龍神の末裔 [肆]

 座敷の屋根に大きく開いた穴から、激しい雨が降り注ぐ。
 皆が呆然と空を見上げる中、柊平がきょろきょろと室内を見廻した。
「クロは……? クロがいない」
 泣きべそをかく柊平に、八尋が短く答えた。
「空だ。あの龍がクロだ」
「えっ」
 柊平ばかりか、そこにいた全員が驚いて八尋を見、天空の龍を見た。
 雨とともに雷光が走り、黒い叢雲が空を覆う。
「何が……起こって……」
「完全な龍ではない。だが、あの犬は確かに龍神の血を引いている。半神半獣といったところだな」
「で、では──
 名主が絶句して、水神を名乗った一行を見遣る。
 あさましい幽鬼の姿と成り果てた偽の水神一行は、床に伏し、もだえ苦しんでいた。
「連中は神気に中てられたようだ」
 歩を進めた八尋が手を伸ばし、落ちているされこうべに突き刺さった棒手裏剣を引き抜いて、再び刃先をひびの入ったその頭頂に当てた。
「墓を壊された怨霊が、生贄を糧に新たな生を得ようとしたのだろう。──散れ」
 力を込めてされこうべを砕くと、真っ白い骨が粉々になるのと同時に、怨霊たちは陽炎のように揺らめき、呻き声をくゆらせて、見る見るうちに風に巻かれる煙のように雲散霧消していった。
 名主はへなへなとその場に膝をつき、早百合と柊平の姉弟は震えながら寄り添って、その光景を見つめていた。
 怨霊たちを消滅させた八尋は視線を天空の龍に戻す。
 雨粒が頬を叩いた。
「とにかく、どうにかして龍を鎮めなければならない」
「どうやって?」
 真尋が八尋のそばへ歩み寄る。
「柊平が駄目なら、誰の声も届かねえんじゃねえ?」
「くそっ。蘇芳がいれば、簡単に鎮められるんだが」
 蘇芳というのは、浮き島の山に棲む妖鳥の名だ。いつも従えているが、雨のため、今回は連れてきていない。
 八尋はじっと考えた。
「ねえ」
 と柊平が、そんな八尋の袖を引く。
「あの龍が本当にクロなら、なんにも悪さなんかしないよ」
「犬のクロとしての意識が残っているならな。しかし、龍としての血が覚醒した今は、龍としてのクロを鎮めなければならない」
「姉ちゃんを生贄にするの?」
「生贄?」
 八尋は、ふと、後方にいる白装束姿の早百合を認めた。
「……なるほど。贄か」
「八尋、まさか、早百合を……」
 はっとした真尋が八尋を制しようとしたが、早百合ではなく、胡蝶のそばに八尋はすっと寄った。
「悪い、胡蝶。血をもらうぞ」
「へっ? 血?」
 八尋は胡蝶の手を取ると、されこうべを砕いた棒手裏剣の切っ先を、その指に当てた。
「つっ」
 皮膚を裂き、滲み出る鮮血を棒手裏剣の先に付着させると、彼は屋敷の外に出て、天空に在る黒い龍に投じようと構える。
 八尋の全身を雨が打った。
「我、乙女の血を龍神の眷属に奉る。その荒御魂あらみたま、鎮めたまえ……!」
 鋭く投擲すると、棒手裏剣は、激しい雨を裂くように一直線に空中を翔けた。
「届け──っ!」
 勢いを失わず、それは天空の龍の腹の辺りに吸い込まれるようにして消えた。
 肉眼では捉えられなくなったのだ。
「八尋……?」
 外へ出た真尋が問うように呼びかけると、龍を見つめる八尋ははっきりうなずいた。
 黒い龍の躯の一部が光り出し、その光が龍の全身を侵食していく。
「クロ……?」
 雨足が弱くなっていく。
 黒雲が流れ、雲の向こうに朧気に陽光が見えた。
 胡蝶や柊平たちも屋敷の外へ出て、呆気にとられたように空を仰ぐ。
 陽光に融けるように、天空から龍の姿が光とともに消えたとき、あれほど激しく降っていた雨が止んだ。
 ゆるゆると絵巻を紐解くように、天空に青空が広がっていく。
「雨が……クロはどうなったの?」
 八尋のそばに胡蝶が駆け寄った。
「犬の姿に戻ったと思う。地面に落ちただろうが、大丈夫、怪我なんかしないさ」
 その言葉を聞いた柊平が、龍のいた方向へ向かって走り出した。柊平のあとを真尋も追う。
 振り向いた八尋は、胡蝶の手首をすっと掴み、血が滲んでいる彼女の指を口に含んで、傷口を舐めた。
「なっ、何すんのさ!」
 驚いた胡蝶が真っ赤になって叫ぶと、八尋はきょとんとした顔を見せた。
「え? 傷を癒そうと。ほら、血が止まっただろう?」
「……」
 童子の妖力だろうか。確かに、滲み出ていた血は止まっていた。
 赫くなってどぎまぎしている胡蝶の傍らで、白装束の袖を裂いた早百合が、その布を胡蝶の指の傷に巻いてくれた。

 全てはクロの存在に端を発していた。
 龍神の裔として、雨を降らせる力を持っていた仔犬は、半神であり子供であるその未熟さゆえに、己の力を制御できずにいた。そんなクロがひとつの村に留まったために、異常な長雨となってしまったのだ。
 クロの覚醒で名主の屋敷は半壊してしまったが、名主の家族や使用人たちは皆、無事だ。
 被害はこうむったものの、ようやく長雨が止み、人柱を立てることを回避できた名主はほっとした様子を見せていた。
 八尋たちは名主の屋敷に泊めてもらい、翌朝、出立することにした。
 クロも一緒だ。
 胡蝶の血で鎮めた効果が薄れると、クロはまた雨を降らせるだろう。ひとつの場所で飼うことはできないから、自分たちの旅に同行させたいと、八尋が柊平に提案したのだ。
 久しぶりの朝日のもとで、姉とともに、旅支度をすませた八尋たちの見送りに出た柊平は、小さなクロの躯をぎゅっと抱きしめ、淋しそうに仔犬を胡蝶の手に委ねた。
「クロを頼むね」
「うん。解ってる」
 ふと、八尋が柊平に問うた。
「クロに放浪癖はなかったか?」
「え? うちに来てから、何度も家から飛び出そうとしたよ。だから、繋いで飼ってたんだ」
「クロは知っていたのかもしれないね。自分が雨を連れて移動することを」
 柊平はつらそうに胡蝶に抱かれたクロの頭を撫でた。クロも甘えるように鼻を鳴らす。
「だから、おまえたちに迷惑をかけないよう、何度も村を出ていこうとしたんだろう。おまえの姉さんが人柱になる前に」
 一方、早百合は真尋との別れを惜しんでいた。
「いつかまた、クロと一緒にこの村へ立ち寄ってくださいね」
「よかったな。人柱にならずにすんで」
 やさしく微笑む真尋を見て、早百合は頬を赤らめてうつむいた。
「真尋さんたちのおかげよ」
「早百合を護ったのはクロだよ」
「……うん」
 控えめに真尋の手を握る早百合の手を、真尋は力づけるように強く握り返した。
 そんな二人に胡蝶の視線が向けられていることに気づいた八尋が、からかうように軽く彼女にささやいた。
「なんだ、焼きもちか?」
「別に。あたしは真尋の“姉ちゃん”だもん」
「気にするな。あの娘は真尋を気に入っているようだが、真尋は誰にでもやさしいから」
「八尋だってみんなにやさしいよね」
「そうでもないよ?」
 胡蝶は振り返り、感謝を込めた眼差しで、背の高い八尋の顔を見上げた。
「ううん。あたしを不本意な婚礼から助けてくれたし、今回はクロのことも考えてくれた。卯木さんや里長様があたしに親切なのも、八尋が口利きしてくれたからでしょ?」
「じゃあ、そういうことにしておくか」
 それぞれの想いを込めて、旅立つ三人と一匹を、早百合と柊平の姉弟は彼らが見えなくなるまで見送っていた。

* * *

「でかしたな、八尋」
 里にクロを連れ帰った八尋たち三人を、駿はねぎらった。
 浮き島の雨も止んだ。
 里長の屋敷の広い居間に四人は座し、太い梁には真朱の鳥が二羽、八尋が従える蘇芳と、駿に従う鳥・あかつきがとまっていた。黒い仔犬は、無邪気そうに初対面の駿の膝に寄り、鼻をくんくんさせている。
「おれたち童子にちょうどいい龍神だ。さっそく祠を作り、緋翔に世話を頼もう」
 仔犬を抱き上げ、駿はその躯を調べた。
「見ろ、八尋。三つ爪だ。毛に隠れているが、龍の足をしているな」
「首の下には気をつけろよ」
「首の下?」
 クロの喉元を覗き込んだ駿は、ああ、と声を上げた。
「逆鱗か」
「そう。そこを殴られたために、クロは我を忘れて龍の姿に変化したんだ」
「逆鱗?」
 真尋が不思議そうな顔をして、横からクロの顎の下を覗き込んだ。
「ハゲてんじゃねえの?」
「馬鹿言え。どう見ても鱗だろうが」
 龍の顎の下に、一枚だけ逆さに生えている鱗。
 それが、クロにもあったのだ。
「触るなよ、真尋。下手に逆鱗に触れれば、クロはまた無自覚に嵐を呼んで、今度はこの屋敷が壊されるぞ」
「龍のさがだな……おっかねえ」
「しかし、八尋。半神とはいえ、我を忘れた龍神をよく鎮められたな」
「もちろん焦ったよ。蘇芳はいないし……でも」
 八尋は胡蝶に視線を移し、悪戯っぽくくすりと笑った。
「神への贄は、だいたいがうら若き乙女と決まってるだろう?」
 そして、胡座をかいた駿の膝に乗るクロを見遣る。
「クロは完全な神じゃないから、完全な贄を捧げずとも、乙女の血の一滴二滴でも我に返ってくれるんじゃないかってね。だから、胡蝶の血を捧げた。一か八かの賭けだったよ」
「今後はどうするの? 力を制御できないクロは、常に雨を降らせるんでしょ?」
 と、胡蝶。
「この里には真朱たちがいる」
 駿が手を伸ばすと、尾の長い鮮やかな妖の鳥が、しなやかに駿の腕にとまった。
「真朱の鳥は、霊力、妖力の類を糧としている。完全なる神の霊力は強すぎて逆に毒だが、半神の霊力となると、真朱たちにとっては最高のご馳走だよ」
 浮き島の妖鳥・真朱の鳥は、木の実なども食べるが、生命を維持するためには浮き島の里を取り巻く山の霊気と、祭司である緋翔の妖力を主食としている。
 また、童子が真朱の鳥を自身に従属させたい場合、個体に自らの妖力を与え、名を与える。そうすれば、鳥はその童子に付き従って行動するようになる。
 八尋の蘇芳然り、駿の暁然りだ。
 祭司は、四方の山に数十羽棲息している鳥たちに己の妖力を与えるため、常に力を高めておかなければならない。しかし、クロがいれば、その分、祭司の負担が減るだろう。
 そしてクロは、制御できない龍神としての霊力を真朱の鳥たちに喰われることによって、雨を降らせる力を弱めることができる。
「クロ、か」
 人懐っこい仔犬の背を撫でて、駿は、その顔を覗き込むようにして言った。
 真朱の鳥が羽ばたき、二羽の妖鳥が駿の肩に乗った。
「仮にも神の血を引いているんだから、もっと威厳のある名のほうがよくないか? タカオカミはどうだ? 水神の名だぞ?」
 真尋と胡蝶は釈然としない顔をした。
「クロはクロだろ?」
「他の神様の名前をもらってどうするんですか」
「じゃあ、字を決めよう。玄武の“玄”で、クロ。このほうが格調高いだろう? な」
 両手で胴を抱え上げられ、里長に呼びかけられたクロは、尻尾を振って、機嫌よく「わん!」と吠えた。
「書き記す機会なんてあるか?」
「うるさいぞ、真尋。クロはこの字が気に入ったもんな」
 楽しそうに仔犬とじゃれる駿の姿を見て、胡蝶は眼をぱちくりさせている。
 彼女はそっと八尋のそばににじり寄り、彼の耳元にささやいた。
「意外。里長様って、クロみたいな可愛いのが好きなのかな」
「駿は面倒見がいいからね」
 駿の肩にとまって、興味津々でクロの様子を窺う蘇芳と暁を見遣り、八尋はふっと口許に笑みを浮かべた。
「それが童子でも鳥獣でも、一人一人の幸せを考える。だから、みんな駿を慕うんだ。里長に選ばれたのも、妖力や能力の高さ以外に、そういうところが買われたんじゃないかな」
「やっぱり、仲いいんだね。八尋と里長様。里長様のこと、それだけ認めてるんだ」
 鳥や仔犬に囲まれている、赤みを帯びた髪の青年を微笑ましげに眺めていた胡蝶は、出し抜けに、元気よく言った。
「里長様。今からお屋敷の台所、借りてもいいですか?」
「ああ。いいけど、何するの?」
「手料理食べたいって言ってたじゃないですか。クロが来たお祝いに、里長様に美味しいもの作ります」
 駿は魅惑的に破顔した。
「さすが、胡蝶。気が利くな」
 満足げににっこりした胡蝶は、さっと立ち上がって、真尋を見下ろした。
「ほら、真尋。行くよ」
「えっ、おれも?」
「お屋敷の人たちの分を入れて、いつもの倍は作らなきゃならないんだもの。手伝ってよ」
 否も応もなく胡蝶に引っ張られていく真尋の姿を、八尋と駿は笑いながら見送った。
 居間に面する広縁からは、やわらかな陽光が射し込んでいた。
 浮き島の里に、再び穏やかな日常が戻ろうとしている。

≪ 参 〔了〕

2018.7.9.