龍神の末裔 [参]

 水神を名乗る一行を座敷に通し、上座に座らせ、名主は女中に酒を運ばせた。
「早百合はすぐに参ります」
 雨戸を閉め切っているため、燈台に火が灯され、その灯火が室内を淡く浮かび上がらせていた。
 真尋と胡蝶は、柊平とともに次の間に下がり、成り行きを見守っている。
 胡蝶が抱いているクロの唸り声だけが、低く響いていた。
「神である高貴なお方に失礼であるぞ。その犬を下がらせろ」
「嫌だ! クロは家族なんだ。せめて……一緒に姉ちゃんを見送らなきゃ……」
 涙声で叫ぶ柊平にそっと胡蝶がクロを手渡した。
「ね、姉ちゃんを……姉ちゃんを……」
 クロを抱きしめ、柊平はしゃくりあげる。
 水神一行は無表情に酒を呑んでいる。
「小童を黙らせろ」
「は……はい」
 名主が女中に命じ、柊平を連れていかせようとしたが、少年はそこを動かなかった。
「どうしよう、真尋」
 胡蝶が真尋に心配そうに小声でささやいた。
 真尋は次の間から、座敷の水神たちにじっと視線を注いでいる。
「水神が本物なら、すぐに八尋が気づくはずだ」
「八尋? そうだ、八尋はどこにいるんだろう?」
「とにかく、八尋を待つんだ」
 張りつめた空気の中、しばらくすると、白装束に着替えた早百合が姿を現した。
「お待たせいたしました」
 早百合が座敷の隅に手をつくと、柊平に抱かれたクロが、なおも威嚇するような唸り声を上げた。
「水神様。早百合を差し出せば、この雨を止めてくださるのですね」
 早百合の傍らに座した名主が恐る恐る尋ねると、水神は片手に持った白い珠を示して言った。
「これは如意宝珠であるぞ。水を意のままに操ることができる」
「では、すぐに雨を」
「うむ。贄を川に沈めてからじゃ」
 手をついて頭を下げている早百合は全身を震わせた。
 中央に座っていた水神が立ち上がり、両側の男たちもそれに倣った。
「娘。ついてまいれ」
「は……はい」
 早百合が立ち上がろうとすると、クロの威嚇の唸りがさらに強くなり、不意をついて、柊平の腕の中から暴れて飛び出た。
「クロ!」
 仔犬は座敷の隅で膝立ちになる早百合の前へ出ると、
「わん、わん!」
 と、精一杯の声で吠えた。
「うるさい犬じゃ」
 水神が鬱陶しげに言うと、傍らの男がすらりと太刀を抜く。
 クロを斬るつもりだ。
「やめて!」
 太刀が振り上げられ、怯えた早百合が叫ぶ。
 一刀をひらりと身軽にかわしたクロだったが、もう一人の男も腰の太刀に手を掛けた。
 座敷を照らす燈台の灯が妖しげに揺れる。
 危険を察知し、真尋がとっさに早百合の腕を掴み、彼女を次の間へと非難させたが、次の瞬間、次の間にいた柊平が、仔犬をかばおうと座敷の中へ飛び出していた。
「クロ!」
 狩衣姿の男が太刀を振り上げる。
 吠えるクロを捕まえて、覆いかぶさるように仔犬を抱き込んでうずくまる柊平の背に、容赦なく太刀が振り下ろされ、早百合が悲鳴を上げた。

 がったーん──

 突然、凄まじい音がした。
 何が起こったのか、すぐには誰も理解できなかった。
 燈台の灯りが風に吹き消された。
 雨戸が破壊され、外から雨風が座敷に吹き込んでくる。
 振り下ろされた刃の下には、蓑をまとい、雨笠をかぶった人物が片膝をついていた。
 クロを抱く柊平をかばって、片腕で太刀を受け止めている。
「八尋……!」
 胡蝶が叫んだ。
 雨戸を蹴破って屋敷に入り、柊平の盾となった八尋は、そのまま腕に受けた太刀の刃を撥ね返すと、流れるように太刀を奪い、狩衣姿の二人の男をあっという間になぎ倒した。
「無礼者!」
 足許に倒れた男たちの無様な姿を見て、白い珠を手にした水神が眉を吊り上げる。
「神の祟りを恐れぬ不届き者め! 豪雨に村を沈めてやろうぞ!」
 呆然としていた名主がはっと我に返り、走り出て八尋の蓑の裾を掴んだ。
「あんた、誰だ。余計なことをせんでくれ。水神様を怒らせては……」
「水神? 馬鹿な。こいつらは神でも、邪神ですらない」
 その隙に、胡蝶は震えている柊平の身体を引っ張って、次の間まで退かせた。そして、八尋を見遣る。
「八尋、腕は……? 腕、斬られて……」
「斬られてはいない。それに、童子の皮膚は人間ほどやわじゃないからね」
「でも、太刀──
「目くらましだ。本物の太刀じゃない。ただの棒切れだよ」
「えっ?」
「わん! わん、わん!」
 と、再びクロが吠えた。
「おれは村を見廻り、神気を追ってここへ辿りついた。確かに神の“気”を持つ者がこの村にはいる。だが、それはこいつらじゃない」
 その場にいる一同は唖然と八尋の言葉に眼を見張った。
 八尋はおもむろに雨に濡れた蓑と笠を取る。
 青みを帯びた断髪と端麗な顔が露わになり、瑠璃色の瞳が水神を見据えた。
 宝玉のようなその瞳と美しさに人々は息を呑む。
「ぶ、無礼な、我は水神ぞ! この如意宝珠が目に入らぬか!」
 禍々しい目付きで水神は声高く叫んだが、八尋は静かに言った。
「妖に身を落とした神の子。それがおれたち浮き島童子の祖先だ。神の“気”くらい、簡単に見分けはつく」
「ぐっ……」
 水神は落ち着いた八尋の声に圧倒されたように立ちすくんでいる。
「……胡蝶、棒手裏剣を」
「あっ、はい」
 自らはまだ使いこなせないが、胡蝶は棒手裏剣を手甲に忍ばせている。
 それを一本取り出し、前を見据えたまま手だけ差し出す八尋の掌に乗せた。
「村の近くで崖崩れが起こり、墓地の一部が流されていた」
 八尋に倒された二人の男がふらふらと起き上がり、水神の前に立ちふさがった。
「おまえたちは、その墓地から抜け出てきた怨霊だ──!」
「何を申す!」
 水神の掌にある白い珠が光り出す。
「みんな、下がれ!」
 真尋が叫んだ。
 破壊された雨戸の向こうから、激しい雨風が吹きすさぶ。
「我を侮辱するか。宝珠の力で、この村のもの全てを破壊しつくしてやろうぞ」
「させるか……!」
 人差し指と中指にはさんだ棒手裏剣を八尋が鋭く投げた。
 それは水神の持つ白い珠に突き刺さった。
──っ!」
 珠が放つ白い光が破裂するように弾けた。
 眼がくらむ。
 激しい衝撃波が沸き上がり、その場にいた者たちは吹き飛ばされそうになった。
 真尋が早百合をかばい、胡蝶は柊平をかばった。名主と女中は床に伏している。屋敷は軋み、どこかから悲鳴が上がり、遠く聞こえた。
「贄……贄はどこか……」
 衝撃波が収まったのち、そっと真尋が眼を開けると、変わり果てた水神たち一行の姿があった。
「見ろ! 水神なんかじゃない!」
 真尋が言うと、皆は驚いて顔を上げ、そのほうを見遣る。
 座敷の床に棒手裏剣が突き立った白い珠が落ちていた。
 それは宝珠ではなく、髑髏──白い、されこうべであった。
「きゃああっ!」
 悲鳴を上げる早百合のほうへ、水神であったものの手が伸びた。
「贄を……早う」
 直衣や狩衣姿であった男たちの衣裳は朽ち、水神も供の男も枯れ枝のようにやせ細り、土気色の、ぼろぼろの布をまとった幽鬼のような姿になっていた。
 生贄を求める怨霊が、ふらふらと早百合に近づいていく。
「いやあ!」
 真尋が早百合の前に立ちふさがるが、それと同時に柊平の腕からクロが飛び出した。
 うぅっー! と威嚇し、怨霊に噛みつこうとする。
「小癪な」
 供の男たちの手にある太刀に見えていたものは、本当にただの棒切れと化していた。
 しかし、怨霊たちはそれを振り回し、黒い仔犬を殴りつけようとする。
「まずいな」
 八尋がつぶやいた。
「そこの坊主。あの犬を鎮められるか?」
「鎮める? 無理だよ。あんなに興奮したクロは初めて見た。捕まえらんないよ」
 襲ってくる棒をひらりひらりと身軽にかわしていたクロだったが、怨霊に噛みついたところを強かに打たれた。
「クロッ!」
「柊平ちゃん、駄目!」
 クロを助けようと今にも飛び出しそうな柊平の身体を、胡蝶が必死に抱え込んで止めた。
「もうやめてぇ」
 顔を覆って泣き声を上げる早百合を抱きとめた真尋が、八尋の様子を窺うと、八尋は恐ろしいほどの眼差しで、殴打されるクロをじっと凝視していた。
 きゃん! とクロが鳴く。
 どれだけ打たれても、怨霊への攻撃をやめないクロが、転がり、床に倒れたところを、上を向いたその首の辺りへ怨霊の持つ棒が振り下ろされた。
「クローッ!」
 柊平が悲痛な叫び声を上げる。
 刹那、雷鳴が轟いた。

 どーん!

 地鳴りのような響きとともに、屋敷の屋根が崩れ、吹き飛んだ。
「……覚醒したな」
 空を見上げ、独り言のように八尋が言った。
 雨が激しさを増す。
 風が叢雲を散らす。
 時折り、稲光が走る天空に、小柄だが美しい、漆黒の龍が顕現した。

≪ 弐   肆 ≫ 

2018.6.25.