浮き島童子

 湯気が立ち込めている。
 ここは、蒸し風呂の中だ。
 湯帷子をまとった胡蝶は、汗をかいた身体にぬるま湯をかけ、洗い流した。
 胡蝶にとって、このような本格的な風呂殿を使うのは初めてである。
 山歩きで土埃をかぶっていた身体がすっきりと軽くなった気がした。
「終わったかい?」
 手拭いで身体を拭いていると、新しい肌小袖を手にした女が扉を開けて顔を出した。
「はい。ありがとうございます」
「これ、肌小袖。あっちに小袖を用意したよ。髪もちゃんとしなけりゃね」
 くっきりとした目鼻立ちの、あでやかな美女は卯木うつぎと名乗った。
 年は八尋と同じくらいだろうか。抜けるように色が白い。
 彼女は浮き島の里の女であった。
「さ、座って」
 風呂殿に隣接する小屋の中で、卯木は胡蝶の髪を整えた。
 前髪を眉の下で切りそろえ、左右の鬢の毛を肩の少し下辺りで切り削いだ。
 背に長く垂らした髪は、少しふくらみを持たせ、背中でひとつに結ぶ。
「鬢削ぎは八尋に頼むつもりだったんだけど、駿との話が長引いているようでね」
 駿というのが、里長の名だと聞いた。
「あたし、やっぱりこの里へ来てはいけなかったのかな」
「そんなことないよ。だって、八尋が連れてきたんだろう?」
 胡蝶の髪を整え終えた卯木は、たたんだ小袖を差し出した。
「はい、これがあんたの衣だよ。小袖は八尋が、褶はあたしが選んでみた」
「……きれい」
 真新しい桜色の小袖を手に取り、胡蝶は眼を見張る。
 小袖には絞り染めで蝶の模様が美しく描かれていた。
「あんたの名前が胡蝶だから、八尋はこれを選んだんだろうね」
 小袖にそでを通し、帯を締めると、卯木が彼女の腰に萌黄色の褶を巻いてくれた。
「丈もちょうどいいね。せっかくの裾模様が見えるように、褶は丈の短いものにしたよ。色は桜の葉って感じでさ」
「すみません。こんなによくしてもらって。でも、こんな綺麗な小袖、もらっていいんですか?」
 卯木は嫣然と笑った。
「この里は衣裳工房があるからね。衣も自給自足。好きなものを選べばいいよ。これも女たちの仕事のひとつさ」
「工房?」
「そう。外の世界の定期市に売りに行くこともあるんだよ」
 外の世界というのが、本来、胡蝶が生きていた通常の世界だった。
 そして、ここは浮き島と呼ばれる異空間の里である。
 浮き島に暮らすのは、童子と呼ばれる角のない鬼の一族であった。
「胡蝶」
 小屋の扉の外から声がかかった。
「支度、終わったか?」
「真尋の声だ」
 真尋は鬼ではない。
 歴とした人間で、胡蝶の幼馴染みだった少年だ。
 ただし、それは五年前までのことだった。
 五年前、崖から転落した彼は、浮き島の童子である八尋に生命を救われ、以来、童子たちと浮き島に暮らしている。
 そんな真尋と再会した胡蝶もまた、人間世界で住む場所をなくし、八尋に拾われ、この里に来た。
「話、ついたよ。胡蝶もこの里にいていいってさ」
「本当?」
 小屋の扉を開けた胡蝶は、そこに、真尋だけではなく、八尋も一緒にいることに気づいた。
「二人とも、ありがとう。あたしのために骨を折ってくれたんだ」
 髪を整え、衣も改めた胡蝶の姿を見て、真尋は無邪気に歓声を上げた。
「へえ、綺麗になったな。髪型も似合うよ。無造作に束ねているよりずっといい」
 そんな真尋の誉め言葉に嬉しくなって、胡蝶はちらりと八尋を見た。
 じっと彼女を見つめていた美貌の青年は、ふっとやわらかに微笑んだ。
「思った通り、蝶のように美しいな」
 胡蝶はくすぐったそうに口許を笑ませた。
「ありがと。お世辞でも嬉しい」
 胡蝶の後ろからひょいと顔を覗かせた卯木が、意味ありげに八尋を見遣る。
「本当に綺麗な娘だね。さすが八尋の選んだ娘だ」
「おれが選んだっていうより、もと真尋の許婚だそうだ。なあ、真尋?」
 卯木は面白そうに真尋に目を移した。
「おや。目が高いね、真尋」
「八尋も卯木姐さんもやめろよ。おれは覚えてねえし、胡蝶だって困るじゃねえか」
「あたしは別に困らないけど」
 真っ赤になる真尋に対し、胡蝶はすました顔でしれっと返す。
「色恋に関しちゃ、真尋は意外と純情なんだねえ」
 くすくす笑う卯木に見送られ、三人は外へ出た。

 里を取り囲む山々の緑が目に心地好い。
 蒼穹を見上げ、胡蝶はもといた世界のことを思った。
「……空は、繋がってるのかな」
「さあ、どうだろう」
 胡蝶のつぶやきに、真尋が応じる。
「洞穴の奥なのに、不思議」
「本当に洞穴の奥にこの里があるわけじゃねえよ」
「どういうこと?」
「あれは出入り口。今回はたまたまあの場所に繋がっただけだ」
 それでもよく理解できず、胡蝶は首を傾げた。
 八尋が言葉を引き取った。
「浮き島は閉じた異空間に漂う里だ。固定された位置にないので、浮き島と呼ばれる。すぐに解らなくても、追い追い知っていけばいいさ。胡蝶。おまえは真尋と一緒におれの家に住むことになった。女たち専用の家もあるが、今は無人だし、一人暮らしは大変だろうからな」
「うん。ありがとう」
「それに、駿にちょっかいかけられるのも癪だし」
「?」
 八尋は真尋を顧みた。
「真尋、あとは頼む。おれは仕事があるから」
「解った」
 胡蝶の頭に軽くぽんと触れて、手を振り、八尋は二人から離れて行ってしまった。
「忙しいんだね、八尋」
「まだ駿と打ち合わせがあるんだろう」
「あたしのことで?」
 まだ揉めているのかと胡蝶は慌てたが、
「いや。仕事のことだろ」
 あっさりと真尋は言った。


 胡蝶は、真尋が八尋と一緒に住んでいる家へ案内された。
 太い柱の、しっかりと建てられた民家だった。
 囲炉裏のある居間と土間になった台所の他には十畳ほどの部屋が二つと広い納戸。それと、渡り廊下でつながれた離れがあった。そこは八尋の書院らしい。
 真尋は胡蝶に室内と台所をひと通り説明すると、外へ出て、彼女を水汲み場や共同の洗濯場などへ連れていった。
 井戸ではなく、岩の間を湧き水が流れている。
 澄んだ透明の水がさらさらと流れ、陽の光を映していた。
「聞いたよね。浮き島の童子に女はいないって」
「でも卯木さんは? 人間なの?」
「女は皆、もと人間だよ。浮き島に女児は産まれないから、人間の女が童子の嫁になるんだ」
「ふうん」
 よく解らないながらも、胡蝶はうなずいた。
「卯木さんて、すごい美人だね」
「ああ、いい人だろ?」
「うん。親切にしてもらった」
 胡蝶は、卯木の紅を引いたように紅い唇や、玉結びにした艶やかな髪を憧れるように思い浮かべた。
「大人の女の人って感じだよね」
「姐さんは浮き島の女たちの束ねをしてるんだ。困ったことがあったら、頼ればいい」
 山に囲まれた里の北東から南西にかけて、ゆるやかに南へ蛇行して流れる大きな川があった。
 八尋の家はその川の東側にあり、川の向こう側、里の中央部には、豊かな田園風景が広がり、民家が点在していた。
 この川から田畑へと用水路を引いているのだと真尋は言った。
「美しい里だね」
 胡蝶は真尋と河原へ腰を下ろし、里の景色を眺めた。
「ねえ。あんたはさ、あたしのこと、どう思ってる?」
「なんだよ、まだ嫁にもらってほしいのか?」
「そうじゃないけど。厚かましく押しかけて、迷惑じゃなかったかなって」
「別に? 迷惑なわけねえよ。幼馴染みなんだろう?」
 真尋は胡蝶の眼を見てまっすぐに言った。
「でも、あんたにとっては知らない女だろう?」
「んー。姉ちゃんがいたら、こんな感じかなって思う」
「……姉ちゃん」
 胡蝶はがっくりと肩を落とした。
「あたしって、そんな印象なんだ。でも、せめて妹って言ってほしかったな」
「仕方ねえだろ? 浮き島は外の世界より時間の流れが緩やかだし、童子たちは人間より長寿で老いる速度がずっと遅い。この里のものを食べて、ここで暮らしてたら、おれも童子たちみたいに老いる速度が遅くなっちまったんだ。だから、もう人間の世界には戻れねえ」
「真尋は、年の取り方や寿命が、人間とは違ってしまったっていうの?」
「そうだ。八尋だって、初めて会ったときから──おまえの言う五年前から、全然変わってねえよ」
 考え込む胡蝶を見て、真尋はふと思い出したように付け加えた。
「おまえはおれのことどう思ってるんだよ」
「真尋って、十五にしては子供っぽかったんだーって」
「……おまえ、人が気にしていることを」
「だからさ、五年前のあんたにとっても、あたしは妹みたいな存在だったのかなって思うんだ」
「……」
「あたしが勝手にあんたに憧れていただけでさ」
 そんな淡々とした胡蝶の様子に、真尋は、自分の記憶がないことを少し申し訳なく思った。
 そして、何か言おうと彼女のほうへ顔を向けたとき、不意に二人の背後から声がかけられた。
「あんたが胡蝶?」
 振り向いた真尋は「あ」と口を開けた。
 そこには一人の青年が立っていた。
 この里にいるからには、彼も童子──角のない鬼なのだろう。
 だが、胡蝶が考える“鬼”とは似ても似つかず、一見したところでは普通の人間と何ら変わりはない。
 違うのは眼の色と髪の色くらいだ。
 肩くらいの長さの赤みを帯びた髪を首の後ろでひとつにくくった青年は、八尋と同様、秀麗な顔立ちだが、より精悍な印象だった。
「駿」
「えっ、里長様?」
 驚いた胡蝶が立ち上がろうとしたが、駿と呼ばれた青年は、気軽に彼女の隣に腰を下ろして言った。
「駿でいいよ。みんな、そう呼ぶから」
 胡蝶はかしこまって駿の前に両手をついた。
「この度はご迷惑をおかけしまして……その、でも、里に受け入れてもらえて、あたしはとてもありがたく思ってて」
「ずるいよなあ、八尋は」
「え」
 駿は、躍るような琥珀色の瞳で、桜色の小袖をまとった美しい娘をしげしげと眺める。
「嫁取りの時期でもないのに、自分だけこんな綺麗な娘を連れてきちゃってさ」
「あの、やっぱりあたし、この里にいては駄目なんじゃないんですか?」
「いいよ。八尋とはもう話がついたし、確かに例外ではあるけど、もっとひどい例外がそこにいるからさ」
「へ?」
 振り返ると、真尋が苦笑いをしている。
「基本的に、浮き島に人間を入れることは禁じられているんだよ、胡蝶。入れていいのは、嫁取りの時期、嫁候補の女たちだけ。つまり人間の男だったおれが浮き島に住むのは例外中の例外ってわけ」
「そうなんだ……」
 どう答えていいのか判らない胡蝶を尻目に、駿は悪戯っぽく真尋に目配せした。
「覚えてるか、真尋? おまえを里人にするために、八尋がどんな提案をしたか」
「覚えてるよ。人間の男が浮き島で生活した場合、どんなふうになるのか実験できる、こんな機会は滅多にないぞって言ってたよな」
「ええ?」
 胡蝶は驚き、真尋と駿は声を上げて笑った。
「ま、そんなだからあんたは気にしなくていいよ。どうあがいても八尋には言いくるめられてしまうからな」
「あの、あたしのことは八尋は何て……あたしも実験なんですか?」
「いや、あんたは──
 ひゅっとどこかから飛んできた石つぶてを、駿は身を低くして難なく避けた。
 ぱしゃんっ! と、石つぶてが川に落ちるのと同時に、意外なほど近くに八尋の姿があることに胡蝶は気づいた。
「八尋」
「ったく、油断も隙もないな」
 眉をひそめて軽く駿を睨む八尋に、当の駿はいささかも動じず、八尋を挑発するように胡蝶の肩に手を掛ける。
「妬くな妬くな。新しい里人を見に来ただけじゃないか。な、胡蝶」
「いきなり馴れ馴れしいんだよ、駿は」
 八尋は駿と胡蝶を引き離し、彼らの間に割り込んだ。
「胡蝶は例外だから、手は出さない約束だからな」
「解ってるよ。そんな向きになるなって」
 睨み合う二人の青年の様子に胡蝶は困惑するが、真尋は平然としたものだった。
「胡蝶、気にするな。この二人、仲はいいんだけど、いつも張り合っているんだよ」
「何を張り合う必要があるの?」
 小首を傾げる胡蝶を、八尋と駿は同時に振り返って言った。
「駿はおれより一つ年上なのに、背丈が一寸低いのが気に入らないんだよ」
「馬鹿言え。おまえこそ、ひとつ違いのおれが里長に抜擢されたのが今でも悔しいんだろ」
 呆気にとられる胡蝶の肘を後ろから真尋がつつく。
「さっき、おまえはおれのこと子供っぽいって言ったけど」
 と、真尋はこそっと胡蝶の耳にささやいた。
「卯木姐さんに言わせると、男はいくつになってもみんな子供、なんだってさ」
 思わず胡蝶は吹き出した。
 八尋と真尋のやり取りもそうだったが、確かに、八尋と駿のそれも、仔犬がじゃれ合っているようにしか見えなかった。
 胡蝶は立ち上がり、真尋を見遣る。
「ねえ。八尋と真尋は二人暮らしだったの?」
「そうだよ」
「じゃあ、今日の夕餉はあたしが作ってあげる。あんたの母さんに仕込まれたから、結構料理上手だよ?」
「へえ、おれの母親の味か。そりゃあ楽しみだ」
 真尋も一緒に立ち上がると、自然な動作で胡蝶の手を取った。まるで五年前のように。
 八尋と駿は、まだ何か言い合っている。
「帰ろう、胡蝶」
「うん。帰ろうか」
 帰る家がある。
 そして、自分に新たな故郷と新たな家族ができたことに、胡蝶は幸せを感じた。
 太陽が傾いている方角が西だろう。
 空は、いつの間にか茜色になっていた。

〔了〕

2018.6.1.