織り姫幻想 [壱]
浮き島の里の異空間の夜空も、外の世界と同じ星の宿りを有している。
そう胡蝶は八尋に教えられた。
晴れた夜には、ときどき八尋は胡蝶を誘い、河原まで行って一緒に夜空を眺め、星の名前を教えてくれた。
北辰。
北斗星。
六連星。
閉ざされた里にあって、その里を取り巻く天空は無限の藍を秘めている。
不思議に満ちた星の輝きは胡蝶の心に深く感銘を与えた。
里から外界へ、しばらく傭兵として出向いていた童子たちが帰ってきた。
ひと仕事終えた彼らは、外から調達してきた品々を里長の屋敷へと運ぶ。それぞれの取り分や里としての貯えなど、里長を中心に、皆で相談して分配するのだ。
傭兵を生業とする里人たちを取りまとめるのは、伊吹という名の濃紺の髪を持つ童子だった。
異界への出入り口を作る緋翔、里と外界への出入りを管理する八尋、その二人に従って、伊吹は動く。そして、彼らを統率するのが里長の駿だ。
外から調達してきた品々が里長の屋敷へと運ばれた。
童子たちに指示を与える伊吹に八尋が付き添っていた。
「よう、ご苦労さん」
荷を運ぶ傭兵たちを出迎えた駿が彼らを労う。
「外は相変わらずか?」
「群雄割拠って時代だな。おかげで、兵として雇ってもらえるわけだが」
軽口をたたく童子たちは楽しげだ。
その中に八尋と一緒にいる伊吹の姿を見つけ、駿はにっと破顔した。
「お疲れさん」
「ただいま、帰還しました」
濃紺の長い髪を後頭部に結い上げた伊吹は、駿に一礼し、涼やかな眼で微笑んだ。
口調が丁寧なのは彼の気質で、相手が里長だからではない。基本、この里に役割の分担はあっても身分の上下はなかった。年は伊吹のほうが駿よりひとつ上だ。
「浮き島も変わりありませんか?」
「それがな、聞けよ、伊吹」
駿は伊吹の肩に腕をかけ、物々しげに言った。
「八尋の奴、最近、夜な夜な胡蝶と逢い引きしてるらしいぞ」
「それは聞き捨てなりませんね」
面白そうに伊吹が八尋を見遣ったので、八尋はちょっと眉をひそめてみせた。
「違うだろうが。星を教えているだけだ。真尋にだってしてきたことだ」
「どうだかなぁ。真尋は家において、胡蝶と二人だけで星を見てるんだろ?」
「八尋も隅に置けませんね」
揶揄を含んだ二人からの視線を受けて八尋は仏頂面を作る。
「だから、最近、真尋は自分のことで忙しいんだって。刀鍛冶に弟子入りして、そっちの仕事に夢中で泊まり込むこともあるんだよ」
「で、美女と二人きりで星見ですか? 道理で駿が焼きもちを妬くわけですね」
「だろ? 伊吹もずるいと思うだろ?」
からかう二人に八尋はわざとらしくため息をついて苦笑した。
胡蝶を気に入っているらしい駿には、いつも何かとちょっかいを出される。
「胡蝶は駿ほど気にしてないよ。手を出さないという取り決めは守ってる。ところで胡蝶といえば、伊吹のところの傭兵志願の子らに相手になってもらってるんだって?」
「ああ、はい」
と伊吹は微笑んだ。
「十二、三の少年たちを中心に遊んでもらっていますよ。綺麗な娘がいると華やぎますからね。皆、喜んでいます」
「遊ぶ? 胡蝶は武術の鍛錬をしてるんじゃなかったか?」
駿の問いに伊吹がうなずく。
「胡蝶は大真面目ですよ。でも、子供たちにとっては息抜きです。皆、胡蝶に懐いていますよ」
傭兵になるために訓練を受けている少年たちに、胡蝶は武芸の練習の相手になってもらっているのだ。浮き島の斥候として働く八尋の手伝いをするために、最低限の武術を習得せねばと彼女は日々精進していた。
「健気ですね。別に武術など覚えなくとも、普通に花嫁修業をしていればいいと八尋が教えてあげれば?」
他意なく言った伊吹だが、八尋は曖昧な表情で微笑むだけだ。
「あれだ、八尋は胡蝶を独り立ちさせてやりたいんだよ。お情けでここに連れてきたと思われたくないんだろ?」
「……なるほど」
胡蝶には、自分の手で自分の居場所を掴み取ったという自信を与えてやりたい。この浮き島の里で、誰かの伴侶となる前に、人として一人前だという自信を持たせてやりたいと八尋は考えている。
「ま、面倒見過ぎて胡蝶が八尋を兄貴としか思えなくなったら、おれが胡蝶を奪ってやるさ」
「させるか」
不敵な笑みを見せる駿を軽く殴る形に八尋が拳を突き出すと、駿はそれを片腕で受け止めた。
そろそろ夕刻だ。
帰還した傭兵たちはもうそれぞれの家へ帰ったのだろうか。
人々のざわめきは遠くなり、たくさんの荷は里長の屋敷へ運び終えた様子であった。
と、
「伊吹ー!」
遠くから呼ぶ声に、伊吹が顔を上げて振り返った。
「あ、駿も一緒か。ちょうどよかった」
「どうした?」
伊吹を捜しに来たのは、傭兵として地上へ行っていた童子の一人である。
「地上から持ち込んだ品の中に、奇妙な掛け軸があるんだ」
「奇妙?」
「とにかく見てくれよ」
その童子に促されるままに、八尋と駿と伊吹は、里長の屋敷へ向かった。
里長の駿の住む屋敷の居間に、問題の掛け軸は置いてあった。
「これがどうかしたか?」
「手に取ってよく見てくれ」
駿は掛け軸を手に取って、ゆっくりと広げてみる。
「おい、これ──」
八尋と伊吹も身を乗り出した。
「妖気を……感じますね」
伊吹がつぶやいた。
広げられた掛け軸には、淡い色彩で一人の娘の姿が描かれている。
物憂げな様子の若い娘は、この時代では見慣れない衣裳をまとっていた。
髪は宝髷に結い上げ、背子、裳をまとい、肩には領巾をかけている。そのたたずまいからして天女のようだ。
「間違いなく妖気を放ってるな」
「だろう?」
「妖怪が描いた絵なのか、あるいは描かれた絵に、何かのまじないが掛けられたのか……」
考えるように言う駿の言葉を伊吹が遮った。
「でも、妖気を持つ品など里に持ち込めませんよ。洞穴を抜けたときに道切りの結界に阻まれるはずです」
「その通りだ。おそらく、浮き島の妖気を受けて、この掛け軸がもともと持っていた性質に何らかの変化が生じたんだろう」
掛け軸に描かれた絵を眺めていた八尋が、ふと言った。
「これ……七夕の伝説の織女じゃないか?」
「ん?」
異国の影響を受けた衣裳。
たたずむ娘の背後には星空が広がり、娘の足許は地面ではなく雲のように見える。
そして娘は糸巻きを手にしていた。
「なるほど、織女か」
「妖気を落とせたら、染織工房に飾るのにちょうどいいね」
染織工房では、日々、浮き島の女たちが働いている。
もとは人間だった彼女たちは、浮き島童子の女房たちだ。
「とにかく、明日、緋翔にも見てもらおう。この妖気が里に影響しないよう、今晩はおれのところで保管するよ」
里長としての駿の言葉に、その場にいた童子たちはうなずいた。
丸められた掛け軸は、妖気を通さぬ箱の中に納められ、駿の書院の文机の上に置かれた。
妖気が外に洩れ出さないよう、丁寧に掛け軸をしまった駿は、無人の室内で不意に誰かの視線を感じ、訝しげに顔を上げた。
「気のせいか……?」
誰もいない。
部屋は静かだ。
「……」
駿は立ち上がり、書院をあとにした。
「あれ、胡蝶は?」
夕餉のあと、渡り廊下でつながれた離れに行っていた八尋が母屋へ戻ると、真尋が一人で夜具を延べていた。
八尋の家には十畳ほどの部屋が二つあり、片方の部屋に八尋と真尋が、もう片方には胡蝶が一人で床を取る。
「台所で夕餉の後片付けをしてるよ。そこにいなかったら、外で星を見てるんだろ」
夜具を延べ終えた真尋は八尋を顧みて仄かに笑む。
「すっかり星に夢中だね。まあ、おれも八尋に星のことを教わったばかりの頃はそうだったけど」
「そうか。ちょっと見てくる」
台所が無人だったので、八尋は家の外へ出た。
真っ暗な中、朧に人影が見える。
「胡蝶?」
胡蝶は振り返って、八尋に気づくと照れたように笑った。
「自分で星宿を見つけるの、結構難しいね」
「今夜は曇っているからな。また晴れた日にしよう」
「うん」
八尋にいざなわれ、胡蝶は素直に家に入った。
夏の夜空に宿る星。
赤星。
牽牛星。
織女星。
天の川──
ゆっくりと流れていく雲の向こうには、数多の星々が隠されている。
2019.6.23.