綿津見の娘 [弐]
行こうとする老人の背を八尋の声が追った。
「ご老体、待ってください」
足をとめ、振り向いた老人に彼は穏やかに言った。
「おれを雇いませんか?」
「何じゃと?」
「旅をしながら、退魔のようなこともしています。彼らの死因を調べてみたいと思うのですが」
「あんたが……?」
老人が探るような眼差しになる。
八尋は人懐っこい表情を浮かべ、軽く微笑んでみせた。
「おれは八尋といいます。どうでしょう」
「わしの一存では何とも言えん。村長や、他の者たちの意見も聞いてみないことにはな。……お代は如何ほどじゃ?」
「この村、塩浜がありますよね。報酬は塩で。村が困らない程度で結構です。連れも買ってきますが、多いほうがいいので」
「塩? 退魔で清めにでも使いなさるか?」
「そんなところです」
さりげなく言った八尋は、ふと、並木道の松の陰に一人で立つ女の姿を認めた。
浜に打ち寄せられた亡骸を囲む村人たちを遠目に眺めている。
「なぜ、あの娘はあんなところから見ているんでしょう? 亡くなった男と密かに恋仲だったとか?」
八尋の視線の先へ老人も眼を向けた。
「ああ、あれは村人ではない。時々ここらで見かけるな」
女は髪を肩より長くは伸ばさず、尼削ぎにしていた。
視線を感じたのか、不意に八尋のほうを見遣った女は、彼と目が合うと、すっと身を翻し、その場を離れた。
「歩き巫女か、比丘尼か、どちらにしても、春をひさぐおなごじゃろう。そういうおなごはこの辺りにも何人かおる」
「そうですか」
退魔を依頼するか否か、夕刻までに村で話し合うと老人は言い、八尋と別れた。
美しい砂浜を歩いて戻り、洞窟のあるほうへと八尋は向かった。
浮き島に繋がる洞穴ではなく、その手前にあった洞窟だ。砂浜を抜け、岩場の近くまで辿りつくと、彼は一旦足をとめて、辺りの風景を見渡した。
砂浜が次第にごつごつとした岩場に取って代わり、その向こうは小さな崖がそびえるような形状になっている。
その崖の中が洞窟なのだろう。
「この辺りには、あまり人は来ないようだな」
何かの気配を感じ、崖の上を見上げると、女がいた。
先程、松並木の陰にいた女だ。
潮風に肩までの髪をなびかせて、浜に立つ八尋をじっと上から見下ろしている。
「……」
八尋はまっすぐ女の視線を見返したが、彼女は黙したままだ。
距離はあるが、八尋の目は女の姿をはっきりと確認することができた。
尼削ぎにした髪、大きな目、紅い唇。
所々に青海波を描いた水浅葱色の小袖をまとい、帯は金茶。血のような色の赤瑪瑙の念珠を首にかけている。
(やはり、比丘尼……?)
立ちつくす女が動かないので、八尋は女を無視して岩場をさらに進んだ。
目的の洞窟から妖気を感じる。
だから、興味を示した真尋を引きとめたのだ。
洞窟の前で少しの間、立ち止まって、その中へと彼は入った。
外からの光を頼りに奥へ奥へと進むと、八尋の眼が、奥の岩の上に放置されているものを捉えた。
舟だ。
「妖気のもとは、この舟だな」
洞窟の行き止まりにうずくまるようにして黒ずんだ古い屋形船がある。
おそらく、満潮時には岩場の上まで海面が上がるのだろう。
舟は初めからそこに在ったようにも、潮に流され、偶然、この場に流れ着いたようにも見えた。
妙な形をしている。
外見は人一人がどうにか横たわれるほどの小さな屋形船だ。
しかし、屋形の部分の四方には、四基の朱い鳥居が建てられていた。
(これは……)
あちこちが腐りかけ、鳥居の朱塗りは剥げ、黒ずんだ屋形船には出入り口がない。
屋形には内側から壊されたと思しき穴が開いており、何者かが閉じ込められていたようだ。
穴のあいた箇所から屋形の中を覗き込むと、ただ筵が敷かれ、あとは何もなかった。
ただ、海の念を感じる。
相当長い間、海上を漂っていたのではないだろうか。
(もしかして、これは補陀落への……)
この舟は、いつからこの場所にあるのだろう。
洞窟の外へ出た八尋は、砂浜を村へ戻る途中、再度、あの女に出会った。
女は八尋の行く手を遮るように、鮮やかな絵のように、そこに立っていた。
八尋が立ち止まると、静々と女のほうから近寄ってきた。
「……あなた、何者?」
女が問う。
近くで見ると、女は思っていたより若かった。
そのあでやかな美貌は、卯木を連想させたが、たとえば卯木が月光を浴びて薄闇に咲き乱れる白い卯の花ならば、この女は土に落ちた深紅の大輪の椿のようだと八尋は思った。
「あなたは妖怪? 人間ではないでしょう」
「おれに何か用?」
「人の姿をしているけど、人間ではないあなたなら、あるいは……お願い。わたしと一緒に来て」
彼女は八尋へと白い手を伸ばした。
「おまえも人間ではないね」
伸ばされた女の手が、ひた、と止まる。
静かに放たれた八尋の言葉に、女はひどく感情を害したように彼を睨んだ。
「──人間だわ」
「向こうの洞窟の中の舟はおまえのものか? おまえからあの舟と同じ妖気を感じる」
「おまえじゃないわ。真砂よ」
険しい様子の真砂に対し、八尋はふっと微笑んでみせた。
「真砂、か。この海と浜に似つかわしい名だね。おれは八尋だ」
八尋の微笑に、いささか真砂は面食らったようだ。探るような目つきになる。
八尋は淡々と言葉を続けた。
「どうして、殺した?」
「……何のこと?」
「今日、上がった遺体からも、あの舟と同じ種類の妖気を感じた。海の念が混じっている。村の男たちの死には、真砂が関係しているんだろう?」
彼から視線を外し、真砂は神経質そうに胸元の朱色の念珠を爪繰った。
「漁村の人に退魔を申し出た。もし、おれが雇われ、そこに真砂が関わっていたら、おれは真砂を退治しなければならない」
「退治ですって? わたしは妖怪でも害獣でもないわ!」
尼削ぎを揺らし、娘は大きく眼を見張って叫んだ。
「では、村の男たちを、何故、殺した?」
「……」
波の音が聞こえる。
寄せては返す、白い波。
明るい空と水平線。
美しい風景に、言葉だけが不吉に響いた。
「殺していないわ」
「じゃあ、どうして彼らは死んだんだ?」
真砂はわずかに顔をうつむかせ、片手で念珠を握りしめた。
「答えないなら、行くよ」
「待って!」
立ち去ろうとした八尋を、真砂は反射的に呼びとめた。
斜めに振り向いた彼の青い髪が風に揺れる。
「漁村にこれからも同じように死者が出るなら、そして、その原因が真砂なら、見過ごすことはできないよ」
微笑んだときも、詰問したときも、八尋は眼の奥に何の感情も宿さず、静かだった。
その静けさに真砂はたじろいだようになる。
そして、彼女は決然と彼の瑠璃色の瞳を見つめた。
八尋を見つめる瞳は深く、濃い。
「なら、あなたが来て。わたしと一緒に」
「どこへ?」
「それは……」
「おうい、八尋さんとやら」
村から八尋を捜しに来たらしい男が、遠くから、立ちつくす二人のほうへと近づきながら、大声で八尋の名を呼んだ。
「捜したよ。爺様から話を聞いた。村長が会いたいと言っている」
「解りました。すぐ行きます」
素早く真砂は身を翻す。──村の男が二人のもとまでたどり着く前に。
すれ違いざまに、彼女は小さな声でささやいた。
「漁村の外れに、もう使われていない納屋があるの。今宵、戌の上刻、そこに来て。来ないときっと後悔するわ」
八尋の近くまでやってきた村の男は、走っていく娘の姿を目で追いながら、気軽に問うた。
「遊び女に誘われたのかい?」
「ええ」
「あんた、いい男だもんなあ。女が放っておかねえよな」
そう言って、男は海の彼方へと視線を投げた。
「死んだ若い奴らも、みんな、いい男だったのにな……なんで、死んじまったんだ」
「……」
八尋も海へと眼を向けた。
大海原には、妖気ではなく神聖な霊気を感じる。
* * *
正式に依頼を受け、八尋は不可解な死を遂げた男たちの死因について、調べることになった。
夕刻、真尋と胡蝶が定期市から戻ってきたが、この日は浮き島の里へは戻らず、三人は村長の家の離れに泊まった。
夕餉を振る舞われ、死んだ男たちの人となりや、遺体が見つかったときの様子などを村長から聞き、夜具が延べられた離れの部屋へ戻っても、八尋はじっと考え込んだままだった。
「だいたい見当はついているんだろう?」
市で買ってきた荷を整理しながら、真尋が言った。
「勝算がなきゃ、八尋は動かねえもん。やっぱり、何かの妖怪の仕業?」
「まあね」
八尋は曖昧に答える。
「ところで、おまえたち、市で何を買ってきたんだ? いい品はあった?」
持たせた小遣いの使い道を尋ねると、真尋はやや恥ずかしげに短刀を取り出した。
「おれはこれ」
「短刀?」
「真尋は刀鍛冶になりたいんだって」
横から胡蝶が口を添えた。
「刀鍛冶? 初めて聞いた」
「おれには妖力がないから、八尋みたいに一人で浮き島の斥候を務めることはできねえだろ? だから、一人前になったら、里で童子たちの役に立てる刀を作りたい。初心を忘れないために、人間が作った刀を持っていたいんだ」
「そうか」
人でありながら人間ではない、その生を受け入れた真尋の覚悟に、八尋はやさしく微笑んだ。
「胡蝶は? なに買ったの?」
「胡蝶は櫛とずいぶん迷ってたんだけど、結局──」
「真尋!」
赫い顔でたしなめられ、真尋は悪戯っぽく笑って口をつぐんだ。
「……里へ帰ったら、見せる」
「ふうん?」
小さく灯した燈台の明かりに仄白く浮かび上がる胡蝶の横顔が美しい。
そんな彼女を見つめていた八尋は、ふと言った。
「なあ、胡蝶」
「なに?」
「胡蝶くらいの歳で、若くて、しかも相当美人なのに、髪を下ろしてしまうって、どんなときだと思う?」
「信仰のためじゃなくて?」
「ああ」
胡蝶はすぐに答えた。
「絶望したとき」
「……絶望?」
彼女はうなずく。
「恋しい人を亡くしたとか、親や兄弟を殺されたとか……人との繋がりを絶たれたとき、かな」
八尋はじっと彼女を見つめ、短刀をみがいていた真尋も、手を止めて胡蝶を見た。
「絶望……したの? 胡蝶も?」
「ううん。あたしは独りじゃなかったから。あたしは捨て子で、それでも拾って育ててくれたおじいちゃんとおばあちゃんがいた。その二人が亡くなったあとも、真尋の母さんがあたしの母さんになってくれた」
胡蝶は屈託なく笑った。
「もちろん、みなしごというだけで、ろくな子供じゃないって目を向ける大人もいたし、あたしをいじめる子たちもいたよ。でも、真尋がいつもかばってくれたんだ」
「えっ、そうなの?」
真尋が驚いたように口をはさむ。
「うん。真尋は子供たちの中でも一目置かれていたから、いつも真尋と一緒にいた。だから、絶望なんてしなくて済んだ」
燈台の灯が揺れ、胡蝶の黒い瞳が揺れた。
「でもさ、もし、そういう親切な人たちに出会わなければ、きっと絶望していたと思う。御館様との婚礼を迫られたときだって、逃げようとは思ったけど、髪を下ろそうとか、死にたいとまでは思いつめなかったもの」
「思いつめて、絶望する……か」
胡蝶の前髪をくしゃりと撫でて、八尋は立ち上がった。
「真尋、今、何刻頃だ?」
真尋は窓を開けて、月の位置を確かめた。
「戌の中刻くらいかな。時刻がどうかしたの?」
「ある女と会う約束をしている」
「女?」
「彼女が絶望して鬼女になったのなら、同じ鬼のよしみで、話くらい聞いてやらなければな。蘇芳、おいで」
革袋に入れた金砕棒を背負い、八尋は手を伸ばして真朱の鳥を呼ぶ。
「外は真っ暗だよ。蘇芳は……」
「大丈夫。真朱は夜目がきくから」
真尋と胡蝶を残し、夜の闇の中、蘇芳を肩に乗せた八尋は密やかに外へ出た。
2018.10.5.