綿津見の娘 [壱]

 洞穴の向こうから風が吹いた。
「潮の香りがする」
 と、八尋がつぶやいた。
「潮の香り?」
「おそらく、海に出るな」
 買い出しのため、八尋、真尋、胡蝶の三人は、真朱の鳥・蘇芳を伴って、これから地上へおもむくところである。
 浮き島と地上との出入り口となる洞穴は、社の本殿にて祭司の緋翔が術を施し、社の敷地内の決められた場所に、その都度、作られる。どこへ通ずるかは判らない。
 道切りのしめ縄を張った社の奥の岩肌に、今朝、作られた洞穴の前で、真尋は荷を背負い直した。
「何にも匂わねえぞ?」
「あたしも」
 胡蝶も小さな荷を持っている。
「そりゃ、おまえたちは匂わないだろう。それより、海を見るのは初めてか?」
「うん。楽しみ」
「おれも初めてだ、海」
 真尋と胡蝶は期待するように顔を見合わせた。
 真朱の鳥が二、三羽、見送りに来ている。
 八尋たちが出発したら、それを緋翔に報告に行くのだ。鬼門に出入り口を作る祭司の術は、外へ出た者たちが浮き島へ戻ってきたのを確認したのちに解かれる。すると、洞穴は自然消滅する。
「じゃ、行こう」
 八尋たち三人は、洞穴の中へと歩を進め、真朱の鳥・蘇芳を先頭に暗い道を歩いていった。
 闇の中、長い尾が美しい蘇芳の体がほんのりと炎を帯びたように光り、皆を導いている。
 進むごとに、潮の香りは強くなった。
「これが海の匂い?」
「胡蝶、危ないよ」
 薄暗い洞穴の中、足許は平らではなく、ごつごつした岩場になってきていた。
 ふらつく胡蝶の腕を八尋が掴んで支えた。
「あ、ありがとう、八尋」
 童子は人間より五感が優れ、夜目も利く。
「手、真尋と繋いでないのか?」
「だって、真尋には荷物があるから」
「じゃあ、このまま行こう。気をつけて、胡蝶」
 胡蝶の手を握って、八尋は歩き出す。
 歩調を合わせてくれる八尋のあとについて歩く胡蝶は、頬に熱さを覚え、ここが暗くてよかったと思った。

 いきなり光が訪れた。
「わ……!」
 まぶしい。
 洞穴を出ると、そこは岩場になっており、岩場の向こうに、どこまでも続く青い海が見えた。
「これが海……」
 真尋と胡蝶はまぶしげに眼を細めた。
 今回、地上へ来たのは、定期市で必要な品物を売り買いするためだ。真尋は反物を数反、風呂敷に包んで背負い、胡蝶も帯を何本か包んで背負っている。
 それらは、浮き島の衣裳工房で女たちが作ったものだ。
 三人が岩場を進むと、出てきた場所と同じような洞窟がぽっかりと口を開けている前を通り掛かった。
「そっくりだな。間違えねえようにしねえと」
「大丈夫だよ、真尋。真朱は帰巣本能が強いから、たとえ、おまえと胡蝶が迷っても、蘇芳が浮き島へ先導してくれるさ」
「八尋は間違えねえのかよ」
「当然」
 ひょいと洞窟の中を覗こうとする真尋の肩を、八尋が掴んでとめた。
「探検は仕事を終えてからにしろ。今日のおまえの役目は?」
「反物と帯を売ることと、里に必要なものを買うこと」
「よし。買う品は?」
「ちゃんと書き留めて持っている」
「塩だけは絶対忘れずに買えよ。浮き島では手に入らないものなんだから」
「解ってるって」
 岩場の向こうに広い砂浜が広がっていた。
 その向こうに漁村がある。
 そこまで行って村の人間に尋ねると、定期市はもう少し行った辺りに立っているという。これから荷車を馬に曳かせて市に行くという村人に出会ったので、一緒に連れていってもらうことにした。
「あたし、定期市って初めて」
 やや昂揚したように言う胡蝶は、ふと八尋を見遣った。
「でも、八尋はどうして行かないの?」
「おれは情報収集。この辺りにいるよ。蘇芳をつけるから、真尋と市を楽しんでおいで」
「うん」
銭緡ぜにさしは真尋が持ってるんだよな」
「ああ」
「じゃあ、これは真尋と胡蝶の小遣いだ」
 八尋は懐から取り出した小さな巾着を真尋と胡蝶にひとつずつ手渡した。
「二人とも、日ごろ頑張ってるからね。好きなものを買っていいよ」
「好きなもの?」
 驚いたように胡蝶が問う。
「胡蝶が欲しいと思った物。綺麗な櫛とかあるんじゃないか?」
 浮き島で作った品を市で売る、もしくは必要な品と交換する。
 そして、浮き島では手に入らない品を買い出しに行くのも、八尋たちの仕事のひとつであった。
 胡蝶には、自分のために自分で選んで物を買うというのも初めての経験だ。
「行ってきます」
 海岸に沿って松並木が続いている。
 その並木道を、荷車に乗せてもらった真尋と胡蝶は、八尋に手を振り、妖鳥・蘇芳を伴って、意気揚々と市へと出かけていった。

「さて」
 二人を見送った八尋は、松の並木道から浜へ下り、周囲を見渡した。
 大気の匂いから、近くに塩浜の気配を感じて、その方角へ目を向けた。
 そんな彼に、漁村の老人が近寄ってきた。
「あんた、どこから来なさった?」
「旅の者です。さっきの二人は連れで、身の回りの品を買いに市に行かせました」
「妙な髪の色と眼の色じゃな」
「遠い国の血が入ってるんですよ」
 微笑して、鷹揚に八尋は答えた。
 老人はなおもじろじろと青褐色の髪と瑠璃色の瞳を持つ彼の端麗な顔を見遣り、
「本当じゃろうな」
 と、眉を険しくした。
「妖怪にでも見えますか?」
「何を背負っておる?」
「ああ、これですか?」
 八尋は斜めに背に負った長い棒状のものをちらと顧みて言った。
「護身用の武器です。刀じゃないですよ」
 鞘代わりの革袋に入れたそれは、金砕棒かなさいぼうであった。
 金砕棒に棘はなく、一見、ただの細長い棒だが、鉄製で実はかなりの重量がある。
「ふん。市に向かった子らはまともな子に見えた。あんたが本当に旅人なら、それでいいんじゃ」
 八尋の表情が動く。
「何かいわくありげですね」
「いや、何でもないわい」
 だが、そのとき、少し離れた波打ち際で、人々の騒ぐ声が聞こえた。
「まただ!」
「また、上がった。これで四人目だ」
「一体どうなってるんだ……!」
 老人は苦々しい顔でそちらへと振り向き、八尋も軽く眼を見張って、集まる村人たちを見た。
「上がった……?」
「死体じゃよ」
 老人は簡潔に答えた。

* * *

 波打ち際に人だかりがしている。
 女子供は遠ざけられ、男たちが浜に打ち寄せられた死体を、海から引き上げているところであった。
「ちょっと通してくれ」
 村人たちの間をかき分け、老人が進むと、男たちが振り返った。
「ああ、爺様。まただよ。藤吉のところの太一だ。一昨日から姿が見えなかったんだよ」
 浜辺の波の届かない場所に濡れそぼった遺体を横たえ、取り囲み、村人たちは深刻そうに声をひそめた。
 遺体は若い男で、身なりは普通だった。
 漁の最中に海に落ちたのではなさそうだ。
 老人の後ろから遺体を覗き込んだ八尋は、訝しげに眉をひそめた。
「溺死じゃなさそうですね」
「なんだ、こいつは」
 村人が不審げな眼を八尋に向ける。
「旅の方だそうじゃ。それより、藤吉には?」
「今、知らせに行っている」
 八尋はじっと男の亡骸を見つめた。
 髪や衣服は海水を含んではいるが、遺体はきれいだ。
 水も飲んでいない。肌もそれほどふやけてはいない。外傷も見当たらない。
 ぱっと見には死因の見当がつかなかった。
 事故なのか、自殺なのか、または殺されたのか。そして、それはいつの出来事なのか。
 八尋は砂浜に片膝をついて、冷たい遺体に触れてみた。
 刹那、はっとする。
 微かな妖気を感じた。
「おい、あんた。何をしているんじゃ」
 老人が八尋の肩を掴んだ。
「あんたには関係のないことじゃろう。興味本位の見物はやめてくれ」
「何かあるんじゃないんですか?」
「なに?」
「何か異常なことが。あなたたちは何かを恐れている。この村に、何が起きているんですか」
 老人はむっつりと口をつぐみ、八尋の腕を掴んで、人々のそばから離れた。
「あんたは、今日、ここを通り掛かりなさったんじゃな」
「はい」
「気をつけなされ。ここ一、二ヶ月、あのように若い男ばかり続け様に死んでおる」
「……」
「今日で四人目じゃ。見ての通り、ただ海に落ちたとも思えん。溺死した様子も、殴られたり斬られたりした跡もない。皆、同じように死体で浜に打ち上げられて発見された。まるで通り魔のようじゃ」
「おれを警戒したのは、そのためですか」
 浜に泣き声が響き渡った。
「太一……! なんで……なんで、おまえが!」
 死んだ男の両親と思われる男女が、泣き叫びながら遺体に取りすがっている。
 物思わしげにそちらを見つめる八尋を見遣り、老人はやり切れないように重いため息をついた。
「死んだのは、皆、見目よい若い男ばかり。お連れの子らが戻ってくるのは夕刻じゃろう。あんたも通り魔に遭わんよう、気をつけなされ」
 波の音に重なり、浜にすすり泣く人々の声が高く低く揺らめいている。
 八尋は自分の感じた妖気を思った。
 遺体から感じた妖気は、彼が別の場所で感じた妖気と同一のものだった。
 間違いない。
 妖の仕業だ。

弐 ≫ 

2018.9.22.