隠れ里 [前編]
洞穴の奥深くに、その里はあった。──
山へ行く道を、少年と少女が歩いていた。
二人は山の麓の村の子供だ。
室町時代後期。
戦乱の世といわれる時代だが、都から遠く、戦場になったことのない二人の村は平和だった。
少年の名は伊助。十五歳。
そして、少女はアサ。十一歳だ。
「ねえ、伊助ー」
やや疲れた声でアサが言った。
先を行く伊助は振り向かずに声だけで答えた。
「何だー?」
「疲れちゃった。ちょっと休もう?」
「なんだよ、アサが見たいって言ったんじゃねえか」
「そうだけどさ」
足をとめ、アサを振り返った伊助が手を差し出した。
「もう、すぐそこだよ。そこの崖から見える」
差し出された手を、やや恥ずかしそうにアサは取った。
「おまえ、おれの嫁になりたいんだろ? このくらいでへたばんなよ」
「嫁はこんな山登りはしないもん」
「山菜採りくらいはしろよ」
「伊助の足が速いんだよ」
ふうふう言って、崖の上まで来たアサは、伊助の指差す方向へ視線を向けた。
崖の向こう側に洞穴がぽっかりと口を開けていた。
「あそこ?」
「ああ」
「あんな足場の悪いところ、ほんとに入ったの?」
「そうだよ。以前にここまで来たときには、あんな洞穴なかったんだ。おかしいと思うだろ?」
熱心に洞穴を見つめる伊助の横顔を、アサはしげしげと眺めた。
「洞穴の中に里があったって、本当?」
「おれが嘘を言ってると思うのか?」
「……思わないけど」
「本当に見たんだってば。おれたちの村より大きな、緑の豊かな里だった」
暗い洞穴の奥。
アサは神秘的な光景を思い描いた。
「アサにも見せてやりたいって思ったけど、あの洞穴の入り口まで行くのは、やっぱり危ないよな」
「普通の洞穴に見えるよ。あの中に里があるなんて、信じられない」
「だよな。おれ、もう一度、確かめてくる。アサは無理すんな。ここで待ってろ」
「伊助!」
アサはとめたが、伊助は、慣れた動作で崖を下りようとした。──が。
ざざっ──!
「伊助ーっ!」
アサの絶叫がこだました。
刹那、足を滑らせた伊助は、崖の下へと真っ逆様に落ちていった。
崖の下には渓流が流れている。
呆然となったアサが、立ち上がり、村の大人たちを呼びに行くまでが、一瞬にも永遠にも思える時間の長さだった。
* * *
山の中の崖の上から、かつて洞穴の存在を見た場所を、アサはじっと見つめていた。
あのとき、村の大人たちが何日も総出で捜しても、崖から落ちた伊助はとうとう見つからなかった。
その遺体すら──
伊助が行方知れずになったことが諦められず、アサは、その後も何度も何度も、その崖の上を訪れた。
そして、いつの間にか、確かにあったはずの洞穴が消えていることに気づいた。
伊助とともに、洞穴は消えた。
あれから五年。
十六になったアサは、笠をかぶった旅装束に身を固め、伊助に最後の別れを告げるつもりで、この場所を訪れていた。
五年前、洞穴があった場所をじっと見つめる。
そして、諦めたように彼女は踵を返そうとした。
と、近くでがさりと茂みの動く音がした。
「……っ!」
背後の山の木立ちの中に人の気配を感じ、思わずアサは声を上げた。
「誰? 誰かいるの?」
「悪い、驚かせた。怪しいもんじゃねえよ」
すぐに少年の声が答えた。
けれど、木の影から姿を現した人物を見て、アサは息が止まりそうになった。
(伊助──?)
それは伊助に違いなかった。
否、伊助そのものだ。
黒目がちの眼。端整な顔立ち。背格好。
村の幼友達で、アサがお嫁さんになりたいほど憧れた、十五にしては少しやんちゃで、やさしかったあの伊助に間違いない。
だが、同時にそれが伊助であるはずがなかった。
「伊助……? 伊助でしょ? 生きてたんだ。でも、あんた……」
アサの目の前にいるのは、五年前と何ひとつ変わらぬ伊助であったのだ。
「どうして、年を取っていないの……?」
愕然とするアサを、伊助の姿をした少年は、ただ驚いたように見つめていた。
「真尋ー!」
第三者の声が聞こえた。
アサははっと、少年の奥の木立ちを見遣る。
「こんなところにいたのか、真尋。この辺りに薬草はないぞ」
木立ちから出てきたのは背の高い青年であった。
立ちつくすアサの姿に気づき、眉をひそめる。
「麓の村の娘か? それとも、旅の娘か?」
異質な雰囲気を持った青年だった。
小袖に括袴という普通の格好だったが、場違いなほど美しい。
結髪はしていない。額や首筋にかかる髪は、結う必要のない長さだった。
「えっ……と、あたしは麓の村の者で、これから旅に出るつもりで……」
素直に応じかけて、アサははっとなった。
「そんなことより、この人、あんたの連れ? 何者? 伊助じゃないの?」
「伊助?」
青年は伊助にそっくりの少年を見遣り、
「そういえば、おれはこいつの元の名を知らないんだな」
と、つぶやいた。
「やっぱり伊助なの?」
勢い込んでアサは言ったが、当の少年は困惑した表情のままだ。
「おれの名は真尋だ。伊助なんて知らねえ。だいたい、おまえ、誰だよ?」
大好きだった伊助の声でそんな言葉を放つ少年に、アサは、戸惑いや悲しみの前に怒りを覚えた。五年前は伊助の胸くらいの身長だったのに、今は少し目線を上げるだけで目が合う。
そんな彼の腕をぐいと掴み、背伸びをして、アサは少年の右耳の後ろを確認した。
「伊助と同じところにほくろがある!」
彼女は青年に、真尋と名乗る少年の耳の後ろのほくろを示した。
「やっぱり伊助だろう? 生きているなら、なんで村へ戻ってこないのさ! あんたが嫁にもらってくれなかったから、あたしは村から逃げなくちゃならなくなったんだよっ」
「そう言われても」
眼の奥が熱くなり、アサはきゅっと唇を噛んだ。
そんな、今にも真尋に掴みかからんばかりの勢いの娘の肩に、断髪の美貌の青年が手を置いた。
「真尋の話も聞いてやれ。こいつ、昔の記憶がないんだ」
「記憶がない?」
「そう。何年か前、この崖の下の渓流に流されて、倒れていたところをおれが助けたんだよ」
「……」
絶句するアサだったが、それならやはり、目の前の少年は伊助本人の可能性がある。何があったのか知りたかった。
「でも、五年間も、どこにいたの? 伊助は、なんで年を取ってないの?」
「あー、仕方ないな」
青年は無造作に髪をかきあげた。すると、陽光を浴びたその髪が青い色に見え、アサは眼を見張る。
「とりあえず山を下りよう。説明してやるから」
どこか遠くで甲高い鳥の啼く声が聞こえた。
青年は八尋と名乗った。
五年前、渓流に流され、大怪我をしていた少年を見つけ、介抱したが、少年が自分の名を覚えていなかったので、自身の名前の一字を取って、真尋と名付けたのだという。
「ただ、“あさ”と、意識が戻るまで、そううわ言を言っていたな」
「それ、あたしの名前。アサ」
晴れた空はどこまでも青い。
三人は山を下り、川のほとりで足を休めた。
河原の適当な岩の上に、各々が腰を下ろす。
笠をとったアサはじっと目の前の伊助──真尋を見つめ、なおも問うた。
「伊助は、本当に何も覚えてないの?」
「おまえ、おれの友達だったんだな。心配させていたのなら謝るよ。ごめん」
「うん……生きていてよかった。伊助が崖から落ちたとき、あたしも一緒にいたんだ」
アサはうつむいた。
「アサって言ったよな。いくつだ?」
「十六。……って、そうだ。伊助はなんで十五の姿のままなの? あたしのほうが年上になっちゃってるじゃないか。こんなの詐欺だ」
彼は困ったように八尋の顔を見た。
八尋は肩をすくめて苦笑する。
「まあ、それなりに事情があって……」
「こっちにだって事情はあるんだよ」
「そういえば、アサちゃんは旅に出るところだったんだよね。どこへ行くの?」
ふと、八尋が尋ねると、アサはふいっと顔を背け、投げやりにつぶやいた。
「どこだっていいよ」
「アサちゃん?」
「もう、どうでもいい。村から逃げたかっただけ。婚礼を迫られたから」
「婚礼?」
「そう」
アサはうなずき、疲れたように吐息を洩らした。
「なんか、御館様に気に入られちゃって」
記憶を失っているとはいえ、幼馴染みの伊助だけならともかく、何故、初対面の八尋にまで、こんな事情を話す気になったのか、それはアサにも解らない。
この八尋という青年には、どこか人を逸らさぬ、聞き上手なところがあった。
「あんたたち、この辺の村のこと、詳しい?」
「いや、そんなには」
何でも、彼女は去年、少し離れた土地に屋敷を構えるこの辺りの領主に見初められたのだという。
彼女は捨て子で、育ててくれた老夫婦はすでに亡く、一人息子を失った伊助の母に引き取られていた。その養母も半年ほど前に流行り病で亡くなり、一人になった。
それまで、伊助の母が結婚を嫌がるアサをかばってくれていたが、保護者を失った彼女一人では、この縁談を断り切れなくなってしまった。
女一人で生活するには限界があるし、領主が所望している娘をわざわざ嫁に欲しいという者はいない。
「おれの母親、亡くなってるのか……父親とか他の家族は?」
「伊助の父さんは、もっと前に戦に行って、戦死した。あんたは一人っ子。だから、あんたの母さんがあんたの代わりにあたしを引き取ってくれたんだ」
「そうか」
「うん──」
なんとなくしんみりした真尋とアサだが、ふと気づくと、いつの間にかアサの前に膝をついていた八尋が手を伸ばし、彼女の目許に影を落としている前髪を払って、彼女の顔を覗き込んだ。
八尋の瞳は宝石のような深い瑠璃色だった。
「御館様に見初められて、か。ふうん、なるほど。綺麗だな」
「からかわないでよ」
思わず魅入られたようになり、微かに頬を染めたアサが八尋の手を払いのける。
「この辺りも野盗に狙われることが多くなってね。あたしが嫁に行く代わりに、御館様が村を守ってくれるっていうし、村としては願ってもない話なんだよ」
だから、彼女は捨て子の自分を育ててくれた村の人たちへの恩返しに、領主に嫁ぐべきだと一度は決心した。
「でもね」
そこで彼女は思いきり眉をひそめ、握りしめた自分の両手を屹と睨み、怒ったように一気に言った。
「御館様はあたしの親以上の年齢で、あたしよりずっと年上の息子だっているんだよ? どうせなら、息子の誰かに見初められたほうが、まだ諦めがついたのに!」
「……」
「……まあ、確かに」
八尋がぽつりと言った。
「真尋。おまえ、アサちゃん、もらってやれよ」
立ち上がった八尋がからかうように真尋を見遣ると、真尋は真っ赤になって狼狽えた。
「か、簡単に言うなよ。おれ、まだ半人前だし、この子のことだって、今日初めて出会ったみたいなもんなんだぞ?」
「いいじゃないか。この子、面白いし、可愛いし」
「そんなに言うなら、八尋がもらってやれよ」
「じゃあ、そうするか、アサちゃん。おれなら、十九ってところだし、年も合うだろう?」
晴れた空を一羽の鳥が悠然と旋回している。
仔犬がじゃれ合っているような二人のやり取りを、岩の上に腰掛け、膝に肘をついて頬杖をついて眺めていたアサは、ほうっとため息をついた。
「……なんか、気が抜けた」
「でも、どうするんだよ、アサ。嫁に行くの、嫌なんだろう?」
「だから、こっそり村を出て逃げ出そうとしていたんじゃないか。五年前の予定では、あたしは十五になったら伊助の嫁になってるはずだったのに」
アサはちらりと横目で真尋を睨んだ。
「やっと見つかった伊助は十五のままだしさ」
「アサちゃんはどうしたいの? 今も逃げたいの?」
「できればね。でも、冷静になれば、やっぱり村の人たちを裏切れないとも思うし」
そのとき、八尋がさっと背後を振り向いた。
「どうしたんだ?」
真尋が問う。
「まだ遠いが、足音だ。大勢の人間。アサちゃんがいないことに気づかれたんじゃないか?」
「あたしを捜してるんだ!」
蒼白になってアサは立ち上がった。
2018.5.18.