山笑ふ頃

 運んでいた桶を重たげに地面に下ろし、佐保は気だるげに息をついた。
 たっぷりと桶に湛えられた水がわずかに揺れて、水滴が撥ねる。
 青空を仰ぎ、顧みると、里を囲む山が春の色にけぶって見えた。
(きれい──
 淡い彩りで、山桜が華やかに山々を飾る季節である。

 佐保は井戸から何度も水を運び、台所の甕を満たした。
「ふう」
「水汲みは終わったのかい、佐保? さっきからお嬢様がお呼びだよ」
 すれ違った年嵩の女中が棘のある声で言った。
「あ、はい」
 佐保は急いで、この屋敷の一人娘の部屋へ向かう。
 幼い頃に二親を亡くし、以来、佐保は村一番の物持ちのこの屋敷に世話になっていた。
 同い年の屋敷の娘の遊び相手兼小間使いとしてである。
 実際には下働きもさせられ、幼い少女にはつらい生活を何年も耐え、今年、十六になった。
「佐保、どこへ行っていたのよ」
 この屋敷の娘・葵は、佐保の姿を見つけると、顔をしかめた。
「宗助さんの帯を縫っておいてって言ったでしょう?」
 宗助というのは、名主の長男で、葵の許婚だ。
 葵が怖い佐保は小さな声で答える。
「縫いました」
「あの布地じゃないの。この間、贈った着物に合うよう、もう片方の布地を使いたかったのに」
 葵は縫い物が苦手で、着物や帯を佐保に縫わせ、手製の品として許婚に贈っている。縫い物だけではない。面倒なことは全て佐保にさせているのだ。
「もう、いいわ! 佐保は役立たずなんだから」
 声を荒げ、ふいっとそっぽを向くと、葵は苛々と部屋を出ていった。
 残された佐保は小さくため息を洩らす。
 このようなことはいつものことだ。
 お嬢様の言い付けには逆らえない。
 小さい頃から旦那様に世話になっている卑しい身の上だと、佐保は使用人たちからも虐げられていた。
「相変わらず、ひでえな。葵は」
 不意に若い男の声がした。
「……若旦那様」
 葵と入れ替わるように部屋に入ってきたのは、屋敷の長男の栄太郎だ。
 佐保は、何かと言い寄ってくるこの若者も苦手だった。
「葵の奴、嫁にいくとき、おまえも連れていく気だぞ? 一生、葵にこき使われてもいいのか、佐保?」
 栄太郎は思わせぶりに佐保に近づき、彼女の髪を指先で撫でた。
「おれに頼めよ。おまえがおれの言いなりになるんなら、葵が嫁にいくとき、おまえをこの家に引きとめてやってもいいぞ? 親父の次はおれがこの家の主人になるんだからな。おまえを悪いようにはしない」
「やめてください」
 一歩下がり、彼女は髪をなぶる栄太郎の手から逃れた。
 栄太郎にはすでに妻がいる。佐保には日陰の身になれといっているのだ。
「ま、考えておけ。一生、葵の奴隷になるか、おれといい思いをして楽に生きるか」
 嫌な笑みを残し、佐保の頭をぽんと叩いて、栄太郎は出ていった。
 佐保はうつむき、唇を噛む。

 それでも、春の山は美しかった。
 好きな山桜を遠くから眺めるだけでも心が洗われる。
 その夜、悲しさを紛らわせるため、朧な月明かりで浮かび上がる山の景色を見に行こうと、佐保はそっと屋敷を抜け出した。
 朧月夜に照らされる桜の山は仄白く幻想的で、美しいというより、妖しい。あたかも幽冥の世界に在るかのように密やかで幽かだ。夜の闇は深閑としている。
 できることなら泣きたかった。
 だが、涙さえ、もう涸れた気がする。
 朧月の下、村の外れまでとぼとぼと歩いてきた佐保は、そのまま夜道を山へ向かって歩みを進めようとした。
 せめて、桜に抱かれて眠りたい──
 月影が揺らめいた。
「……っ!」
 息を呑んで佐保が振り向くと、そこに人がいた。
──
 あまりの驚きに声が出ない。
 山賊だろうか。
 盗賊だろうか。
 たとえそうであっても、賊に攫われれば、今の生活から逃れられるのではないか。
「一人?」
 人影は穏やかな男の声で佐保に問うた。
「若い娘がたった一人でこんな夜道をどこへ行くの?」
「あ……あ、の……」
「それとも、行くところがないの?」
「……」
 その通りだと佐保は思った。
「じゃあ、別の里へ行く? あんたさえよければ、おれが連れていってあげるよ」
「別の……里……?」
「そう。童子の──鬼たちの里」
 雲が流れ、月明かりがその人物の顔を照らした。
 青みを帯びた髪。
 魅惑的な深い瞳。
 佐保は息を呑む。
 桜の山に鬼がいた。
 ──角のない、美しい鬼が。

* * *

 佐保が連れてこられたのは、緑が美しい里であった。
 浮き島という名の里だと、彼女をここへ連れてきた青年が言った。彼は八尋と名乗った。
「八尋さん、あの、あたし……」
「八尋でいいよ。外から来た娘はあんたの他にもいる。しばらくはその娘たちとの共同生活になる」
 何もかもを捨てて、知らない土地へ来てしまった。
 まるで狐狸に化かされたようだと佐保は思う。
 夜の山へ入ろうとした、あの時間までの生活が夢のようだ。
 それとも、今のこの状況が夢なのか。

 浮き島の里へ連れてこられた人間の娘は、佐保以外に四人いた。皆、佐保と同じ年頃で、話を聞けば身寄りもなく、不幸な境遇の娘たちばかりであった。
 彼女たちは童子と呼ばれる鬼の花嫁になるために連れてこられたのだと言われたが、不思議と怖いという感覚はなかった。彼らが人間と同じ姿をしているからであろう。
 里長の屋敷の隣に女たち専用の家がある。
 五人はそこで生活し、里人たちと交流し、いずれ伴侶となる童子を見つけてほしいと、里長から言い渡されていた。
「里長って若いのね。もっとお爺ちゃんかと思ってた」
「まだ里長になったばかりって聞いたわよ」
 娘たちはすぐに打ち解けた。
 毎日、娘たち五人で食事を作り、掃除をして、洗濯をする。
 その娘たちのもとに、伴侶を求める若者たちが暇を見つけては訪れた。
 一人、二人と、娘たちには決まった相手ができていった。
 気づけば、佐保だけが取り残されていた。
 この里の生活は自由だ。
 虐げられることのない生活に、はじめ、佐保は驚き、慣れないその自由に、少しばかりの居心地の悪さを感じた。何よりもここには佐保を邪険に扱う者はいない。
 だが、自分に自信が持てない佐保は、男性に対し、どこか臆病だった。

 その日も、他の娘たちがそれぞれの相手とともに過ごす間、佐保は一人だ。
 一人で里を散策し、木々を眺める。
 ふと、遠くの山に桜の彩りを見つけ、彼女は背伸びした。
 桜は同じ──この里でも、やはり美しい。
「何をしている?」
「きゃっ……!」
 不意に背後から声をかけられ、佐保は飛び上がった。
 背後にいたのは、一人の若い童子だ。
 濃紺の長い髪を後頭部に結い上げた青年が佐保を見ている。瞳も髪と同じ濃紺で、その涼やかな目許が印象的だ。
「えっ……その」
「一人ですか? 誰か連れは?」
 青年が辺りを見廻す。
「いっ、いえ、あたし一人です」
「こんな道の真ん中で、何をしていたんですか?」
「あ、あの……」
 着ているものは普通の村人のものなのに、丁寧な言葉遣いも相俟って、青年はどこかの若君のように佐保には思えた。
 彼女はどぎまぎと視線を泳がせる。
「さくら……」
「桜?」
「あの山の桜を見ていたの」
「桜が好きですか?」
 青年がふと微笑んだ。
 貴公子然とした青年は、彼女がもといた村の若者たちにはない雰囲気を漂わせている。
「おいで。河原のほうがよく見えるでしょう」
 彼が佐保を連れていったのは、天流川の河原だった。
「ほら、ここからならあちらの山が近い」
「ほんとだ」
 嬉しそうに桜に彩られた山を眺める娘を、気遣うように青年は顧みた。
「浮き島の生活には慣れませんか?」
「えっ?」
 問われ、佐保は彼が、娘たちが里長に紹介されたときにその場にいた、里長の補佐の一人だと気づいた。
「おれは伊吹。あなたの名は?」
「佐保……です」
「美しい名ですね。春の女神の名前だ」
 伊吹は山桜の霞む色を紺色の眼に映し、再び佐保を振り返った。
「女神の名前?」
「そう。佐保姫。春を司る女神です。もしかして、春生まれですか?」
 佐保は軽く眼を見張る。
「うん、そう。桜が満開の頃に生まれたって。でも、父ちゃんや母ちゃんがそんな女神さまを知ってたかどうか……」
「ご両親が知らずとも、神主や僧侶に相談して名付けたのかもしれませんよ?」
「だったら、嬉しいな」
 幼くして両親を喪った彼女には、その名前だけが、両親の形見のようなものだ。
 にっこりと笑む伊吹を見て、佐保ははにかんだように、やや困ったようにうつむいた。
「……あの、ここで伴侶を見つけられなければ、あたしはもといた村に帰されるの?」
「いいえ。浮き島の食べ物を口にした以上、あなたはただの人間には戻れません」
「で、でも、じゃあ、どうしたら──
「奥手でもいいじゃないですか。すぐに恋愛できなくても、もっと気楽に毎日を過ごしたらどうです?」
「でも、あたし、居場所がなくて……」
 伊吹は少し考えるふうに拳を顎にあてた。
「そうだな。では、先に衣裳工房の仕事を手伝ってみますか?」
「衣裳工房?」
「卯木という女性に会ったでしょう? 彼女がいろいろ教えてくれますよ」
 卯木は、この里に来た人間の娘たちの世話を何かと焼いてくれる、浮き島の女だ。
 この里の女たちの束ねをしているという。
 伊吹に衣裳工房を紹介された佐保は、卯木の指導のもと、染め物を一から学んだ。
 それは佐保の性分に合っていたらしく、もともと裁縫が得意だったこともあり、彼女は植物を使って生地をいろいろな色に染めていくことに興味深かった。

 ふた月ほどが経った。
 四人の娘たちは、皆、浮き島の童子に嫁いでいった。
 佐保だけが、変わらず女たちの家に一人で住み、毎日、衣裳工房へ通っている。
 ある晴れた日、工房へおもむく途中、彼女は彼女をここへ連れてきた童子と道端でばったり会った。
「やあ、佐保」
「こんにちは、八尋」
 両手にたくさんの花束を抱える佐保を見て、八尋は軽く眉を上げる。
「どうしたの? こんなにたくさんの花」
「染料として使えそうなものを、卯木に見てもらおうと思って」
「研究熱心だね。染色は楽しい?」
「ええ」
 佐保は生き生きと微笑んだ。
「八尋がこの里へ連れてきてくれたおかげ。他の子はみんな嫁いで、あたしだけ残っちゃったけど、毎日楽しい」
「それはよかった」
 八尋は深い瑠璃色の瞳で、佐保をじっと見た。
「笑えるようになったね」
「え?」
「最初の頃は、いつも硬い表情をしていた」
「それは──
 伊吹のおかげだと思った。
 彼に染色の仕事を勧められ、励ましてもらったおかげだ。その後も、伊吹はまめに佐保の様子を見に来てくれる。
「この里のみんなのおかげよ。あたしは一人住まいだからって、食事は駿のお屋敷で一緒にとったり、いろいろ気遣ってもらってるし」
 その里長の駿の屋敷に、伊吹も住んでいた。里長の補佐たちは、独り身が原則で、里長の屋敷で暮らしている。
 淡い想いを振り払うように、佐保は小さく頭を振った。
「……八尋は、身を固めないの?」
 ふと佐保が問うと、八尋は悪戯っぽく微笑んだ。
「おれはまだいいかな。うちには真尋がいるからね。あいつが家事一切をやってくれるし」
「八尋はお嫁さん要らないね」
「佐保は、伴侶が欲しい?」
「えっ……」
 浮かんだのは、涼やかな濃紺の瞳を持つ青年の面差しだ。
「なんなら、おれのもとに来る?」
 冗談めいた口調で言われ、佐保はくすくすと無邪気に笑った。
「この間、駿にも同じことを言われたよ。二人とも、そんな気ないくせに」
「それだけ笑えるなら安心だ」
 娘の頭に手を置いた八尋は、小さな子供にするように、その頭をくしゃりと撫でた。
「佐保の想い、きっと叶うよ」

 傾く陽がまぶしい。
 衣裳工房の裏庭で、佐保が卯木とともに洗った布地を干していると、そこに伊吹が顔を出した。
 彼に気づいた佐保の頬が微かに朱に染まる。
「精が出ますね」
「こんないい天気だもの。染め物は天気に左右されるからね」
 伊吹の言葉に答えた卯木が、訳知り顔に佐保を見て微笑んだ。
「佐保に話があります。卯木、佐保を借りていいですか?」
「ああ。ちょうどひと休みしようと思ってたところだよ。ね、佐保」
 卯木に軽く背を押され、はっとした佐保は慌てて卯木を振り向いたが、卯木はただにこにこしている。佐保は、うつむき加減に伊吹について行った。
 ──鼓動が速い。
 風が、前を歩く伊吹の高く結い上げた長い髪をそよがせ、そんな様を、憧れるように佐保は眺めた。
 天流川の河原に二人は足をとめた。
 遠くの山々を見つめ、思い出したように伊吹が言う。
「この場所で、一緒に桜を見ましたね」
「……ええ」
「あの頃よりずっといい顔になった」
 佐保を顧みて、やさしい声で言う伊吹の顔をまともに見られなくて、佐保はうつむいて小さくうなずいた。
「……伊吹のおかげよ」
「佐保」
「……」
「佐保、おれを見て」
 頬に熱さを覚えながら、隣に立つ伊吹を佐保が見上げると、伊吹は口許に微かな微笑を浮かべ、おもむろに言った。
「おれと、夫婦になってくれませんか?」
「えっ……」
 驚いた佐保は固まる。
「夫婦? って、えっ……?」
「おれのところへ嫁いできませんか、ってことです」
 伊吹は悪戯っぽく言葉を変えて言う。
 呆然としている娘は、言葉を失い、たちまち真っ赤になってしまった。
「あ……え……だって、伊吹は独り身でいなきゃ……」
「ええ。里長の補佐役は独り身が基本です。でも、別の仕事に就けば、おれだって妻を持てますよ?」
 佐保の狼狽ぶりを微笑ましげに眺め、伊吹は続けた。
「少し前から、駿や八尋たちと相談して、仕事を調整していたんです。無事、おれの後任も決まったので……」
「えっ? でも、待って? 伊吹はあたしのこと、好──
 耳まで真っ赤に染めた娘が慌てるその様は愛らしい。
 伊吹はくすくす笑い出した。
「好きですよ。桜を見たあの日から、迷い子のような顔をしたあなたが心配で、見ているうちに、本気で好きになったんです」
「……」
「佐保?」
 両手で口許を押さえる佐保の瞳から、ぽろぽろと涙があふれ出た。
 憧れていた人に振り向いてもらえた嬉しさが胸を満たす。
「伊吹が……好きだったの。でも、伊吹は伴侶を持たないんだと思ってて、それで──
 だから、初めての恋心は秘めていようと思っていた。
「伊吹はあたしの名前が春の女神さまと同じだって教えてくれて、とても親切にしてくれて、やさしくて、若君みたいで……」
「若君?」
「ううん。あたし、伊吹のお嫁さんになりたいです」
 佐保は一生懸命にあふれる涙を両手で拭った。
 伊吹はそっと手を伸ばし、壊れやすいものに触れるように、そんな娘の背にふわりと手を廻した。そして、細い身体を抱きしめる。
「佐保、愛している」
「伊吹……」
「いつも笑っていてください。おれはあなたの笑顔に惚れたんですから」
「うん──
 艶なる季節。
 里を取り巻く淡冶な山は、今、瑞々しい緑に覆われている。
 春霞をまとう女神に守られたこの季節、女神と同じ名を持つ娘は、異空間の里で、ようやく幸せを得た。
 今日からは一人ではない。
 愛しい人との生活が始まる。
 そして刻が巡り、また桜が咲き誇る季節がやってきたら、これからは二人で山桜を愛でよう──

〔了〕

2021.5.3.