黒曜公
3.
「いや、ユリウスではない。彼のはずがない。しかし──似ている。一見したときに受ける印象はもとより、その儚げな雰囲気が。よく見ると顔立ちそのものはそっくりというわけではないが」
誰と比べているのだろう?
リリアは改めて、その人物に挨拶の言葉を述べた。
「お召しにより参上しました。リリアと申す酒場の卑しい踊り子で……」
「ああ、いい。おまえを呼んだのは私だ。おまえの素性など、どうでもよいのだ」
豪華な部屋であった。
調度品には凝った細工が施されてあり、大きな卓子と椅子は黒大理石だ。その卓子の上に、一人分の、これも豪華な食事が並べられていた。
そして、黒曜公その人は──?
素早く室内を見渡したリリアが目の前の人物に視線を戻すと、その人は、リリアににっこりと微笑みかけた。
内心、リリアは驚いていた。
卑しい場末の酒場の踊り子に過ぎない自分のような者に、一国の君主である公が、こんなにも親しげな笑みを向けようとは。
「あ……あの、あたしのような者が、なぜ、お城に……」
思いがけないやさしい微笑みに、リリアはすっかり動転していたが、黒曜公はそんなリリアの様子を無礼と咎めることもしなかった。
「それにしてもよく似ている。その髪の色合いも……眼の色も……これほど奴の面影を映した者は初めてだ」
黒曜公は懐かしげな、それでいて物悲しげな眼をして、リリアを見つめた。
すっきりと涼しげな顔立ちの、二十歳を少し過ぎたくらいに見える貴公子だった。
少し癖のある黒い髪。
リリアを見つめる瞳は奇麗な菫色だった。
リリアの手を取り、部屋の中へ招き入れ、椅子を引いて彼女を座らせた。まるで姫君をエスコートするかのようなその仕草に、リリアは戸惑いを隠せない。
「あの……黒曜公……?」
「食事中なので、失礼するよ。ワインはどうだ?」
美しい陶器のゴブレットにワインを注ぎ、それを黒曜公はリリアの前に置いた。そして自分の席に戻り、金の匙を手に取った。
「明日から、おまえは小姓として私に仕えてくれ」
「お小姓に? あの……でも、あたしは女ですのよ?」
「そう、おまえは女だったな。それでも構わぬ。私に仕えることが──嫌でなければ」
言っている内容は、冬将軍のときと同じだった。
自分に仕えよ。嫌なら、去れ。
しかし、なぜ、こうも受ける印象が違うのだろう。
リリアは、素直な気持ちを自然と言葉にすることができた。
「嫌だなんて……公の身の回りのお世話をさせていただけるなら、光栄です」
黒曜公はちょっと微笑んだ。
「そうか。それはよかった。ただし、ひとつ、頼みがある」
「頼み?」
「髪を切り、男装をしてもらいたい」
「……」
リリアには黒曜公の意図するところが解らなかった。それに、長い美しい金髪は彼女の自慢でもあったのだ。
でも──髪はまた伸びる。
この仕事が終われば、自由を得られる。
「承知いたしました。髪は切ります」
黒曜公はうなずいた。
「ユリアという名を与えよう。──そう、今日からおまえはユリアだ」
「ユリア……?」
「私の名はセラフィムという。おまえには本当の名で呼んでほしい」
「セラフィム──さま」
「そうだ、ユリア。今日からこの黒耀城が、おまえの住まいだ」
手にしたワインのゴブレットを高く掲げ、黒曜公セラフィムは、思わせぶりに口許をゆがめて笑った。
その菫色の瞳の中を漂う狂気の翳に、リリアは全く気づかなかった。
黒耀城での生活は、リリア──ユリアにとって、まさに別世界であった。
自慢の金髪は首の後ろでぷっつりと切られてしまったが、男装をした姿もやはり清らかで美しく、それは彼女にとって新鮮な装いであったため、やがて慣れると、彼女は自分の生活を楽しむようになった。
奴隷の子として生まれ、幼い頃から妓館に育った彼女には、黒曜公の小姓という仕事が楽しくさえあった。
妓女見習い時代に先輩の妓女たちの身の回りの世話をさせられていたので、他人の世話をすることは慣れていた。ことに、黒曜公には五人もの小姓がついていたので、彼女一人分の仕事など知れていた。
小姓はいずれも十四歳くらいの少年であったが、一人だけ、ユリアと同じ年代の少年がいた。
年の頃、十七、八──
漆黒の真っ直ぐな髪を顎の辺りの長さに、前髪は眉の下で切りそろえ、少女のような白い肌に人形のような整った顔立ちをしていた。
瞳も漆黒。
彼は、とても異国的な風貌をしていた。
射るようなその眼差しが印象的だった。
彼の夜のような色の髪は、光の加減で深緑色に見える。
緑髪というのはこんな髪のことをいうのだろうか。ユリアは憧れるような眼差しで、彼の髪を眺めた。
「あの方の名は──?」
と、一度セラフィムに尋ねたことがある。
「ああ、あれは小姓頭だ。私が最も信頼する者。──だが、名はない」
「名が、ない?」
「かの者の名など、知らぬほうがよい。……そうだな、クロロスとでも呼んでおけ」
クロロス──それは西方の言葉で、“緑”もしくは“緑の”という意味だ。
緑の……者?
彼の、あの美事な緑髪に由来する呼び名なのだろうか。
そのとき、ふと、セラフィムの指で光を撥ねたものに、その指にある美しい指輪に、ユリアは目をとめた。
「なんて美しい、古風な指輪」
セラフィムは無造作に視線を右手の中指に落とした。
「ああ、これか」
刹那、ほんの一瞬だけ、セラフィムの表情がわずかに不機嫌さを帯びたことに、ユリアは気づかない。
「翡翠……ですか?」
「これは我が血筋に代々伝わる家宝だ」
愛おしむような視線を指輪に向け、セラフィムは軽く指輪に唇を落とした。美しい女を愛でるようなその表情を、ユリアは天使のようだと思った。
指輪は、翡翠色の大振りの石を古めかしい凝ったデザインの金の台に嵌めたもので、かなり高価なものだろうということは素人目にも判る。
「生命よりも大切なものゆえ、これに触れることは誰にも許していない」
「たとえば──クロロス様でも?」
ふっとセラフィムの表情がゆるんだ。
「あれは特別だ。あれは私自身も同然だからな」
何気ないふうにユリアの顔をちらと見遣り、セラフィムはさりげなく話題を転じた。
「ユリア。仕事はきつくないか?」
「いいえ、楽しゅうございます」
実際、ユリアの仕事といえば、朝、セラフィムを起こし、彼の着替えを手伝い、彼の食事の相手を務めることくらいで、あとはほぼ自由を許されていた。
その他にはセラフィムの声がかかったときに舞を舞ったり竪琴を奏でながら歌ったりする程度──妓館にいた頃に比べればなんでもない。
これほど楽な仕事でいいのかと申し訳なく思うほどだった。
城内で使われている者たちは、兵士を除くと、なぜか、金髪の若い娘ばかりが目立ったが、それはそれほどユリアの注意を引かなかった。
城の中が静かすぎることも、気にならなかった。
娘たちにほとんど喜怒哀楽がないことも──
金髪の美女たちにかしずかれている若き君主。
翡翠の指輪を大切にはめている風雅な貴公子。
ユリアにとって、彼は主人として申し分ない存在だった。
たとえ、ガデライーデに命じられたものが見つからずとも、このまま、この生活が約束されるなら、彼女には何の不満もなかった。
お気に入りの小姓の名が“緑”──?
それにあの綺麗な指輪。
黒曜公は緑色がお好きなのかしら、とユリアは無邪気に考えた。
2005.2.14.