憧憬

「甲斐!」
 浮き島の里の畦道を足早に歩いていく少年に、同じ年頃の少年が声をかけた。二人とも青みを帯びた髪に青い瞳を持っており、顔立ちにはまだあどけなさが残る。
「どこ行くの?」
 甲斐と呼ばれた少年は大根の束を抱えていた。
「胡蝶んとこ。これ、届けてやろうと思ってさ」
「わざわざ? 胡蝶んとこにだって大根くらいあるだろう」
「いいだろ、別に」
 そのまま、二人は何となく連れ立って歩いた。
 秋の空は高く、静かに雲が流れている。
 遠くで鳥が啼いていた。
 里では、傭兵志望の子供たちの指導を伊吹が受け持っている。
 行うのは主に武術の訓練で、八尋に体術や棒手裏剣、苦無の扱い方などを習う胡蝶も、たまに彼らに練習相手になってもらっていた。
 この二人の少年は、五人いる子供たちの中で最年長の十四歳だ。
 彼らは天流川の橋を渡り、里の東の端のほうまでやってきた。
 すると、一軒の民家の庭先で若い娘が洗濯物を干しているのが見えた。
「あ、甲斐! 碓氷!」
 二人の少年に気づいた胡蝶が顔を上げ、大きく手を振った。
 ここが八尋の家だ。
 胡蝶はにっこりと二人に笑顔を向ける。
「どうしたの、何か用?」
「いや、用っていうか……最近、胡蝶が訓練に来ねえから、どうしてんのかなって思って」
 胡蝶から眼を逸らして言う甲斐の様子を、碓氷がにやにやしながら眺めている。二人とも身長は優に胡蝶を超えていた。
「これ、よかったら」
 ぶっきらぼうに突き出された大根の束を、胡蝶は嬉しそうに受け取った。
「ありがとう。なんか、悪いね。折角だから上がってよ」
 洗濯物を手早く干し終えて、胡蝶は二人の少年を家に上げた。
 そして、少年たちを居間に座らせると、湯を沸かし、茶道具を並べ、勿体ぶった様子で茶を点て始めた。
「……何やってんの、胡蝶?」
「え、美味しいんだよ。祭司様に習ったの。今、練習中なんだ」
 そう言って、二人に茹で栗を盛った鉢を差し出す。
「これ、食べてね」
「なあ、胡蝶」
「ちょっと黙ってて」
 胡蝶は大真面目な形相でゆっくりと茶を二服点てると、おもむろに茶碗をひとつずつ、二人の少年の前に置いた。
「どうぞ」
「……いただきます」
 少年たちは仕方なく茶をすすり、ちょっと顔をしかめた。
「薄くね?」
「えっ、不味かった? じゃあ、栗食べて、栗」
「てか、おれたち、茶とかあんまり興味ねえんだけど」
 それでも一応茶碗の中身を飲み干して、甲斐が言った。
「胡蝶さ、なんで最近、訓練来ねえの?」
「え、だって、護身術もひと通り覚えたし、棒手裏剣だって、動いている的にも当てられるようになったんだよ?」
 茹で栗に手を伸ばした碓氷が言葉を引き取った。
「訓練は継続しなけりゃ意味がねえって。それに、胡蝶が来なきゃつまんねえもん。な、甲斐?」
 むすっとした顔で甲斐がうなずく。
「訓練、してないわけじゃないよ? たまに八尋に見てもらってる」
「これだもんなあ!」
 甲斐と碓氷は声を合わせて吐き出すように言った。
「胡蝶は八尋さんに依存しすぎ」
「そんなことじゃ、八尋さんから独り立ちできねえぞ?」
 胡蝶は眼をぱちくりさせた。
「え、だって……」
「まあいいよ。ところでさ、おれたち、近々外界に行くんだけど、胡蝶も来ねえ?」
「市とか一緒に廻ろうよ」
 時空を漂う浮き島に住む少年たちは十四、五歳で外界──つまり人間の世界を経験しに行く。大人になるための通過儀礼のようなものだ。
「あたしは一緒に行けないよ。邪魔になる。それに、あたしは八尋の仕事について何度も外界へ行っているから」
「ちぇっ、つまんねえ」
「一緒に行ったら絶対楽しいのに」
 茹で栗を食べる二人を微笑んで眺めていた胡蝶は、ふと気づく。
「ねえ。それ、八尋もあんたたちの付き添いで行くの?」
「ん? ああ、たぶん」
「……」
 胡蝶は物思わしげに眉をひそめ、声をひそめた。
「く……く、郭とかも……その、行くんだよね?」
「は?」
 およそ胡蝶とは似つかわしくない単語が飛び出したことに甲斐も碓氷も驚いたようだ。
「祭司様が言ってた。その……そういうとこ、行くって。そしたらさ」
 さらに声をひそめて、彼女は二人にささやいた。
「あんたたち、八尋が外界でそういうとこに出入りしないよう、見張っててくれない?」
「……」
 はああ……と、甲斐が大きなため息をついた。
「胡蝶のそういうところだよ、苛々するの!」
 甲斐の隣で碓氷は苦笑いを浮かべている。
 何故、苛々? と胡蝶は首を傾けた。
「おい、甲斐……」
「あのさ、だから胡蝶は──!」
「あ、おまえら、来てたのか」
 勢い込んで甲斐が何かを言いかけたとき、そこに第三者の声が響いた。
 ほかならぬ八尋だ。
 いつもと変わらぬ清げな彼の美貌と躍るような瑠璃色の瞳を見て、甲斐の表情がむすっとなる。
「おかえり、八尋」
 胡蝶に軽くうなずいて、八尋は面白そうに少年たちと彼らの前に並べられた茶碗を見て微笑んだ。見る者を虜にさせるような微笑みだ。
「おまえらも捉まったのか。今、胡蝶は茶に凝っててね。うちに来た人を片っ端から捉まえて茶を点てるんだ。駿とか、佐保とかさ」
「お邪魔してます」
 少年たちは軽く八尋に会釈する。
「八尋も飲む? すぐ点てるよ」
「いや、あとでいい。甲斐と碓氷は胡蝶に会いに来たんだろう? ゆっくり話していればいい」
 八尋はそのまま書院のほうへ向かおうとしたが、そんな彼の背中を甲斐の声が呼び止めた。
「八尋さん」
「なに?」
 振り返った八尋が軽く眉を上げる。そんな仕草も様になる。
「前々から思ってたけど、不公平だと思う」
「何が」
「っていうか、ずるい」
 拗ねた子供のような表情で美貌の青年を睨む甲斐を見て、八尋が微かに苦笑を浮かべる。甲斐の言いたいことが伝わったようだ。
「今はまだ、ごめんとしか言えないかな」
 鷹揚な八尋の受け答えに大人の余裕を感じ、甲斐はますます口を尖らせた。
「胡蝶!」
「は、はい。……何?」
「おれ、早く一人前になるから!」
 そう言って、甲斐は勢いよく立ち上がった。
「え、うん……?」
 胡蝶は困惑している。
「お茶、ご馳走様! じゃ、また!」
 ぺこりと頭を下げて、さっさと玄関へ向かう甲斐のあとを、苦笑する碓氷が追った。
「またな、胡蝶」
「うん、さよなら」
 手を振る碓氷に、訳が解らずとも、一応、胡蝶も手を振り返すのだった。

 天流川の橋を渡り、少年たちはずんずん歩く。
 晴れた美しい空も景色も目に入らないようだ。
「落ち着けって、甲斐。胡蝶を口説くことはまだ禁じられてるんだから、これから機会はあるって」
 甲斐の歩みがぴたりと止まった。
「八尋さんだぞ? わざわざ口説かなくても一緒に暮らしてりゃ魅了されるだろ、惚れるだろ、絶対!」
「……否定はしねえ」
「はああ……」
 甲斐は大きなため息を吐き出した。
「結局、早く大人になるしかねえな」
「そうだよ。八尋さんから奪ってみせろ。おれはおまえの味方だぜ? 甲斐」
 甲斐と碓氷は大きく右手を上げ、パシッ!と互いの掌を打ち付けた。
「早く一人前になろうぜ」
「おう!」
 蒼穹に雲が流れている。
 その空を、真朱の鳥が二羽、悠然と飛んでいくのが見えた。

〔了〕

2023.12.19.