宵行
「……できた」
書き上げた文字を眺め、胡蝶は大儀そうに息をつく。
傍らで書を読んでいた八尋が、手習いの稽古をしていた彼女の手許を覗き込み、労った。
「ずいぶん上達したね。漢字も少しずつ覚えていけば、いろんな書物が読めるようになるよ」
「師匠がいいから」
はにかみながら胡蝶は筆を置き、窺うように八尋の顔を見遣った。
「なに?」
「手習いを頑張ったご褒美、ねだってもいい?」
「なに、子供みたいに」
軽く眼を見張った八尋がくすりと笑うと、胡蝶はほんのり頬を赤らめた。
「蛍、一緒に見に行きたいんだ」
「蛍?」
「佐保が昨日、伊吹と一緒に見に行ったんだって。たくさん飛んでて、とても綺麗だったって教えてくれて」
「へえ、蛍か」
浮き島の里は最も接近している地上の影響を受ける。
里の川に蛍が出現しているのも、接近している土地に蛍がたくさん棲息しているからであろう。
「いいね。夕餉のあと、真尋も誘って三人で行こうか」
「うん」
胡蝶は嬉しそうにうなずく。
だが、話を聞いた真尋は、八尋と胡蝶を見比べて辞退した。
「二人で行っておいでよ。夕餉の後片付けはおれがやっとくから」
「でも……」
「いいって。でも、八尋、貸しひとつな?」
「?」
胡蝶は真尋の言葉にきょとんとしたが、八尋は苦笑しながら手を伸ばし、真尋の頭をくしゃくしゃと撫でた。
* * *
夜空を流れる雲の陰に、三日月が見え隠れしている。
夕餉のあと、二人で川の畔までやってきた八尋と胡蝶は、蛍火を探してぶらぶらと歩いた。
いつも散歩にくる河原から川上のほうへ向かって少し行くと、川の上を漂う小さな光がちらほらと見えてきた。
「いるよ、八尋」
「ああ」
川に近づこうとする胡蝶に、八尋は片手を差し出す。
「足許、危ないから」
「……ありがとう」
こうやって彼に手を取ってもらうことは初めてではないが、いつも、そのたびに胡蝶は小さな緊張を覚えた。仄かにくすぐったい。
「あっち、たくさん飛んでる」
川に沿って歩いていくと、次第に蛍の数は増していった。
川面に小さな星が集まったように、浮遊するその光の群れは瞬き、彷徨う。川の畔に足をとめた二人は、暗闇を漂う光の群れにしばらく見入った。
「綺麗だね」
「ああ。──綺麗だ」
八尋がやさしい眼差しで胡蝶を見遣る。
涼しい風が吹き抜けた。
二人はその場に並んで腰を下ろした。
夜の闇に浸された水辺を、乱舞する無数の小さな光。
幻想的な光景が二人きりの目の前に満ちる。
「蛍がなぜ光るのか、胡蝶は知ってる?」
「ううん」
「恋の相手を探してるんだよ」
「へえ」
胡蝶は頬に熱さを覚えたが、この暗さでは八尋に気づかれることはないだろう。
「素敵。だから、こんなに綺麗なんだね」
感嘆の吐息をつき、彼女は隣に座る青年を横目で見た。
「八尋は……」
「うん?」
「八尋は……どんな人が恋の相手なのかなって」
言ってから、胡蝶は彼の視線を避けるようにうつむいた。
彷徨う光が二人の姿に陰影を刻む。
「どんな女性が好みかってこと?」
「……うん、まあ」
「とりたてて言うほど好みはうるさくないけど、気立てのいい娘がいいよね」
「……ふうん」
うつむいたままの胡蝶を眺めていた八尋は、ふと、悪戯っぽく言った。
「胡蝶の好みの男を当ててみようか」
「えっ?」
思わず顔を上げた胡蝶が、焦ったように八尋を見る。
「頼れる兄貴みたいな男が好きだろう。違う?」
一瞬、胡蝶が声を失い、慌てて放った言葉と八尋の言葉がかぶさった。
「べっ、別に八尋を兄貴だとは思ってないし」
「真尋への初恋もたぶんそんな感じだろう?」
二人は互いの発した言葉に気づき、刹那、蛍明に照らされた薄闇の中で顔を見合わせると、八尋は可笑しそうに笑い、胡蝶は真っ赤になった。
くすくす笑う八尋の様子にいたたまれなくて、胡蝶は憮然と光の乱舞に視線を戻し、必死に取り繕う言葉を探した。
「だって、八尋は兄貴って感じじゃないもの。兄ちゃんっぽいのはどちらかというと里長様だし」
「駿?」
「そうだよ。里長様が好みってことじゃないよ? どっちかって言うと兄ちゃんっぽいってだけで」
夜空を雲が流れていく。
三日月が現れ、胡蝶がちらりと隣の青年を窺うと、彼は面白そうに彼女の顔を見つめていた。
その深い瑠璃色の瞳が美しくて、胡蝶の胸がとくんと鳴る。
「こ、好みだって、特にないし」
「……そうなんだ」
微笑し、八尋が蛍の群れに視線を移したので、胡蝶もそちらへ目を向ける。
ああやって光を放ち、たくさんの光の中から、恋うる相手を探すのだろうか。そうしたら、たった一人の相手を見つけることができるのだろうか。
「あ、あの……やひ──」
おずおずと、胡蝶が何かを言おうとしたとき、
「あーっ、やっぱりいた」
よく知る明るい声が響いて、その場の雰囲気が一気に変わった。
「里長様」
「……」
驚いた胡蝶が眼を見張り、八尋は脱力したように肩を落とす。
「来たか」
「来て悪いか」
闇の向こうから現れた駿は、当然のように胡蝶の隣に腰を下ろした。
「いい夜だね」
「里長様も蛍狩りですか?」
赤い髪の青年に、胡蝶は無邪気に問いかけた。
「里の見廻りのついでだよ。昨夜、伊吹が佐保と蛍を見に行ったって聞いたから、もしかしたら、胡蝶も来てるかなって」
胡蝶の向こうに座る八尋が身を乗り出し、呆れたように駿を眺めた。
「何の見廻りだよ。おまえは里の妖気を感じ取れるはずだし、異変を感じたとしても、真朱を飛ばせばすむじゃないか」
「混ぜっ返すなよ、八尋。真朱を飛ばして終わりじゃ、蛍は見られないだろ。な、胡蝶」
「綺麗ですよね、蛍」
「ああ。胡蝶と見られて嬉しいよ」
小さく笑った胡蝶が、八尋に目配せした。
「……なるほど。心配性の兄貴って感じかな」
「なに、兄貴って?」
「里長様って兄ちゃんみたいって、八尋と話してたんですよ」
「兄ちゃん?」
可憐に微笑む胡蝶から、駿が八尋に視線を移すと、さらりと八尋が言った。
「つまり、恋愛対象外だ」
「は?」
駿は呆気にとられたように眼を見張った。
お気の毒さま、と、胡蝶に聞こえないよう、八尋がつぶやく。
「なんだよ、兄ちゃんって。兄ちゃんは八尋だろ?」
「八尋は……八尋だもの」
うつむいた胡蝶が小さな声で言ったが、駿は釈然とせず食い下がる。
「ほら、あれだ。胡蝶はおれのこと、里長様って呼んでるだろ? それがいけないんじゃないか?」
「ええ?」
胡蝶はちょっと眉をひそめた。
「里長様と祭司様は特別な立場っていうか。尊敬の意味を込めてるんだけど……駄目ですか?」
「緋翔はいいよ。あいつは“祭司様”って貫禄だから。でも、おれは胡蝶に駿って呼んでもらいたいな」
「……」
いまひとつ胡蝶は解っていないようだったが、駿は畳みかけるように言葉を続けた。
「特別な立場でいるより、胡蝶と対等でいたいんだよ。ほら、駿って言ってみな?」
駿の勢いにおされるように胡蝶はつぶやく。
「しゅ……駿」
「もう一度」
「駿」
「よし。これからは“駿”だからな」
「う、うん」
戸惑いつつ、あやふやにうなずく胡蝶に対し、駿の口調が大真面目なので、聞いていた八尋は思わず吹き出した。
「やっぱり兄貴みたいだな、おまえ」
「うるさいぞ、八尋」
娘が手を伸ばして、左右に座る青年たちの腕をそれぞれ押さえた。
「うるさいのは二人ともだよ。静かに蛍見ようよ」
照れ隠しか、素なのか、なだめるように言って、川の上の蛍たちへと意識を戻す。
「ああ、悪い」
「ごめんごめん」
静かに闇を舞う無数の光をうっとり眺める胡蝶の頭上で、八尋と駿は視線を交わし、その視線をゆっくりと宵を行く蛍の群れへと向けた。
青年二人は休戦協定を結んだようだ。
「ほんと、綺麗」
美しい光景に夢見るように、可憐な娘は独り言のように言葉を紡ぐ。
「佐保みたいにさ、来年はあたしも旦那様と二人で蛍、見に来れたらいいな」
再度、二人の青年は胡蝶の頭越しに思わせぶりな視線を投げ合った。
「今はまあ、おれたちで我慢しとけ」
「三人ってのが変則的だけどな」
「ふふ、考えてみたら今のあたし、贅沢だね。こんないい男二人に挟まれて」
胡蝶は無邪気なものだった。
川の風が心地好い。
静寂がわだかまる闇に、光の群れは幽玄に漂い、さらさらと流れる川面が仄かな明かりに照らされる。
それは小さな宇宙。
彷徨う光の群れが乱舞する光と闇の世界。
数多の淡い光が、川の畔に座る三人の姿を影絵のように幻想的に浮かび上がらせていた。
ただ、ふらふらと彷徨う恋のゆく末のみは、──闇。
〔了〕
2021.6.20.