綿津見の娘 [参]

 月明かりが浜を照らす。
 村外れの納屋の場所はすぐに判った。
 その納屋の中からは、微かに男女の忍び笑いが洩れ聞こえていた。
「……」
 八尋は無言で納屋の扉の前に立ち、いきなり戸を開けた。
「なっ、何だ、てめえ」
 灯りも点していない暗闇の中に若い男女がいた。
 女は真砂だ。
 二人の間には徳利と盃があり、酒の匂いが漂っていた。
「遅かったのね」
 と、座ったまま、真砂が言った。
「あなたの代わりに、この人を連れていくところだったわ」
 思わせぶりに薄く笑う。
 八尋は納屋の中を見廻した。
 小屋の中は雑然としていて、薄暗かったが、扉が開け放たれたことで月明かりが射し込み、男が憮然と眼を細めていた。
 男はしばらく沈黙していたが、結髪をしていない八尋の髪を見て、声を上げた。
「もしかして、あんたが村長の雇った退魔師かい? ここにいるのはおれたちだけだ。妖怪なら、他を探してくれ」
「あなたは村の人か?」
「ああ。佐吉という」
「真砂と何をしていた?」
「見りゃ解るだろ? これからするんだよ。解ったら、行ってくれ」
 八尋は険しい表情を真砂に向ける。
「この人に何をしようとしていた。連れていくって、どこへ?」
「おい、あんた。いい加減に……」
「今までの男たちは、連れていこうとして、間違って殺めてしまったのか?」
 男に構わず言葉を続ける八尋から、ふいと真砂は顔を逸らした。
「真砂」
「……盃を」
 娘は尼削ぎにした髪を揺らし、膝元の盃を手に取った。
「盃を受けてもらうの。いけない?」
 手許の小さな盃に視線を落とし、探るように、つぶやくように、真砂は低い声で続けた。
「佐吉さん? それとも、八尋さん、あなたが?」
「お、おう。酒なら、受けるぜ」
 真砂の手にある盃を取ろうと佐吉が手を伸ばしたが、娘はうつむいたまま、ぽつりと言った。
「酒ではないわ。わたしの血を」
「血?」
 佐吉は怪訝そうに眼を見張った。
 真砂は傍らに落ちている尖った小石を拾い、それで自らの指を傷つけて、傷口から滴るその血を盃で受ける。
 二人のやり取りを見守る八尋の表情が硬い。
「おいおい。まさか、夫婦になりたいってんじゃねえだろうな」
「固めの盃ではないわ。でも、形はどうあれ、わたしの伴侶になってほしいの」
「おまえ、遊び女だろう?」
「違うわ。わたしが伴侶では嫌?」
 妖しい眼差しが誘うように日に焼けた佐吉の顔を斜めに見遣る。
 佐吉は魅入られたように、真砂の眼を見つめたまま、わずかな血を入れた盃に手を伸ばした。
「よせ!」
 その瞬間、何かがくうを裂いた。
 八尋の声とともに、突然、真砂と佐吉の間を通り抜けたのは真朱の鳥・蘇芳であった。
 盃が床に落ち、鮮血がこぼれる。
「何するんだよ!」
 佐吉が怒声を浴びせたが、八尋は静かに真砂に視線を向けた。
「真砂。傷は? 今、自分で傷つけた指の傷」
「……」
 血を滴らせていた彼女の指に傷はない。
 彼女の眼に狼狽の色が走った。
「傷が消えたね。わずかな間に」
 薄闇から真砂の眼が屹と八尋を見遣る。
「傷が消えたのは、何故だ?」
「おい、真砂?」
 佐吉も横から彼女の手を掴み、その指を見て、戸惑ったような声を出した。
 盃からこぼれた血の跡は床にあるのに、彼女の指に傷跡はない。
「どうなってるんだ? おまえは自分の指を切って、血を盃に落としたよな?」
 真砂はじっと下から八尋を睨み、黙したまま。
「真砂──
「佐吉さん。真砂の血の盃を受けたのは、あなたで五人目のはずだ」
「何?」
「そして、四人の男が生命を落とした」
 原因不明の死を遂げ、遺体となって浜に打ち上げられた四人の若者。
 佐吉は、すぐには八尋の言葉が理解できないようであった。
 呆然と八尋を見つめ、その視線をゆっくり真砂へと移した。
「真砂……? どういうことだよ?」
「真砂の血は毒なんだ。違うか?」
「ど、毒だって……?」
 娘は力なく首を横に振った。
「血を……飲ませたわ。でも、それは、ともに生きてくれる伴侶が欲しかっただけ」
「つまり、これまで四人の男におまえの血を飲ませ、結果、彼らは死んだんだね?」
「飲ませる血の量は少しずつ減らしたわ。今度こそ大丈夫よ」
「ひっ、ひいいっ……!」
 その言葉に驚愕した佐吉は座ったまま後退さった。
「ほ、本当なのか、真砂? おまえが太一たちを殺したのか?」
「殺めるつもりはなかったわ。わたしと同じものになるんじゃないかと、試しただけ」
「遊び女の姿で男を誘って……た、試しに、殺した……?」
「違うわ、わたしは──
「おまえのせいであいつらは……! お、おれも、殺すつもりで……」
 佐吉は顔面蒼白で真砂を凝視している。
 先程の盃を口にしていたら、死んでいたかもしれないのだ。恐ろしそうに、彼はふらふらと立ち上がった。
「化け物!」
 罵声を浴びせ、佐吉は真砂の胸ぐらを掴む。
「死んだ奴らは、おれの友達だ!」
 殴りかかろうと振り上げられた佐吉の腕を、八尋が横合いから掴んでとめた。
「佐吉さん。あなたは関わらないほうがいい。彼女は妖力を持っている。あとはおれに任せて。明朝までに決着をつけます」
「あっ、ああ。──あんたに頼む」
 佐吉ははっと我に返って掠れた声で答え、怒りに震える視線で真砂を一瞥すると、納屋の中から出ていった。
 雲が流れる。
「……本気でわたしを殺すつもり?」
「必要ならね」
「殺せるかしら」
 娘は妖しく微笑んだ。
「殺せるものなら殺してみなさい! 死にたいの。そう、わたしは死にたいのよ!」
 彼女の妖しい微笑が悲哀に変わり、瞳からは大粒の涙がこぼれ落ちた。
 不意に立ち上がった真砂は、そこにいる八尋の胸に倒れ込むように抱きついた。
「もう、あなたしかいない。わたしと来て」
「……」
「さっきの人はわたしを化け物だと言ったわ。……あなた、妖でしょう? あなたならわたしと生きられる」
 泣きながら八尋にすがりつく真砂の身体を、彼はそのまま抱きしめた。
「おれは行けない」
「でも、わたしは独りなんですもの!」
 と、真砂は叫んだ。
「もう、独りはいや! 誰かにわたしのそばにいてほしい」
 八尋の胸に頭を押しつけ、涙声で彼女は叫ぶ。
 彼女を苛んでいるのは孤独だ。
 それが判っても、八尋にはどうすることもできなかった。
「どうして、独りなの?」
「わたしを置いて、みんな、老いて死んでしまうんですもの」
「何故?」
 彼女はうつむいた。
「不老不死を信じる?」
「不老不死? 伝説の時じくの香の木の実でも食べたのか?」
「真面目に聞いて! 人魚の肉を……食べたのよ!」
 八尋の瞳が軽く見開かれた。
「ちょっと待って。真砂はいつから生きているんだ? 人魚の肉だと不死にはならない。不老長寿だ。確か、八百年から千年の生命を得られると聞いている」
「同じようなものだわ。あなたなら、たった独りで八百年も生きられて? わたしはずっと独りで彷徨っているのよ」
「だからといって、無関係な人間を何人も殺めていい理由にはならないよ」
 激しく首を横に振って、小さく嗚咽を洩らした娘は口をつぐんだ。
「浜へ行こうか」
 真砂が落ち着くのを待って、話を聞くため、八尋は彼女を砂浜へいざなった。

 深い藍色の夜空の下、波の音が聞こえる。
 月光に仄白く照らされる浜に、二人、海を向いて並んで腰を下ろすと、泣き疲れた真砂は自身の身の上を途切れ途切れに語った。
 それによると、彼女が生まれたのは平安時代の中期辺りらしい。
 父親は海に面した国の国司だった。
 あるとき、国司のもとに珍しい品が持ち込まれた。
 人魚の肉だという。
 人魚の肉は不老長寿をもたらすといわれるため、国司はこれを朝廷へ献上しようとしたが、不老に憧れた十六歳の国司の娘が、先にそれを口にしてしまった。
 娘は高熱に倒れた。
 その後、半年近く床から離れることができなかった娘の様子に、国司は人魚の肉を毒と見なし、朝廷へは献上せずに破棄した。
 娘の体調は回復したように見えた。
 だが、そのときから、娘は年を取らなくなった。
 それが真砂である。
「わたしは十六歳の姿のまま。でも、父も母も兄弟も、みな老いて亡くなったわ。わたしの時間は止まっているのに、周りの人たちは次々と死んでいくの」
 それでもいいという男と出会い、夫婦になったこともある。
 けれど、やはり夫は老いて亡くなって、彼女は若く美しいまま取り残される。
 何度か結婚して、夫を亡くすことを繰り返し、自身はおよそ四百年は生きているだろうか。
 生きていくために春をひさいで放浪した。
「洞窟にあったあの舟は? あれは補陀落への渡海船だろう? 真砂はあれに乗ってこの浜へ辿り着いたんじゃないのか?」
「各地をさすらって、南の海に出たとき、その地のお寺のお坊様が補陀落渡海のことを教えてくださったの。補陀落へ行き、観世音菩薩様におすがりなさいって」
 補陀落とは観世音菩薩の南の浄土である。
 その寺で真砂は髪を下ろし、尼になった。
 補陀落への渡海船を造ってもらい、それに乗って、海へと流された。
 眠っている間に到着すると諭され、鳥居を設けた屋形船にはたくさんの御札が貼られた。
 あるいは僧は、不老長寿の身の真砂を永の眠りに就かせ、その寿命が尽きるまで海に封じようとしたのかもしれない。
 気づけば、舟はあの洞窟の中に打ち上げられていた。朽ちた屋形船の中で真砂が目覚めたのは、ほんの三月みつきほど前のことだった。
 どのくらいの年月を海上を彷徨っていたのかは判らない。
「哀しい話だね。おまえの妖気に海の念が混じっているのは、人魚の肉を食べたせいか」
「やっぱり、わたしは化け物なの? 舟はあんなに腐食してしまったのに、わたしは何も変わらない」
「真砂、おまえは化け物じゃない。だが人間なら、今、生きてはいまい」
「……」
 彼女の首にかけられた赤瑪瑙の念珠が、そのひとつひとつがまるで血の結晶のように、月華にきらめいて見えた。
「血を……与えれば、相手もわたしと同じ“もの”になるかもしれないと思ったわ」
 白い指先が弄ぶように念珠に触れた。
 風が流れ、雲が漂う。
「だから、わたしに興味を持ってくれたやさしそうなひとに、わたしの血を飲ませたの。そうしたら、その人は死んだ。だから、次は、飲ませる血の量を減らしたわ」
「そして、四人が死んでしまったんだね」
「遺体は海へ流したわ。人魚の呪いだと思ったから、海へ還そうと思ったの。結局、皆、浜へ流れ着いてしまったけれど」
「真砂。おまえは今、どうしたいの?」
 真砂は涙をこらえるように顔をゆがめた。
「八尋、あなたは妖でしょう? 人間より長く生きられるんでしょう? お願い、わたしと一緒に──
「それはできない」
 低い、やわらかな声音に遮られ、真砂は隣に座る八尋の肩に額を押し当て、嗚咽をこらえた。
 八尋は真砂の肩を抱き寄せる。
「朝までここにいよう。そのあと、眠らせてあげるよ。おれなら、真砂に永久とわの眠りを与えられる」
 ただ、波の音が聞こえる。
 二人は寄り添い、月が傾くのを眺めていた。
 蘇芳は納屋の屋根に羽を休めている。
 この空が黎明に彩られたとき、全て、終わらせる。

* * *

 翌日、漁村の人たちの力を借り、八尋は洞窟にあった朽ちた屋形船を海へ引き出してもらった。その中に、眠る真砂を横たわらせ、漁船で曳いて、沖まで運んでもらう。
 沖の潮流に放たれた屋形船は、遠からず大海原の荒波に呑まれ、海の底へと沈むだろう。
 昨夜の出来事や、真砂の行ってきた事々は、八尋と佐吉の口から村人たちへと伝えられた。
 浜にいる村の若い衆から離れ、八尋は一人、松並木のそばにたたずむ。
 海は凪いでいた。
 この場所で、初めて真砂を見かけた。
 漁船に曳かれ、次第に沖へと遠ざかる屋形船をじっと見送る八尋のそばに、胡蝶がやってきた。
「……あの人、眠っているようだった」
 ぽつりと胡蝶が言った。
「八百年の寿命が来るまで、眠り続けるの?」
「舟には蘇芳が同行している。真朱の鳥は妖力や霊力以外に生き物の生気も喰う。沖で蘇芳に真砂の全ての“気”を喰らわせ、彼女の寿命を終わらせてやろうと思うんだ。屍は塵になるだろう」
「真砂は一緒に生きられる人を探していたって」
「ああ」
「八尋も誘われたんでしょう?」
 不安そうな胡蝶の声に、八尋は彼女の顔を見た。
「一緒に行こうとは、思わなかったの?」
「いや」
 じっと彼を見つめる胡蝶の視線を探るように見返し、八尋はふっと微笑んでみせる。
「おれがいなくなると、胡蝶が寂しいだろう?」
 それでも胡蝶は、不安げに八尋を見つめたままだ。
「浮き島へ連れていくとかも、考えなかったの?」
「浮き島の掟は知っているだろう? それに、過失とはいえ、真砂は人を殺めている。何度もね。だから還してやりたい。人魚の肉を食べた彼女の還るべき場所、わたつみへと」
「あたしだったら……何百年も独りぼっちなんて、想像できないよ」
「胡蝶にはおれがいるだろう?」
 はっと彼を見上げる胡蝶の髪を、八尋は悪戯っぽい手付きで撫でた。
「ところで、ずっと気になっていたんだけど、胡蝶から香ってるその匂いは何?」
 胡蝶は慌てたように眼を伏せた。
「……お土産。八尋に」
「おれに?」
 彼女は懐からかぐわしい小さな巾着袋を取り出した。
「もしかして、おれに土産を買うために櫛を諦めたの?」
「だって、八尋にも何か買いたかったんだもの。櫛を買うとお土産が買えなくて。匂い袋なら、二つ買えたんだ。色違いであたしとお揃い」
 取り出した二つの匂い袋の片方を八尋の手に乗せる。
「八尋の瞳の色だよ。こっちはあたしの」
 胡蝶が持つ匂い袋は、彼女の衣とよく似た桜色をしていた。
 それを見て、八尋は渡された瑠璃色の巾着と娘の手にある桜色の巾着を取り換えた。
「おれはこっちの色がいいな。ありがとう。おれの眼の色のほうは、胡蝶が持ってて」
 桜色のそれを口許へ近づけ、匂いを嗅ぐ八尋の横顔があまりに優麗で、思わず胡蝶は見惚れた。
「姫椿かな。いいね。胡蝶と同じ香りをまとえる」
 沖へ進む屋形船はもう見えなくなっていた。
 漁船が引き返してくるより先に、青い空を真朱の鳥が飛んでくるのが見える。
「行こうか、胡蝶」
 鮮やかな朱色の蘇芳の姿を認めた八尋は、匂い袋を懐にしまい、胡蝶を振り返った。
「真尋が待っている。……そうだ、次に市に行ったときは、おれが櫛を買ってあげるよ」
 定期市で買いそろえた品をまとめて、浮き島への出入り口である洞穴の前で真尋が二人を待っている。
 青い海は静かだった。
 まるで何事もなかったように。

≪ 弐 〔了〕

2018.10.15.