龍神の末裔 [弐]

 降り続ける雨のため、辺りはけぶって見えた。
 少女は早百合、男の子は柊平といった。
 姉の早百合は十四、五歳、柊平は七つくらいに見える。
「本当にありがとうございました」
 早百合はもう一度、真尋に礼を言った。
 全身ずぶ濡れの柊平も、半べそをかきながら、ぴょこんと頭を下げる。
 抱いていた黒い仔犬を柊平に渡し、早百合は真尋と胡蝶を見比べた。
「あの、旅の人ですか?」
「えっ?」
 微かに胡蝶は戸惑ったが、真尋は尤もらしくうなずいた。
「おれは真尋。こっちはおれの姉ちゃんで、胡蝶っていうんだ」
「“姉ちゃん”?」
 胡蝶は思いきり眉をひそめる。
 だが、真尋は何食わぬ顔で話を続けた。
「三人兄弟で旅をしてるんだけど、この雨で、兄ちゃんとはぐれちまって」
「兄ちゃんって、八尋のこと?」
 いちいち突っ込みを入れる胡蝶の手を、蓑の下から真尋はつねる。
「それは大変ですね。あたしたち、今から名主様の家へ行くところですが、真尋さんたちも一緒に行きます? こんな雨では動けないでしょう」
「ありがとう、そうする。助かるよ」
 もう何も言うなというように胡蝶の手をぎゅっと掴み、真尋は早百合に案内されて、歩き出した。
 思いの外、村は近くにあった。

 村の名主の屋敷の、玄関ではなく、台所へと、早百合は二人をいざなった。
「おや、早百合」
 使用人らしい中年の女性が少女を見つけ、声をかけた。
「そういえば、今日が期限だね」
 気遣わしげに言う女性に、早百合は曖昧に微笑し、真尋と胡蝶を紹介した。
「タキさん、旅の人たちよ。兄弟とはぐれたんだって。雨宿りさせてもらってもいい?」
「そりゃ、難儀だったね。濡れた蓑を脱いで、早く火に当たりな」
 広い台所の土間には他にも使用人が働いている。
 竈の火が赤々と燃えていた。
 濡れた笠と蓑を取り、胡蝶は真尋にささやいた。
「兄ちゃんとか姉ちゃんとか、そういう設定は先に言っといてよ」
「しょうがねえだろ。緊急事態だったんだから」
「あの、白湯をどうぞ」
「あ、ありがとう」
 白湯を入れた茶碗を二つ持ってきた早百合が、胡蝶に手渡し、真尋にも手渡そうとした。
「すまねえな」
 礼を言って受け取った真尋の指が早百合の手に触れた。
「っ!」
 刹那、頬を染めた早百合がぱっと茶碗から手を放す。
 それにつられた真尋の顔もまた、仄かに赤らんだ。
「ご、ごめん」
 あたしの手は平気で掴むくせに、と胡蝶が横目で真尋の様子を眺めていると、屋敷の使用人・タキに着替えさせてもらった柊平が、姉のもとへとやってきた。
「姉ちゃん、着替え、借りた」
「すみません、タキさん。よかったね、柊平」
「うん」
 柊平は黒い仔犬を大事そうに抱え、恥ずかしそうに答えた。
「ねえ」
 板の間に腰掛けさせてもらった胡蝶が口を開く。
「早百合ちゃんたちは、どうしてあんなところにいたの? 雨で川が危険だって解っていそうなものだけど」
「それは……」
「おれが悪いんだ」
 姉の言葉をさえぎって、柊平が言った。
「本当は、姉ちゃん一人で名主様の屋敷へ来るはずだったんだけど、家からクロが飛び出して、それで、おれはクロを追いかけて」
「クロってその子だね」
 胡蝶は手を伸ばし、柊平の抱いている犬の頭を撫でた。
 クロはくんくんと鼻を鳴らし、胡蝶の匂いを嗅ぐ。
 黒い眼をした、人懐っこそうな仔犬だった。
「うん。いきなり飛び出していったこいつが、川に落ちそうになって。それで、おれはクロを助けようと……」
「でも、クロは自力で川から上がったらしくて、あたしを呼びに来て、柊平のほうが川に落ちて、溺れちゃったんです」
 早百合は恐ろしそうに唇を震わせた。
「真尋さんが通りかかってくれなければ、どうなっていたかと思うと……」
「そんな大したことしてねえよ」
 照れたように早百合から視線を逸らす真尋を、胡蝶はじーっと見ていた。
「クロは柊平ちゃんの犬? 可愛いね」
「うん! おれの弟」
 柊平は嬉しそうにクロの頭を撫でて言った。
「ひと月か、それより前だったかな。村に迷い込んできたから、おれが飼うことにしたんだ」
「迷い犬なんだ」
「うん。あの日も雨が降っていたな。そういや、クロが来てから、一度も晴れたことがない」
「へえ」
 不思議そうに胡蝶が真尋を見遣ると、真尋も大きく眼を見張って胡蝶を見て、クロを見た。
「ちょっとクロを見せてくれねえか?」
「いいよ」
 真尋が言うと、柊平は素直にクロの躯を差し出した。
「でも、首のとこ、顎の下は触っちゃ駄目だ。毛がすりむけてるから、痛いのか、触られるのを嫌がるんだ」
「あ、ほんとだ」
 覗き込むと、確かに顎の下に扇形の小さなハゲがある。
 はう、とクロが小さく欠伸をした。
 真尋がクロを抱き取ったとき、屋敷の中から台所へ向かって、慌ただしい足音が近づいてきた。
「早百合が来ておるのか!」
「名主様」
 小柄な老人が台所へ姿を見せた。
 この屋敷の主人、村の名主であろう。
「おお、早百合。決心はついたのか」
「……はい。父ちゃんと柊平のことを、名主様に頼めるのなら」
 低い声で早百合は答える。
「姉ちゃん、何の話?」
 無邪気な柊平の問いに、早百合は困ったように視線を伏せた。
「柊平はまだ知らないんだね」
 と、使用人のタキが、気の毒そうにつぶやく。
 名主が苦渋の表情で幼い柊平を見た。
「すまんな、柊平。村で決まったことだ。早百合は、人柱に選ばれたのだよ」
「人柱?」
「おまえも知っておるだろう。この村は二つの川に挟まれておる。川が氾濫すれば、村はたちまち呑み込まれる。村人の生命を護るため、人柱を立てねばならんのだよ」
 名主の言葉が理解できないように、ぽかんと口を開けたまま、柊平は大きく眼を見張っていた。
「早百合ちゃんを犠牲にするの?」
 思わず口を開いたのは胡蝶だった。
「人柱って……そんな、ひどい。他に方法はないの?」
「やめろ、胡蝶。おれたちは部外者だ」
「だって、真尋」
 真尋は素早く胡蝶の耳にささやいた。
「それに、おれたちは人間じゃねえ。そうだろ?」
 その言葉に、胡蝶ははっとした。
 そうだ。自分たちはもう、人間とは異なる世界に属しているのだ。
「何だ、あんたらは」
「すみません、旅の者です。この雨で、こちらに雨宿りを頼みました」
 胡蝶を制し、彼女にクロを渡した真尋が名主に頭を下げた。
「川は今にも溢れそうだ。低地の畑は水浸し、山際では崖崩れも起きている。雨宿りは構わんが、この村の者たちの生命がかかっておるのだ。もう、人柱を立てるしか方法がない」
「姉ちゃん……!」
 泣き出しそうな柊平に、早百合は悲しげな瞳を向けた。
「ごめんね。でも、おまえや父ちゃんの面倒は、ちゃんと名主様が見てくださるから」
 真尋がそっと早百合に近づく。
「早百合、おまえの父ちゃんや母ちゃんは何て言ってるんだ?」
「母ちゃんはいない。父ちゃんは病気なの。長く臥せっていて、この長雨で、ますます弱ってしまって……」
 早百合は弱々しく首を振った。
「仕方ないの。村のためだもん。父ちゃんに何が言える? 人柱に適した年頃の未婚の娘があたししかいないの」
 蒼ざめ、小さく震えている早百合の肩を、真尋はそっと抱きしめた。
 早百合も涙をこらえて、真尋の衣をぎゅっと掴む。

 どんどんどん!

 戸を叩く大きな音が響いた。
「何事だ……?」
 名主をはじめ、その場にいた皆は驚く。
「玄関だ」
 身を翻した名主に続き、早百合と柊平も、台所の土間から板の間へ上がって、玄関のほうへ様子を見に走った。
 タキを含めた使用人たちは不安げに立ちつくしている。
「まさか……八尋?」
 真尋と胡蝶は眼と眼を見交わし、急いで草鞋を脱いで、名主たちのあとを追った。
 しかし、違った。
「だ、旦那様……」
 広い玄関には、狼狽える下男の向こうに、物々しい雰囲気の、異様な一行の姿があった。
 開け放たれた扉の外では激しく雨が降っている。
 その雨を背に、痩せぎすの三人の男が立っていた。
 皆、立烏帽子をつけ、まるで公家のような恰好をしていた。
 一番背の高い中央の男は直衣をまとい、手に白く光る珠を持ち、その両側に立つ二人の男は狩衣姿で、腰に太刀を携えている。
 旅人とも思えない。
「あの……何かご用でしょうか」
 得体の知れぬ一行に怯えたように、屋敷の下男が小さな声を出した。
 異様な一行は、名主をはじめ、そこにいる早百合や柊平、真尋、クロを抱いた胡蝶たちを不遜な眼差しで睥睨した。
「こちらにおわすは水神様じゃ」
 左側の男が甲高い声で言った。
「控えよ。水神様じきじきのお出ましじゃ」
「水神様──?」
 戸惑った一同は顔を見合わせる。
 にわかには信じかねるが、冷たい空気を漂わせるこの一行は、普通の人間には見えなかった。
 ぶるぶると震える名主が、その場に膝をついて問うた。
「水神様が、何故、このような場所へ……」
 今度は右側の男が、淡々と言う。
「生贄はまだか。あまりに遅いゆえ、迎えに参った」
「生贄……」
 唾を飲んで、名主はその言葉を繰り返した。
 中央の男──水神と呼ばれた直衣姿の男が、無表情に、絡みつくような視線を胡蝶と早百合へ投げた。
 蛇に舐められたようにぞっとする。
「娘が二人もおる。どちらが我への贄じゃ?」
 笛を吹くようにひょろりと高い声だった。
 早百合が震え、胡蝶は屹と水神を睨んだ。
 蒼い顔で硬直する早百合の背後に寄り添った真尋が、彼女の肩をそっと支えた。
「そこの美しい娘、支度せよ」
 水神の視線が胡蝶に向けられ、その腕に抱かれたクロが、警戒を露わに小さく唸り声をあげる。
 小刻みに震える早百合が一歩前へ出た。
「人柱はあたしです。その人は関係ありません。すぐ、支度します」
「早百合」
 真尋が気遣わしげに声をかけると、蒼い顔のまま、真尋を顧みた早百合は、震えながらも大丈夫というように、哀しげに微笑してみせた。

≪ 壱   参 ≫ 

2018.6.18.