我が愛を愛す
06:思わせぶり
ベスは、家畜を飼い、自宅の菜園で野菜を育てていたが、他に入り用な品物があると村まで行って、薬草や刺繍、レース編みの小物などと物々交換をした。
貴族の令嬢であったベスの洗練された刺繍やレース編みは、村の女たちに喜ばれた。
結婚式などがあると、花嫁はわざわざ山際のベスの家まで訪れ、花嫁衣装に刺繍してほしいと頼むほど、晴れ着に施されるベスの刺繍は美事だった。
また、医者のいない村では、病人が出た際にもベスは呼ばれ、簡単な病なら彼女が持っている薬草と知識で治療することができた。
そんなときも、お礼は金銭ではなく、品物で用意された。
互いにそのほうが都合がよかった。
村人たちから、その後のノーマンのことを訊かれると、いつもベスは「教会の使う薬草で、人魚の魔力の呪縛を少しずつ解いている」と答えた。
迷信深い村の人たちに、人魚とノーマンは何の関係もないと説明したところで、すぐには聞き入れてもらえないだろう。
そんなふうに、彼女は表面上は穏やかな生活を送っていた。
ベスが村から戻ってくると、家畜小屋で牛の世話をしていたノーマンが彼女を出迎えた。
「おかえり、ベス」
「ただいま。何も変わりはない?」
「ああ。静かなもんだ」
ベスに近寄ったノーマンは、彼女の肩に手を掛け、頬に軽くキスをした。
「!」
おかえりという、親しみを込めた、ただそれだけのキス。
不意にベスは頬に熱さを覚え、彼から眼を逸らし、足早に家の中に入った。
鼓動が速い。
(こんなことで、ドギマギするなんて)
ノーマンが少しずつベスに心を開こうとしていることを、ベス自身も感じていた。
だが、それは、世話になった感謝の気持ちからだろう。
村でもらってきた魚を台所のテーブルの上に置き、治まらない鼓動に狼狽しながら、ベスは思った。
(もし、ノーマンの記憶がこのまま戻らなかったら)
この家で、ずっと彼と二人で暮らせたら。
ずっと、ずっと一緒に、ここで。
彼女のあとから台所に入ってきたノーマンが、テーブルの上の魚を見て、彼女に微笑んだ。
「魚、おれがさばこうか? 記憶を失っていてもこんなことはできるんだから、不思議だな」
「ええ。では、お願いするわ」
ベスはまだ彼の眼が見られず、うつむいたまま答えた。
「ここの生活は静かでいい」
独り言のようなノーマンの声が聞こえた。
「おれの記憶が戻らなくても、あんたとここで暮らすのも、いいかもしれない」
思わず彼女が彼を見上げると、目が合ったノーマンはにこりと笑った。
「あんたさえよけりゃな」
それは彼の本心だろうか。
胸がざわつく。
彼は私を、どのように見ているのだろう?
姉のように?
それとも、女として?
ふと、ベスの脳裏に、かつて愛した男の面影が浮かんで、消えた。
07:触れないで
ノーマンはやさしい。
おはようのキス、おやすみのキス、行ってきますとただいまのキス。
ノーマンとのキスの数が増えるたび、ベスの胸は棘が刺さったように痛んだ。
寝室は今も別にしているが、眠れぬ夜は彼の心の内を想い、心を乱す。
やさしくされて、期待する自分が嫌だった。
村の人たちには半ば神格化され、別の世界の人間として扱われているベスは、自分が世間の基準で決して若くはないことを知っていた。
不器量ではないが、特別に美しいというわけでもない。
若く美しい青年と二人きりで生活しても、村ではそういった類の噂が流れることすらなかった。
ノーマンは未だベス以外の村人にとっては危険な人物だと思われていたし、そういう意味では、二人は村から孤立し、互いが世界の全てだと言えた。
だが、寂しさを舐め合うのは嫌だ。
過去のようにはなりたくない。
彼に惹かれていく自分自身に戸惑いながら、それでもベスは、ノーマンと一定の距離をとり、失うかもしれないものを得ることを恐れていた。
ノーマンは、次第に未来を見つめるようになっていった。
記憶がない事実に漠然とした不安は残るものの、ベスとの生活に正面から向き合い、畑や家畜の世話や家の修繕や、ときには料理も進んでこなしている。
彼自身が村へ行くことはないものの、彼は完全にこの家での生活にとけ込んでいた。
「ベス」
ベスが村へ病人の様子を見に行き、薬草を届け、必要な品と交換して帰ってくると、彼は彼女を軽く抱き、頬にキスするのが常だった。
そんなふうに彼が前向きになればなるほど、ベスは未来を恐れるようになった。
幸せを感じれば感じるほど、やがて、今の生活が仮初めのものであることを思い知らされるときがくるのが怖かった。
「おやすみなさい」
夕食のあと、縫い物をしていた手をとめて、椅子から立ち上がったベスは、ノーマンのほうを見ずに言った。
部屋の隅の寝台に横たわる彼から返事はなかった。
が、彼の視線を感じる。
「……」
何か胸騒ぎのようなものを覚え、ベスは努めて平静な歩調で彼の前を横切り、自分の寝室の扉まで歩いた。
彼の気配が彼女のすぐ後ろまで追いかけてくるのが解った。
「あんたに触れたい」
「……」
躊躇い、足をとめたベスを、ノーマンは背後から抱きすくめた。
「ベス」
「やめて」
抱きしめられた身体が震えた。
「あんたが好きだ」
「いいえ……いいえ。あなたは記憶を失って、そばに私しかいないから、そう錯覚しているだけだわ」
「違う」
ノーマンは抱きすくめたベスの身体を自分のほうへ向けて、初めて、彼女の唇に接吻した。
「好きだ。この気持ちが伝わるまで、何度でも言う」
掠れた声でささやき、再び唇が重ねられた。
その熱に、ベスは心を乱される。
むしろ足元をさらわれてしまいたかった。
そのほうがどんなに楽だろう。
「……好きよ」
惑乱の中、口づけの合い間に彼女はうわ言のように言った。
「でも、あなたに触れられたら、私はあなたから離れられなくなる」
「ベス」
「だから、これ以上、触れないで。あなたが記憶を取り戻して去ったあと、私は一人で生きられなくなるわ」
ベスの瞳は涙に濡れて、揺れていた。
ノーマンはそんな彼女の瞳をじっと見つめていたが、不意に固く、彼女の身体を抱きしめた。
「ずっと、ここであんたと暮らす」
彼の熱い吐息が彼女の耳にかかる。
「もし、記憶が戻っても、たとえこの地を離れることになったとしても、必ずあんたを連れて行く。決してあんたを一人にはしない」
「ノーマン──」
閉じた瞼の下から涙がこぼれた。
彼のその言葉だけで、ベスはこの激情に身を委ねてもいいと思った。
何もかも忘れて、ただ目の前にある愛を信じ、溺れたかった。
08:永久の記憶
二人が寝室を共にするようになって、何日かが過ぎた頃、ノーマンは結婚しようとベスに言った。
「でも……あなたは記憶が戻らないままなのに」
「記憶が戻るという保証もないんだ。このまま中途半端な生活を続けるつもりかい?」
ノーマンはベスの手を取って、彼女を椅子に座らせた。
「おれが人魚の魔力の影響から逃れたと村人たちが納得したら、村で結婚式をあげよう。村で受け入れられたら、おれも村で漁師になろうと思う」
「本気なの?」
ベスは不安げにノーマンを見つめる。
「本気で、私なんかと……」
「おれはベスがどれほど純真で、どれほど親切な、やさしい人間かを知っている。それだけじゃ、愛する理由にはならないか?」
「ノーマン」
彼を見上げたベスの顔に顔を近づけ、ノーマンは彼女にゆっくりと口づけた。
そして、テーブルの上に置かれた白いレースの肩掛けを手に取り、彼はそれを彼女の頭にベールのようにそっと載せた。
「花嫁のベールだ。神父はいないが」
「神父ということは、あなた、カトリックなのね。そうだわ、ちょっと待って」
彼女は寝室の棚の中から小さな宝石箱を取り出し、その中に収められた品を持ってきた。
「母の形見なの」
それはカメオのネックレスだった。
女性の横顔が浮き彫りにされ、周りをたくさんの小さな宝石が取り巻いている。
「私が家を出るとき、母が持たせてくれたものなの。ここに彫られている女性は若い頃の母よ」
カメオを渡されたノーマンは、描かれた女性の顔を見つめ、裏を向けた。
ネックレスの金の台座の裏には、文字が刻まれていた。
ヘレンへ
愛を込めて──
「ヘレン……?」
「私の母の名前よ」
刹那、記憶をたどるように、ノーマンは眉根を寄せた。
「母が父と婚約したとき、父が作らせて、母に贈ったものなの。母は、私が家を出てから一年ほどして亡くなったというから、これが形見になってしまったわ」
「……」
「ノーマン?」
「いや、何でもない。ベスのお母さんに神父役をしてもらうか」
「ええ」
カメオのネックレスを暖炉の上の棚に置き、その前で二人は、厳かに口づけを交わした。
「幸せにするよ、ベス」
「二人でいられたら、それだけで幸せだわ」
もう一度キスを交わし、二人は抱き合った。
けれど、ふっとよぎった不安はなんだったのだろう。
ノーマンには何かが引っかかり、言葉にできないもどかしさが、心の奥にわだかまった。
ヘレン。
その響きに、閉ざされた遠い過去を感じたのは気のせいなのか。
ヘレン?
その名前を聞くと、そこはかとなく不安定な、落ち着かない気持ちになるのはなぜだろう。
恐ろしい過ちを犯した予感がする。
出し抜けに激しい不安に駆られ、ノーマンはベスの身体を抱きしめ、ただそれだけがよすがのように、彼女の唇を激しく求めた。
自分の中に、自分の知らない過去がある。
表層には出てこなくとも、いつまでも変わらない確かな記憶がそこにある。それは誰の名前なのだろう?
09:夢でもあなたを想う
表面的には平和だった。
ベスは彼を愛し、ノーマンも彼女を愛した。
ただ、ひとつの言葉が彼を悩ませていた。
“ヘレン”
いったい誰の名前なのだろう?
母親? 妹? 姉? 友人? それとも──
(恋人……? まさか)
考えれば考えるほどに後ろめたい想いに苛まれ、ノーマンはベスを激しく愛する。
「ノーマン──」
ベスは彼の表情に翳りがあることに気づいていた。
けれど、何が彼をそうさせているのか、言葉にして問うてしまうと、破滅が訪れるような気もしていた。
何事もなく静かに暮らし、肌を重ねるときにだけ、互いの不安と愛情を赤裸々にぶつけ合う。
そんな夜には、彼女は幸せな未来の夢を見た。ノーマンと、平凡であたたかな家庭を築く夢。
目が覚めて、夢と判ると、無性に切なくなる。
幸せなのか不幸なのか、判らなくなる。
ある夜、ふと夜中に眼を覚ましたベスの隣で、眠っているノーマンがひどくうなされていた。
「ノーマン」
思わず肩に手を掛けて起こそうとすると、彼の唇からつぶやきが洩れた。
「ヘ、レン──」
はっとベスの手がとまる。
「ヘレン……ヘレン……!」
息をつめてうなされる彼の様子を見つめていると、ノーマンは苦しげに眉根を寄せ、絞り出すような声で叫び、突然、眼を開けた。
「ヘレン!」
自分の声に驚いたように眼を覚ましたノーマンは、混乱したように上体を起こす。
全身汗びっしょりだ。
「……ノーマン?」
薄闇の中、愕然とノーマンは大きく眼を見開き、そばにいるベスを見つめたが、不意に掌で額を押さえ、うずくまるように顔を両手の中にうずめた。
「どうしたの? 夢を見たの?」
不安げに彼を覗き込むように問うベスに、彼はくぐもった呻き声を上げた。
「ノーマン?」
小さく繰り返す呼吸が苦しげだ。
「思い出した……」
「え……?」
ノーマンは掠れた声でつぶやいた。
「おれは……小さな港町に住む船乗りで……」
ベスの手がそっと彼の肩に添えられた。
「航海の途中、嵐に遭い、船から海に投げ出されて……」
触れた肩から、彼の身体の震えが伝わってくる。
記憶が戻ったのなら、それは喜ぶべきことだ。
なのになぜ、彼はこんなにも慄いているのだろう。
「どうして、そんなに震えているの? ヘレンって誰? 私の母のことではないのでしょう?」
「ヘレンは──」
震える声でノーマンは言った。
「ヘレンは、おれの……妻だ」
うなだれるノーマンの言葉に、ベスは茫然と眼を見張る。
それがどういう意味なのか、考えることができなかった。
10:待っています
日ごとに輪郭がはっきりしてくる過去に、ノーマンは苦悩した。
ベスを苦しめるつもりなどなかった。
ただ、彼女を愛しただけだ。
「ベス」
何日も考え込んだあと、ノーマンは意を決したようにベスに言った。
「おれは一度、故郷へ戻ろうと思う。生きていることだけでも、家族に伝えたい」
「そして、もとの生活に戻るのね」
淡々とベスは答えた。
「ベス。あんたを独りにするつもりはない。一度家に帰って、再び、ここへ戻ってくる」
「でも、奥様がいるのでしょう?」
睫毛を震わせ、ベスは低い声を詰まらせた。
「カトリックですもの。離婚はできないわ」
「確かにヘレンを……妻を嫌いになったわけじゃない。でも、ベスを愛しているのも事実なんだ」
荒々しくベスを抱き寄せたノーマンは、彼女を抱く腕に力を込めた。
「ヘレンに全てを話す。話し合って、ベスのもとへ帰ってくる」
嘘。
とベスは心の中でつぶやいた。
愛する妻の姿を目の前にすれば、必ず心変わりするに決まっている。
(男は皆そうだわ)
それでも彼を愛している。
それなら、このまま彼の前から身を引くのが正しいことなのだろうか。
自分さえ身を引けば、彼には妻や仕事、故郷の港町でのもとの生活が待っている。
「……あなたは、まだ村の人たちに危険人物だと思われていたわね。陸路にしろ、海路にしろ、あの村を通って他の町へ行くことはできないわ」
「そうだったな」
ベスはそっと、己を抱きしめるノーマンの腕からすり抜けた。
目を上げると涙がこぼれそうな気がした。
「山を越えて街道へ出る道があるの。……地図を描くわ」
「ベス」
彼は再びベスの身体を引き寄せ、ゆるやかに名残を惜しむような口づけをした。
「ありがとう。必ずここへ戻るよ。待っていてくれるな?」
「ええ。……待っているわ」
嘘。
触れる唇が切なくて、涙が頬を伝った。
翌日の午後、ベスはぼんやりと窓辺に座っていた。
彼は行ってしまった。
彼女の描いた地図を持って。
(待っているわ)
ベスは窓の外へと視線を向ける。
(でも、きっと、あなたは戻っては来ない)
いつの間にか、小雨が降り出していた。
ノーマンは山越えの道を行った。
しかし、ベスが渡した地図の道は、山越えのルートではなかった。
(あの道を行けば、必ず道に迷う。上手くすればこの家へ戻ってこられるかもしれないけど、下手をすれば遭難するわ)
雨が降ればなお、山道は滑りやすくなる。
雨だれの音を聞いて、ベスはふっと微笑んだ。
愛した男が、美しいノーマンが、他の女のものになるのは嫌だった。
それなら、誰のものにもならなければいい。
「……あなたが悪いのよ。あなたが、私を捨てるから」
ふと脳裏に浮かんだ名前は、誰のものだったのか。
透明な声で、彼女は無意識に何かの歌を口ずさんでいた。遠い昔、母・ヘレンが彼女に歌ってくれた子守歌だ。
雨足は次第に強くなる。
窓ガラスを濡らす雨の様子は、まるで海の底にいるみたいだ。
「私……人魚ならよかったのに」
ぽつりとベスはつぶやいた。
「そうしたら、あなたの魂を虜にできたのに」
彼女は窓辺でずっと待つ。
決して帰らぬ人の帰還を。
やわらかに、空虚に微笑むベスの澄んだ瞳には、純粋な狂気の色が揺蕩っていた。
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2018.5.17.
01.紫陽花 02.菫 03.竜胆 04.スイートピー 05.布袋葵 06.蒲公英 07.鳳仙花 08.麦藁菊 09.鷺草 10.金瘡小草
お題は「恋したくなるお題(配布)」様からお借りしました。(閉鎖されたようです)
タイトルは、ホルストの「吹奏楽のための第二組曲」 から。