさめ、けれど、彼女は恋を選んで、伯爵家から縁を切られた。
「彼と一緒に都へ行って、いろんなことを学んだわ。彼は大人で、たくさんのことを知っていた」
あちこちの土地を巡り、各地の伝承を調べ、研究する。
それが彼の学者としての専門分野であり、ベスは彼に同行し、その助手を務めるほどに学問に励んだ。
「けれど、幸せな日々は、三年か四年で終わったわ。彼が数年ぶりに故郷へ帰るというので、私は彼の故郷で、やっと彼の正式な花嫁になれると期待したの。でも」
「でも?」
「彼は私を故郷に連れて帰ることを頑なに拒んだわ」
「どうしてだ?」
ベスの表情がふっと翳り、彼女はじっと己を見つめるノーマンからそっと眼を伏せた。
テーブルの上で重ね合わせた両手が震える。
「……彼には、故郷に残してきた奥様とお子さんがいたの」
ノーマンの瞳が微かに見開かれた。
「彼は最初から本気ではなかったのよ。世間知らずな私は、勝手に恋に舞い上がって、簡単に捨てられてしまった。私は家や家族さえ──捨てたのに」
「ベス……」
「研究を続けるのも、彼への当てつけ。それに、何かを極めたい意地もあるわ」
女としての意地。それは、裏切った男に対するやり場のない想いに支えられた哀しいプライドだった。
ノーマンはベスの哀しみに寄り添うように、じっと彼女の話に耳を傾けていた。
04:私を覚えていて
ノーマンはベスの家にとどまった。
行く当てもない、帰る場所もない彼を、ベスは村人たちからかくまった。
海辺の村の住人たちは、伯爵令嬢だったベスを変わり者のお姫様と考え、一線を画していたが、それと同時に、難しい学問を収め、薬草の知識も豊富な彼女に一目置き、立派な女性だと尊敬もしていた。
「村にはお医者様がいないのよ」
と、ベスは説明した。
「だから、私なんかの知識でも、ずいぶん役に立つの」
そのようなわけで、ベスがノーマンを引き取ることについても、彼女が必要だと言えば、村人たちに異存はなかった。
彼らは人魚に魅入られた青年に憑いた魔性を、ベスが祓ってくれるだろうくらいに考えた。
ノーマンはベスの生活に少しずつ馴染んでいった。
ベスもまた、男手があると、何かにつけて便利である。
二人は一緒に家畜の世話をし、自給自足の小さな畑を耕し、薬草園の世話をした。
ベスはよく笑うようになった。
そして、長い間、自分が笑っていなかったことに気づいた。
「おれは何者なのだろう」
時々、働く手を休め、ノーマンはつぶやく。
そんなとき、ベスは海の向こうへ想いを馳せた。
「そうね、異国の船乗りではないかしら」
「船乗り……」
「乗っていた船から海に落ちたのか、船が沈没したのか……あなたの手は労働者の手だから、商人ではないと思うわ」
ベスは野菜を、ノーマンは薪を抱えて、台所まで運んだ。
「人魚に攫われたと思われたのは、溺れて浜まで流されたからでしょう? あなたはとても美しいから、人々はそう思い込んでしまったのね」
「美しい?」
「ギリシアの神のようよ。だから、村の娘さんたちはあなたの姿に憧れたのではないかしら」
ノーマンはふとベスを見つめる。
「あんたが過去を捨てたとしても、あんたの家族はあんたのことを忘れないだろう。おれにも、そんな家族がいるのだろうか」
「そうね。ご家族やお友達は、今もあなたを心配しているでしょうね」
「……」
竈のそばに薪の束を置き、表情を曇らせるノーマンを見て、ベスは努めて明るく微笑した。
「とにかく、今は新しい記憶を増やしましょう」
「ベス……」
「そして、いつか、あなたの記憶が戻って、再び海に出ても、私のことはずっと忘れずに覚えていてね」
「ああ、あんたはおれの恩人だ。いつまでも忘れない」
彫像のように美しい青年の顔にも、少しずつ、笑顔が見られるようになった。
05:揺れる想い
外は激しい雨が降っていた。
こんな夜は、ノーマンが初めてここへ連れてこられたときのことが思い出される。
深夜、雨の音に眠れず、ベスはベッドに起き上がって、窓の外の雨を見ていた。
カタン、と寝室の扉がわずかに開いた。
この家には、居間と台所とベスの寝室しかなく、ノーマンは居間の片隅に簡易のベッドを作って、そこで寝ている。
「ノーマン?」
いくら称号を捨てたといっても、伯爵令嬢として育てられた彼女は慎み深い淑女だった。
恋に溺れた十代の頃の小娘ではない。結婚もしていない男性と同じ部屋で寝るわけにはいかない。
そんな彼女の性格は、ノーマンも承知している。
だから、真夜中に彼が彼女の寝室の扉を開けたことが、ベスにはとても現実だとは思えなかった。
「……どうしたの?」
これは夢──? 寝室の扉がさらに開かれ、闇の中にノーマンの影が浮かんだ。
「雨の音が……あんたが泣いているような気がして」
寝衣の襟元をかき合わせ、ベスは息を呑んで彼を見遣る。
彼の影が揺らめいた。
「駄目よ。朝になってから、お話ししましょう」
「……泣いて、いないか?」
「ええ」
しかし、その声は掠れていた。
油断すると嗚咽が洩れそうになる。
「あんたを困らせたいわけじゃない」
ノーマンは低い声で言った。
「こんな夜は不安になる。──あんたは?」
「……」
「何もしない。ただ、一緒にいていいか?」
淋しさに負けたとは思いたくない。
全身を強張らせ、けれど、ベスは拒絶することができなかった。
「ベス」
ベッドをきしませ、ノーマンは彼女の横に座り、彼女の身体をそっと抱いた。
そのまま、彼は本当に彼女に何もしなかった。
ただひっそりと寄り添って、朝まで激しい雨の音を聞いていた。
何年も忘れていた人の温もりが、彼女の心を浸していった。
2018.5.12.