隠れ里 [後編]
八尋と真尋とアサ、三人は探るように顔を見合わせた。
「どうしよう。婚礼は明後日だから」
「落ち着け、アサ」
不安げなアサを真尋が励まそうとする。
そんな二人を、八尋はしばらく考えるような眼をして見ていたが、
「要は、アサちゃんがいなくなればいいわけだ」
と、独り言のようにぽつりと言った。
「アサちゃん、小袖、脱いで」
「は?」
アサは思いきり胡散臭そうな目付きで八尋を見遣る。
「衣を交換するんだよ。おれが囮になる。真尋がそうだったように、アサちゃんも行方知れずになって、御館様や村人たちに死んだと思わせればいいんだよ」
「そんなにうまくいく?」
アサは疑わしげだったが、真尋は面白そうに手を打った。
「それ、いいんじゃねえ? そうなればアサは嫁にいかずにすむ」
「何人かの足音が山を登ってくる。急いで、アサちゃん」
そう言うと、八尋はするりと小袖を脱ぎ、肌小袖と括袴だけの姿になった。
慌てて背を向けるアサの足許にその小袖が投げられる。
「おれたちは後ろを向いているから、おれの小袖に早く着替えて」
考える暇もなく、アサは自分も小袖を脱いで、八尋の小袖を手に通す。男の衣をまとうことにどぎまぎしつつ、手早く帯を締めた。
「着たよ」
「よし」
八尋はアサの小袖を受け取って、袴の上から女のようにまとうと、彼女の笠をかぶり、顔を隠した。
笠の下から覗く八尋の眼が妙に艶っぽくて、アサはどきりとする。
「女に見えるか?」
「見える見える」
可笑しそうに笑う真尋は無邪気なものだ。
「蘇芳!」
八尋が空へ向かって呼びかけると、上空を旋回していた鳥がふわりと舞い降りてきて、伸ばされた彼の腕に止まった。
七寸ほどの大きさの、鮮やかな真朱色の鳥だった。
そのススキの穂を束ねたような、体と同じ長さほどもある尾の飾り羽を一枚引き抜き、八尋は真尋に手渡した。
鳥は再び空へと舞い上がる。
「じゃあ、行ってくる。真尋はアサちゃんと洞穴の入り口で待っていて」
「解った」
「あ、ちょっと──」
軽い調子でやり取りする二人の様子に現実味が感じられず、アサは身を翻す八尋を呼びとめようとしたが、彼は常人とは思えない身のこなしで、軽やかに山へと駆けていった。
「あんたたち、どうする気なの? あの八尋って人、いったい……」
「八尋に任せておけば大丈夫だよ。ああ見えて、切れ者だから。おれたちはこっち」
アサの手を掴み、真尋は川下のほうへと歩き出した。
山を登ってくる者たちは、やはりアサを捜していた。
「おおい、いたか?」
「いや、いねえ。だが、最近、草をかき分けた跡がある」
数人の村人と、領主の使いの地侍が一人。
婚礼の準備のためにアサを迎えに来たが、家がもぬけの殻なので、あちこちを捜しているのだ。
「なあ。やはりアサはこの婚礼が嫌だったんじゃねえか?」
「相手が御館様では、断ることもできねえしな」
村人同士、ひそひそとささやきを交わす。
「いたぞ!」
木々の合間を縫って先頭を歩いていた者が叫んだ。
その者が指差す先には、笠をかぶった、アサらしき後ろ姿が小さく見えた。
アサ──彼女の小袖をまとった八尋は、顔を隠しつつ、背後の追っ手に気づいたふりをして、足を速めて木立ちの奥へと進む。
「アサ!」
「アサ、早まるな! そっちは崖だ!」
五年前、十五歳の伊助が誤って転落した崖。
村の者が総出で捜索したが、少年はとうとう見つからなかった。
そして、村人たちはその伊助とアサが仲が良かったことを知っている。
「アサ!」
木立ちを抜けた先の崖の上に、アサは崖下を覗き込むようにして立っていた。
鳥の鳴く声が聞こえる。
空中に舞う朱い鳥に誘われるように、アサは何の躊躇いもなく、崖の上から身を投げた。
「アサーッ!」
「なんてことだ」
村人たちは蒼ざめ、アサを追って崖の下を覗き込んだが、もう何も見えなかった。
「ええい、捜せ!」
領主の配下の地侍が喚いた。
「アサと申す娘、見失ってはならん! まだ間に合うかもしれぬ。皆で崖の下を捜すのだ!」
けれど村人たちは、この崖から落ちた人間が助からないであろうことを、皆、知っていた。
真尋とアサは川下の広い河原にいた。
岩ばかりが目立った先程の場所に比べて、この辺りは砂利が目立つ。
その川面に、アサは信じられないものを見た。
八尋から受け取った朱い鳥の羽根を、真尋が輪にして川面に浮かべると、輪になった鳥の羽根の内側が水鏡と化したのだ。
水鏡にはある映像が映った。
空中からの視点で、アサの小袖をまとった八尋が、崖の上に追いつめられ、そこから身を投げる光景。そして、慌てて崖の上までやってきた四人の村人たちが、恐る恐る崖下を覗き込む姿。
「さっきの鳥は“真朱の鳥”という妖で、名を蘇芳という」
と、真尋は説明した。
「この水鏡に映っているのは、蘇芳の視界だ」
「妖って……あの人も、もしかして妖なの?」
「妖の部類に入るのかな。おれも……もう、人間とはいえねえけど」
アサは呆気にとられて真尋を見た。
甲高い鳥の啼き声がした。
「あ、戻ってきた」
風に乗って飛んできたすんなりとした真朱の鳥が、立ち上がった真尋の肩に止まる。
その鮮やかな色と、ススキの穂のような長い尾羽が印象的だ。
ふと見遣ると、川上のほうから、アサの小袖をまとった八尋が河原をこちらへ歩いてくる。
「八尋!」
思わず叫び、アサは八尋に駆け寄った。
「崖から落ちるところを水鏡で見た。怪我は? 歩けるの?」
心配そうにアサは八尋の顔を見上げたが、笠をとった彼は屈託なく笑顔を見せた。
渓流に落ちたらしく、びしょ濡れではあるが、驚いたことに、彼はかすり傷ひとつ負っていなかった。
「平気だよ。もう察しがついているだろうけど、おれは人間ではないからね」
「……」
アサは言葉が出てこない。
この世に妖怪変化の存在することは知ってはいるが、我が目にそれを確かめたのは初めてであった。
真朱の鳥を肩に乗せた真尋が二人に近寄った。
「アサ。おまえはこれからどうする?」
「あ……」
「当てがあるなら、送ってくけど」
真尋と八尋を見比べるアサは、心細げに口を開いた。
「……伊助と、一緒にいては駄目?」
「おれはもう、人間だった頃の記憶がない。おれは伊助じゃなくて、真尋なんだ。おまえには悪いと思うけど、人間には戻れねえ」
「……」
アサはうつむいた。
そんな彼女をじっと見守っていた八尋が言った。
「アサちゃん、おれたちの里に来る?」
「八尋!」
真尋が咎めるような声を出した。
「ただし、人間でなくなるけど」
「八尋、アサはまだ、人間として幸せになれる可能性がある」
「でも、アサちゃんは行く当てもなく、独りぼっちなんだろう?」
八尋は諭すように真尋の顔を見た。
「戦乱の世、それにこの器量だ。うまくいい人たちに巡り会えばいいけど、野盗に襲われたり、郭に売られたりするかもしれない。幼馴染みのおまえと同じ里に暮らすほうが安心じゃないか?」
「それは……そうかもしれねえけど」
思い切って、アサは二人のやり取りの中に入った。
「伊助……ううん、真尋か。真尋ももう人間じゃないんだよね。今、あんたは幸せ?」
「ああ。八尋に生命を救ってもらって、里の人たちにもよくしてもらってる」
「八尋は何者?」
瑠璃色の瞳でアサを見つめ、八尋は答える。
「童子だ。平たく言えば、鬼だよ」
濡れた八尋の髪は、より青みを帯びて見えた。
「鬼? だって、角──」
「おれたちは、浮き島という名の隠れ里に住む、角のない鬼の末裔だ」
「角のない、鬼?」
姿は人間と変わりはない。
ただ、青みを帯びた髪と青い瞳、断髪であることが、八尋に異質な雰囲気をもたらしている。
それとも異質だと感じるのは、彼が鬼であるからなのか。
「一度浮き島の住人になると、二度と普通の人間に戻ることはできない。嫁ぐとしたら、相手は鬼だ。それでもいいか?」
アサは息を呑んだ。
「じゃあ、真尋も鬼になったの?」
「いや。真尋は厳密には鬼ではない。もう、人間でもないが」
「あたしもそうなる……?」
「そうだね。浮き島の童子に女はいない。童子でも人間でもなく、浮き島の住人になる。ただ、鬼に嫁ぎ、子を産めば、子は鬼だ」
思いもしなかった世界の存在に、その話の内容に混乱する。
しかし、彼女に帰る場所はもうなかった。
「どうする? 人間としての人生を捨てて、浮き島の女になるか?」
魅せられたように、アサは八尋の深い瑠璃色の瞳を見つめた。
この不思議な人物は、人間ではない。
だが、悪い人では決してない。
「いいのか、八尋。人間を里に招き入れるのは掟に反する。今は嫁取りの時期じゃねえってのに」
「大丈夫だよ。駿はおれに甘いから。おまえを拾ったときも、結局は許してもらえただろう?」
八尋はアサに視線を戻した。
「おれたちとともに来るか?」
そして、片手を差し出す。
その手を見て、考えるよりも先に、アサは自らも手を伸ばしていた。
「……うん」
「人間でなくなっても?」
「真尋が幸せなら、あたしもきっと後悔しない。里人が八尋みたいな人たちなら、その里にあたしも置いてほしい」
八尋はアサの手を取り、微笑んだ。
「では、名を与えよう」
「名?」
八尋はうなずく。
「真尋のように、人間から浮き島の住人に生まれ変わるために」
空を仰ぎ、少し考え、
「──胡蝶」
と、彼はつぶやいた。
「“胡蝶の夢”から取った。これからは蝶のように自由に生きろ」
「胡蝶の夢?」
「属する世界が異なっても、自分らしく生きればいいってことだ」
その言葉を噛みしめるようにアサが八尋を見つめていると、出し抜けに彼はくしゃみをした。
真尋がくすりと笑う。
「そろそろ帰ろうよ。濡れたままじゃ、八尋が風邪ひいちまう」
真朱の鳥の蘇芳が、真尋の肩から空へと舞い上がった。
「こっちだ、胡蝶」
真尋は、アサ──胡蝶と名を変えた彼女の手を取り、蘇芳のあとへ続いた。
その後ろを八尋も歩いていく。
茂みの奥、胡蝶が連れてこられた場所には、洞穴があった。
「ここ……」
過去に──五年前に、彼女はその洞穴を見たことがあるような気がした。
伊助が落ちた、あの崖の向こうに。
「ここが浮き島の入り口だ。いつもこの場所にあるわけじゃねえけど」
蘇芳が滑るように洞穴の中へ入り、胡蝶の手を引いた真尋、八尋もそれに続いた。
洞穴の中は真っ暗だった。
でも、しっかりと繋がれた真尋の手に、胡蝶は不安を感じなかった。
ただ、不思議な感じがする。
不意に、光の中へ出た。
「胡蝶。ここが、おれたちの里、浮き島だよ」
息を吸い、胡蝶は大きく眼を見張る。
仙境へ出たような心地がした。
そこには、なだらかな山に囲まれた、描かれたように美しい里の光景が広がっていた。
どこまでも青い空と深い山の緑、吹き渡るそよ風。
胡蝶は悟った。
五年前、伊助が洞穴の奥深くに見つけた里は、ここなのだと。
* * *
崖から足を滑らせた少年は、意識が薄れるのと同時に、激しい痛みを全身に感じた。
「ア……アサ……」
薄れゆく意識の中で、心配しているであろう少女のことを想う。
冷たい水の流れに投げ出され、閉じた瞼の裏が、どんどん暗くなっていく。
流される四肢は重く、自分の身体ではないみたいだ。
川下で手を洗っていた青年が、岩場に引っかかって倒れている少年の姿に気づいた。
珍しい断髪の青年の瞳は瑠璃色だ。そして、その髪は少し青みがかっていた。
「人間……? ひどい怪我だ」
少年のそばに近寄った彼は、意識のない少年の身体を抱き起こし、怪我の状態を調べた。
「まだ死んでいない。だが、放っておけば、死んでしまうな」
つぶやいた青年は、少年の身体を軽々と両手に抱き上げた。
「……アサ……」
「なんだ、気がついたか?」
「アサ……ア、サ……」
青年は少し待ったが、少年に意識が戻る気配はない。
普通の手当てでは助からないだろうと判断した彼は、少年を両腕に抱いたまま、軽やかな身のこなしで、山の中の渓流を岩を伝ってさかのぼり、崖の下の洞穴の前まで駆けていった。
到底、人間の動きとは思えない身軽さだ。
「待っていろ、すぐ手当てしてやるから」
そう励ますようにぐったりと眼を閉じた少年に声をかけ、洞穴の中へ入ろうとした青年は、ふと背後を振り返り、空へ向かって呼びかけた。
「蘇芳! 里へ戻るぞ」
空から舞い降りてきた尾の長い朱い鳥が、少年を抱えて青年が入っていった洞穴の中へ、彼を追うようにして滑り込む。
山は静かだった。
静かすぎる山にとけ込むように、やがて、洞穴はその存在自体を消滅させた。
≪ 前編 〔了〕
2018.5.18.