龍神の末裔 [壱]
浮き島は長雨に閉ざされていた。
五月雨の時季でもないというのに、異常なほどの雨であった。
真尋と胡蝶は台所の土間で野菜を切っている。窓を閉め切っているので、薄暗い。
「ここまで降ると、農作物にも影響が出そうだね」
「ああ。天流川も氾濫しそうだ」
里を流れる川を天流川という。
天から地上へと、異空間の里であるこの浮き島を通って流れていると伝えられるので、この名があった。
「染め物もできないよ。せっかく楽しくなってきたのに」
胡蝶が吐息をつく。
卯木の指導のもと、彼女は毎日決まった時間に、里の女たちと衣裳工房の仕事を手伝っていた。
里の女たちは、胡蝶以外、皆、既婚者であったが、胡蝶と年の近い者たちもいるので話は合う。衣裳工房や洗濯場などが、女たちの社交の場となっていた。
まだ見習いだが、胡蝶はそこで染織の仕事をして、八尋の家の家事を真尋と分担して行い、八尋に読み書きや護身術を習った。いずれ、真尋とともに八尋の仕事を手伝うだろうということで、棒手裏剣や苦無の扱い方なども教わっている。
知らないことを学んでいくのが、胡蝶には楽しくて仕方がなかった。
だが、そういった日常も、こう雨に降り続けられては身動きが取れない。
「こういうとき、穀倉があるのはありがたいね」
「でも、毎日、家の中にいたんじゃ身体がなまっちまう。魚でも捕りに行きてえよな」
二人は鍋に切った野菜と水を入れ、火にかけた。
今日の夕餉は雑炊である。
その雑炊がもうすぐ出来上がろうという頃、玄関の扉が開く音が聞こえた。
「あ、八尋だ。胡蝶、水を持っていってくれ」
「はあい」
盥に汲んだ水と手拭いを持ち、胡蝶は玄関に向かう。
「おかえり、八尋。濡れただろう。着替え、いる?」
そう言って玄関まで行くと、帰宅した八尋は一人ではなかった。
「ふう……」
雨笠をかぶり、蓑をまとったびしょ濡れの青年が二人。
この日は、長雨の異常性について、里長の屋敷で里の主だった者たちの会合が開かれたのだが、八尋と一緒にやってきたのは、里長の駿であった。
「さ、里長様っ?」
胡蝶は盥を床に置いて、大きく眼を見張って言った。
「会合は、里長様のお屋敷で開かれたんでしょう? この雨の中を、なんでわざわざここへ来るんですか?」
八尋と駿は笠と蓑を取って、大きく息をついた。
「話を煮詰めにね。……というのは建前で、胡蝶の手料理を食べに来た」
「手料理ったって、今日は雑炊ですよ」
二人の笠と蓑を受け取って、土間に干した胡蝶は、急ぎ、手拭いをもう一枚、取ってきた。
「全く。里長の屋敷には世話係が何人もいるってのに、何もこんな雨の中を出歩かなくても」
「世話係って、野郎ばかりだぞ? 胡蝶と一緒に飯食うほうが楽しいに決まってるだろうが」
相変わらずの二人のやり取りにも慣れた胡蝶は苦笑しつつ、草鞋を脱いで水で足を洗う二人に、それぞれ手拭いを手渡した。
「じゃあ、この雨は外界の影響なのか?」
居間の囲炉裏の前に座り、四人で膳を囲みながら、真尋が駿に訊いた。
胡蝶は五徳に乗せた鍋の中から椀に雑炊をよそって、皆に配る。
「緋翔がそう言ってるんだ。間違いないだろう」
「緋翔?」
胡蝶が聞き返すと、八尋が簡単に説明した。
「胡蝶はまだ会ってないね。緋翔はこの里の祭司だよ。艮の方角にある、おれたちの祖先を祭った社の管理と、山に放している真朱の鳥たちの世話をしている」
「卯木姐さんのご亭主だよ」
と、真尋が口を添えた。
「卯木さんの?」
卯木の夫の話を初めて聞いた胡蝶は、興味深げに瞳を瞬かせた。
「そういうわけで、真尋。八尋と外界へ調査に行ってくれ」
「はい」
ここ、浮き島の里は、通常の世界とは異なる時空に浮かんでいるため、この里に住む者は、通常の世界を外界、地上、などと呼ぶ。
いつもは外界との出入り口を閉じている浮き島だったが、外界から完全に離れて時空の孤島となってしまわないよう、常に外との距離を測り、均衡を保つ必要があった。それも、祭司の仕事のひとつだった。
「真尋が調査に行くの? 八尋と?」
「あれ、胡蝶は知らなかったのか? 八尋は浮き島の斥候なんだよ。真尋は八尋の助手をしている」
「斥候?」
駿の言葉に、八尋もうなずいてみせた。
「外界とは一定の距離を保たねばならないからね。時々、浮き島の外に出て、地上の様子を見て、情報を仕入れてくる。それがおれの仕事だよ」
「へえ」
「たとえば、里に必要なものを地上で調達するとき、銭を得るために里人を傭兵に出したり、織物などを売ったりするときも、八尋が陣頭指揮を執る」
「そうなんだ」
漬け物の皿も配り終え、いただきます、と手を合わせた一同は食事を始めた。
「やっぱり、屋敷で食べるより胡蝶の飯のほうが美味いな」
「駿、今日の味付けはおれがしたんだけど」
「胡蝶が切った野菜が美味い」
「漬け物もあたしが切ったんですよ、里長様」
横を向いた八尋は小さく笑っている。
ふと、駿が言った。
「今回、胡蝶はどうする?」
「えっ?」
その言葉に胡蝶は驚く。
「八尋の手伝いをするために、護身術や棒手裏剣を習ってるんだろう?」
駿は胡蝶から八尋へと視線を移す。
「連れていくのか?」
八尋は深い瑠璃色の瞳で考えるように胡蝶を見た。
右手に箸、左手に雑炊の椀を持ったままの胡蝶は、動きを止めて、そわそわしていた。
真尋は黙々と雑炊を食べている。
「正直、腕はまだまだ未熟だけど、今回は長雨の調査だ。連れていっても大丈夫だろう」
試すように、八尋は胡蝶にゆっくりと尋ねた。
「どうする、胡蝶? 地上に行きたいか?」
「行きたい!」
勢い込んで答え、思わず赤面した胡蝶は箸を持った手で口を押さえた。
「……行ってみたい。この里が好きだけど、あっちも気になる」
「ははっ、正直だな」
駿が面白そうに笑った。
* * *
翌日、八尋、真尋、胡蝶の三人は、雨笠をかぶり、蓑を着て、外界との出入り口となる山の中の洞穴の前に立った。
洞穴の入り口にはしめ縄が張ってある。
これは、外界と浮き島を仕切るための道切りであった。
「この洞穴の向こうが、外の世界なの?」
胡蝶が問うと、八尋がうなずく。
「出入り口となる洞穴は、普段は閉じている。必要なときだけ作られるんだ。だから、そのたびに違う場所に通じる」
「出入り口を作るのも祭司様?」
「そう。この長雨は、今、浮き島が最も接近している地上の影響だろうから、出入り口を作ればその場所へ通じるだろうと緋翔が言っていた」
しとしとと降りしきる雨の中を、三人は用心深く洞穴の中へと足を進めた。
洞穴を抜けると、そこも、やはりしとしとと雨が降っていた。
どこかの山の麓だろうか。
「あっちに川があるな」
八尋がつぶやく。
童子は、人間よりずっと五感が優れ、強靭で身体能力に長けている。
真尋や胡蝶には聞こえない音も、八尋ははっきりと聞き分けることができた。
「真尋と胡蝶は、川に沿って下っていけ。人里に辿りつくだろう。そこで、人々の様子を見てきてくれ」
「八尋はどうする?」
「おれはまず、周囲の様子を探ってみる」
雨笠に手を掛け、四方を見廻しながら八尋は言った。
「こちらの雨はどんなふうに降り続いているのか、村人たちに話を聞いてくれ。胡蝶は無理するな。真尋のやり方を見ていればいい」
「はい」
「じゃあ、真尋。あとで落ち合おう」
「ああ、解った」
三人は二手に分かれた。
真尋と胡蝶は、川の流れに沿って歩いていった。
土砂降りというほどではないが、雨は長く降り続いているのだろう、川の流れが速い。
「あっ、あそこ」
真尋が前方の川岸を指差す。
「胡蝶、人がいるぞ」
「本当だ。でも、あれって……」
川の流れる音と雨の音にかき消されそうになりながら、誰かが大声で叫んでいた。
「助けて! 誰か助けてー!」
「大変だ……!」
真尋と胡蝶は驚いて顔を見合わせ、叫ぶ人影のほうへ駆け出した。
叫んでいるのは少女だった。
けぶる雨の向こう、片手に黒い犬を抱き、足場を気にしながら、もう片方の手を川のほうへと差し出している少女の姿が霞んで見える。
川には、流されそうになっている子供がいた。
「おい、大丈夫か!」
急ぎ、二人のもとへと駆け付けた真尋が、子供に手を差し伸べた。
川の流れもかなり速いが、水嵩も、今にも溢れそうだ。
川辺の草に必死にしがみついていた男の子の腕を掴み、力を込めて、真尋は水から引き上げる。
「ごほっ、ごほごほっ……」
地面に引き上げられた子供は、両手を地面について激しく咳き込んだ。
「おい、おまえ。大丈夫か?」
真尋が彼の表情を窺おうとするも、子供はうつむいて、苦しげに肩を上下させている。
「柊平!」
雨笠をかぶり、蓑をまとった少女が子供に駆け寄った。
「あ、ありがとうございます。あたしはこの子の姉です。柊平……よかった、無事で」
少女は真尋と、遅れてやってきた胡蝶にも、何度も何度も頭を下げた。
そうする間も雨は無情に降りしきる。
「……姉ちゃん、ごめん」
「馬鹿! クロを助けようとして、自分が溺れてどうするのさ!」
涙声で弟を抱きしめる少女の片腕の中で、黒い仔犬がくんくんと鳴いた。
2018.6.11.