卯の花の咲く頃
浮き島の里を取り囲む山々の、その艮の山の麓に、鬼神を祀る社があった。
人間世界でこの方角に建てられる神社仏閣は鬼門封じのためであるが、角のない鬼たちの一族・浮き島童子の住むこの里にあっては、神聖な方角を護るための社となる。
事実、童子たちが地上におもむく際、その出入り口となる洞穴はこの社の奥に作られ、彼らは文字通り“鬼門”を通って異なる次元を行き来するのだ。
祀られている三柱の鬼神は浮き島童子の始祖と伝えられており、社殿そのものは人間世界のものと大差ない。
隣接する屋敷が、祭司・緋翔の住まいであった。
衣裳工房からの帰り道、胡蝶はその祭司の屋敷を訪ねた。
手に大事そうに風呂敷包みを抱えている。
屋敷に人の気配はなく、彼女は戸が開け放たれた広い玄関から大声で呼びかけた。
「すみませーん。胡蝶です。卯木さん、いますかー?」
祭司の屋敷は里長の屋敷の次に広い。
もう一度声を上げようと胡蝶が息を吸い込んだとき、家の中から返事が聞こえた。
「いま行くよー、ちょっと待って!」
卯木の声だ。
程なく、長い黒髪を玉結びにした、あでやかな若い女が玄関口に現れた。
女の名は卯木。祭司の妻である。
彼女はにっこりと胡蝶に笑みを向けた。
「胡蝶、今、仕事の帰りかい?」
「はい。社に納める神御衣を預かってきました」
胡蝶は手に持った風呂敷包みを差し出し、卯木に渡した。
「それはご苦労様。そうだ、せっかくだからクロに会っていきなよ」
「はい。クロ、元気にしていますか?」
神御衣を置き、卯木は胡蝶と外へ出た。
二人が社の奥の本殿のほうまで行くと、つむじ風のように駆けてきた小さな黒い仔犬が、胡蝶目掛けて飛びついた。
「クロ! いい子にしてた?」
激しく尻尾を振る仔犬を抱きとめ、その背中を胡蝶はやさしく撫でた。
クロが甘えるような声を出す。
「ここでの生活にも慣れたようだよ。真朱の鳥たちともすっかり友達になったようだ」
真朱の鳥は霊力・妖力の類を喰う妖鳥だ。龍神の血を引く黒い仔犬は、制御できない自らの霊力を真朱の鳥たちに喰われることによって、力の均衡を保っている。
典雅な本殿の横には真新しい小さな祠があった。
「もしかして、クロの家……?」
扉のない、入り口にしめ縄が張られたその祠を見て、胡蝶は瞳を瞬かせた。
数日前、里長の駿が龍神の裔である仔犬を祭司に託すため、ここを訪れたとき、八尋や真尋と一緒に彼女も同行したが、まさか、クロのために祠が作られるとまでは思っていなかった。
「真朱は何十羽もいるからね」
と、卯木が言った。
「力を喰われ過ぎたら、クロがまいっちまうだろう? この祠はクロのための神域だから、この中にいれば、鳥たちに霊力を喰われることはない。訪れる真朱たちが煩わしくなったら、クロはこの中で寝てるよ」
「そうなんですか。よくしてもらってるんだね、クロ」
クロに頬ずりをして、彼女は仔犬の躯を地面に下ろした。
「工房からの帰り道なんだし、クロの様子を見に、いつでもおいでよ」
「はい、そうします」
卯木を顧みた胡蝶は、彼女の後ろに現れた人物を見て、あ、と眼を見開いた。
「胡蝶ではないか」
胡蝶は慌ててぺこりと頭を下げる。
それは祭司の緋翔であった。
緋翔とはクロを送ってきた際に初めて顔を合わせ、挨拶を交わした程度である。
「胡蝶は神御衣を届けてくれたんだ」
卯木がやわらかな表情で夫に言った。
浮き島の童子たちは、通常、筒袖に括袴という出で立ちをしているが、緋翔だけは狩衣姿であった。
腰まである長い髪は赤みが強く、女のように背に垂らして丈長でひとつに結っており、それがよく似合っている。とはいえ端整な容貌はむしろ男性的で、背は六尺ほどもあり、大柄だが均整がとれている。
年は二十三、四といったところか。
気さくな里長の駿より、よほど威厳があった。
「胡蝶の話は卯木や駿からよく聞いている。一度、ゆっくり話してみたいと思っていた」
「あ、はい」
「ちょうどいい。茶でも点てよう。来なさい」
躊躇う胡蝶を卯木が促し、三人は祭司の屋敷に入った。
風雅な書院に通された胡蝶は、茶を振る舞われた。
そこには風炉や水指、棗など、胡蝶には馴染みのない茶道具が置かれていて、緋翔の手によって流れるように茶が点てられる。
茶は三服点てられ、茶菓子には干し柿が出された。
「作法など気にせず、気楽に飲んでよ」
緊張気味の胡蝶に卯木がさりげなく気を配ってくれた。
緋翔や卯木と一緒に、干し柿を食べ、茶をいただく。
胡蝶はほっと息をついた。
「美味しい。ほっとする味ですね」
「気に入ったのならよかった」
緋翔が微笑とともに言った。
中性的な美貌を持つ八尋とは違って、容姿は男性的だが、緋翔のまとう雰囲気は優雅であった。
「胡蝶は浮き島の生活はどうだね?」
「はい、楽しいです」
「卯木も駿も、ずいぶん胡蝶のことを気に入っているようだな。さっきのクロも」
思わず胡蝶は微笑んだ。
「クロは、あたしの血で鎮められたから、きっとそれを覚えてるんだと思います」
「童子たちは怖くはないか?」
「ええ。角のない鬼の一族だと聞いていますが、外見は人間と変わりはないし、里の人は皆、親切ですから」
緋翔は軽くうなずいた。
「いい機会だから、この浮き島のことを話そうか」
手にした茶碗を緋翔は優雅に膝の横に置いた。
彼の周りだけ、空気が静謐であった。
「浮き島童子が単性種族なのは知っているか?」
「はい。だから、この里の女の人は、みんな人間だったんですよね」
「そう。もともとは童子にも女はいた。けれど、この浮き島の里に移り住み、閉ざされた里で近親婚をくり返していては種族が滅ぶ。だから、浮き島童子の血を守るためなのだろう、いつしか浮き島では男児しか産まれなくなった」
「じゃあ、もとはこの里ではなく、地上に暮らしていたんですか?」
「大昔はね」
浮き島童子の祖先は神の子だったと言われている。
戯れに鬼面をかぶった神の子が、その面をぬぐことが叶わず、鬼と化したのがその始まりだという。
鬼神となった神の子は、人間の女と契り、女は男女の双子を産んだ。生まれた子供に角はなかったが、一人は赤い髪、一人は青い髪、双子は神でも人間でもなく、鬼神であった。
双子の鬼神は夫婦となり、角のない鬼の祖となった。
神の血が濃いこの頃は、近親婚はまだ禁忌ではない。
「地上の鬼には角があり、五行説に由来する赤、青、黄、緑、黒の鬼がいて、それぞれ肌の色をさす。一方、浮き島童子には角がなく、色は赤鬼と青鬼だけ。それも肌の色ではなく、髪の色だ」
赤鬼は赤い髪に琥珀色の瞳。青鬼は青い髪に青い瞳になる。
「外見は人間と同じに見えても、鬼には妖力があり、人間よりずっと長寿で強靭だ。そこに目をつけられ、私たちの先祖は、行者や陰陽師といった輩に使役されてきた歴史があるのだよ」
そんなふうに術で縛され、使役されることを嫌った童子たちの先祖は、少人数で行者たちのもとから逃れた。
そうして、妖力を駆使して、人間界とは異なる次元に里を作り、その閉ざされた里──浮き島に隠れ住むようになったのだ。
浮き島では田畑を耕し、穏やかな暮らしを守り続けている。
周囲を取り囲む山々には、獣たちだけの通り道があるらしく、地上の鹿や猪が自然に行き来している。それを狩る。
川には魚が棲んでいる。それを捕る。
農家に生まれた子供たちはたいてい親の跡を継ぐが、少年時代に様々な体験をして、それぞれの適性に合わせ、他の仕事を選ぶ者たちもいる。鍛冶屋や炭を焼く仕事、陶工、大工、地上での傭兵業などがそうだ。
祭司のもとにも、その仕事に興味のある者、学問を収めたい者たちが見習いとして通ってきている。
そして、十六、七歳以上の独り身の童子が一定数に達すると、里長の判断で、嫁取りが行われる。
里長と祭司、ときには該当する童子たち自身も地上におもむき、異次元の里へ嫁入りをしてもよいという身寄りのない娘を探すのだ。浮き島童子たちは、みな見目好い容姿をしているが、それも異種族である人間の女を惹きつけるためであろう。
「祭司様と卯木さんも、そうして出逢ったんですか?」
「え?」
話がいきなり自分たちのことになり、卯木は軽く眼を見張って胡蝶を見た。
「大恋愛って聞いてます」
「やだ、誰からそんなこと」
「工房でみんなが言ってました。お互いに一目惚れだったんですってね」
照れたように苦笑する卯木とは対照的に、緋翔は真面目な顔で淡々と答えた。
「そうだな。一目惚れだった」
「ちょっと、緋翔」
「初めて卯木を見たのは、卯の花が満開の美しい月夜だった。だが、卯木は花や月より美しい」
「緋翔、やめなよ」
胡蝶は興味津々で二人を見つめている。
卯木は困ったような笑みを浮かべた。
「あのさ、胡蝶。あたし、もとは遊女だったんだよ」
「えっ?」
初めて聞いた事実に、胡蝶は驚いて大きくまばたきをした。
「あんたにはあんまり言いたくなくてさ」
「どうしてですか?」
「だって、胡蝶って、純粋で世の中のけがれとか縁がないって雰囲気だろう? 軽蔑されるのが怖くって」
「どうして? 軽蔑なんかしません。そういう生業をしなければ生きていけない場合があるのは知ってますし、何より、卯木さんはあたしの憧れですもん」
まっすぐな胡蝶の視線をまぶしそうに受けて、卯木は仄かに頬を染めてうつむいた。
色の白い彼女はその名の通り、華やかに咲く卯の花のようだ。
「……あたしは遊女の子でさ、子供の頃から、遊里に育ったんだ。これでもあたしは遊里で一番人気でね。その世界しか知らなかった」
今、卯木は十九歳。
一年半ほど前のある夜、ふと郭の自分の部屋から外を見ると、郭の庭の白い花が満開に咲く空木の木にもたれて、男が一人、立っていたのだという。
筒袖と括袴というごく普通の格好だったが、月光を浴びる彼の髪は赤みを帯び、女のように長く背に垂らされていた。
男の妖しい美しさに魅せられた卯木は、男の気を引くため、そっと窓から笄を落とした。笄の落ちる微かな音に男が振り向いた刹那、彼女は素早く窓辺から身を引いた。
次の夜、果たして、彼はやってきた。
郭の客として。
次の夜も、その次の夜も彼は訪れて、卯木を抱いた。そして、その翌朝に、彼女を身請けした。
「それがうちの人」
と、卯木は恥ずかしそうに照れ笑いを浮かべた。
「笄を拾って逢いに来てくれただけで嬉しかったし、まさか、身請けしてもらえるなんて思わなかったけど」
「私も一目惚れだったからな。窓辺にいた卯木に一瞬で心を奪われた」
あくまでも穏やかに、微笑を浮かべて緋翔は言う。
胡蝶は頬を上気させ、両手を胸の前で合わせてため息をついた。
「いいなあ。運命の出逢いですね。いつか、あたしも誰か大切な人のこと、うちの人って呼びたいな」
そして、ふと首を傾げる。
「でも、卯木さんほど美人で人気の遊女を、そんな簡単に身請けできるものなんですか?」
無邪気な胡蝶の問いに対し、緋翔は含みのある艶やかな視線を彼女に向けた。
「胡蝶は天流川の上流で天流石と呼ばれる黒い石が採れるのを知っているか?」
「天流石……いいえ?」
「磨けば玉のように光り、乾かせばよい香りがする。その石を龍涎香と偽り、身請け料として卯木の身柄と交換したのだよ」
「龍涎香?」
「異国の高価な香の一種だ。本物を見た者など遊里にはいなかったので、その香りに、すっかり騙されてくれた」
「まあ……」
くすりと人の悪い笑みを浮かべる緋翔に、胡蝶は大きく眼を見張る。
「運命的な出逢いなら、胡蝶もしてるじゃないか。幼馴染みの真尋と、あの子が五年前に落ちた崖の上で再会したんだろう?」
「そうだけど……」
卯木が水を向けると、胡蝶は複雑な顔をした。
「真尋とじゃ、絶対、恋にはならないもの。真尋にとってあたしは姉ちゃんだし、そうしたら、あたしも弟にしか見えなくなるし。あたしのこと、色気がないってはっきり言うし」
「はははっ」
思わず緋翔が笑い出す。
「祭司様だって、あたしなんか色気がないって思ってるんでしょう? そりゃ、卯木さんと比べられたら敵わないです」
「駿や八尋が言っていた通り、本当に面白い娘だな、胡蝶は」
「やだ。八尋、あたしのこと、何か言ってたんですか?」
「なるほど。いや、胡蝶には胡蝶の魅力があるよ。素直で元気がいいのは悪いことではない」
「茶化さないでください」
「まあまあ」
ふくれる胡蝶を卯木がなだめた。
「胡蝶なら選び放題じゃないか。恋、しなよ」
「でも、あたしは例外で嫁候補じゃないって聞いてるし」
「ああ、そういうことじゃないんだよ」
卯木が確認するように緋翔を見遣ると、彼は軽く首肯した。
「次の嫁取りの時期まで、童子たちが胡蝶を口説くことが禁じられているんだ。胡蝶が恋するのは自由だよ。嫁取りの時期になれば、胡蝶も嫁候補の一人になるんだから」
「そうなの?」
卯木はうなずく。
「あたしに色気があるとしたら、それは遊里に育ったからだと思うよ。恋をしたら、胡蝶も自然と色気が出るよ」
「そういうもの?」
「そういうものさ」
やや嬉しげに、胡蝶はほんのり頬を染めたが、ふと、思い出したように言い出した。
「でも、祭司様はどうして郭の庭にいたんですか?」
「うん?」
「普通、そんなところで立っていたりしないでしょ?」
「ああ、あのとき、私は付き添いだったんだ」
「付き添い?」
「里では、十四、五歳になった少年たちに人間の世界をひと通り体験させる。町や村へ行ったり、定期市や戦の様子を見せたりな。その付き添いだ。郭もその一環だよ。遊女の寝物語は情報源にもなる」
「大人も行くの?」
「郭にか? 独り身の者は、時々な。あのときは嫁取りを兼ねていたから、駿たちもいたな」
「……」
胡蝶は言葉を失った。
「もしかして、八尋も?」
「ああ、八尋が郭へ出入りすることもあるね。そこらの女より綺麗な顔してても、そりゃ、男だからねえ」
眉の辺りが険しくなった胡蝶に気づかず、卯木は軽い口調で続けた。
「でも、駿に比べりゃ真面目だよ。駿なんか、遊女だけでなく、堅気の娘相手でも平気で行きずりの恋を楽しんでるからね」
「里長様はいいんです。行きずりでも恋は恋なんだから。八尋が郭なんて……信じられない」
おや、と気づいた緋翔と卯木が、顔を見合わせた。
胡蝶の表情がだいぶ険しい。
「あ、でも、最近の八尋はそうでもない……かな」
慌てて卯木が付け加えたが、胡蝶の耳には入っていないようだ。
「あのね、胡蝶」
「そろそろ失礼します。長居してすみません。お茶、ご馳走さまでした」
胡蝶は丁寧に頭を下げたが、その声音は硬いままで、彼女の潔癖さに、卯木は思わず苦笑いを洩らした。
緋翔は鷹揚に微笑んでいる。
「胡蝶、またおいで。次は茶の点て方を教えてあげよう」
「はい。ありがとうございます」
「あたし、そこまで送っていくよ」
胡蝶が立ち上がり、卯木も立ち上がった。
夕陽はもう、かなり傾き、残照が辺りに影を落とし始めていた。
遠くで鳥が鳴いている。
屋敷を出て、門のほうへと歩を進めながら、卯木が胡蝶にささやいた。
「ねえ。あんた、恋してる?」
「え、してませんよ? 真尋はもう本当の家族みたいになっちゃって……」
「真尋じゃなくてさ」
その先を言おうか言うまいか卯木が迷っていると、屋敷の門をくぐってきた長身の青年とばったり出くわした。
「あ、八尋」
足をとめた卯木が胡蝶の様子を窺うと、再び彼女の眉の辺りが険しくなっている。
「胡蝶、やっぱりここか。遅いから心配したよ」
「胡蝶を迎えに来たのかい?」
「そうだけど……何?」
二人の様子がいつもと違うことに気づいた八尋は怪訝な顔をしたが、いきなり胡蝶が彼を屹と睨み、
「不潔っ」
ひとこと怒鳴ると、さっさと一人で屋敷の門を出ていった。
そんな胡蝶を、呆気にとられて見送る八尋。
卯木は大きなため息をついた。
「……何かあったの?」
「あの子、駿のことは気にしなかったし、あたしが遊女だったって言っても、別に何とも思ってないようだったけどねえ」
「だから何?」
八尋は別なんだね、と彼女はつぶやいた。
そして、思わせぶりに青年の瑠璃色の瞳を見遣る。
「ま、応援するよ。頑張りな」
「は?」
片手をひらひらと振り、踵を返す卯木の姿を、八尋はきょとんと見送った。
卯の花が咲く季節は、まだ遠い。
〔了〕
2018.8.31.