織り姫幻想 [弐]

 誰かが機を織っている。
 機織り機の音が、まるで音楽のように快く、軽やかに響く。
 ここはどこだろう?
 白い靄に包まれ、辺りの景色は霞んでいるが、空は明るい。
 駿は空を見上げたが、雲ばかりで太陽は見えなかった。
 館がある。
 靄の中に隠れるようにある館のそばには梶の木が植えられ、青々とした葉を茂らせていた。
 機を織る音が響く。
 この館は機屋だろうか。
 館に近づき、駿は、窓から中を覗いてみた。
 館の中には大きな機織り機。そして、背子をまとった女が、こちらに背を向けて機を織っていた。
(どこかで見たような……?)
 その既視感に駿が眉をひそめたとき、
「誰か?」
 機を織っていた女が、手をとめた。
 おもむろに振り返った女は、髪を宝髻に結った、若く、愛らしい娘であった。
(やはり、おれはこの娘を知っている……?)
 見慣れない衣裳をまとった娘だが、確かに駿は、どこかでこの娘を見たような気がした。
「邪魔をしてすまない。あんたはここの織り女か?」
「わたくしを知らぬとは……あなたは他国の方ですのね」
 駿の顔を確認した娘ははっと立ち上がり、彼が覗いている窓のところまでやってきた。
「あなたはもしや、夏彦さま──?」
「いや。おれの名は駿という」
 娘は戸惑ったような顔をする。
「駿さま……そうですか、夏彦さまではない……」
 少し考え、娘は静かに身を翻し、織り機のそばにあった苧環おだまき──糸巻きを手に取って、再び窓辺に引き返してきた。
「わたくし、あなたを知っています。これをお持ちください」
 つと、窓から糸巻きを差し出す。
「これが、わたくしたちを再び出会わせてくれます」
「出会わせる?」
 ここがどこかも、娘が誰なのかも判らないまま、駿は糸巻きを受け取った。
 さやさやと風が流れ、梶の葉を揺らせた。
 辺り一面を仄白い靄が揺蕩っている。

 朝──
 どこかで鳥が鳴いている。
 寝床でふと眼を覚ました駿は、まだ早い時刻だなとぼんやり考えた。
 里長の屋敷の、彼の寝間である。
 何かしらの違和感を覚え、夜具から身を起こし、駿は左手に持っている何かに気づいて、はっとした。
(何だ、これ)
 糸巻きだ。
(……確か、夢の中で受け取った?)
 機を織る天女の夢を見た。
 あれは、昨日の掛け軸に描かれていた──
 駿は寝床から立ち上がり、すぐに書院へと向かった。
 書院の文机の上に置いた箱の中に納めていた掛け軸を取り出し、彼はそれを開くと、床の間にかけた。
(なくなっている……)
 描かれた天女は、昨日、見たときには手にしていたはずの糸巻きを、今は持っていなかった。


「おはようございます!」
「お、二人そろって早いね。おはよう」
 里長の屋敷を訪れた真尋と胡蝶を、里長の補佐をしているまさきが出迎えた。
 里長を務める駿の周りには、長の仕事の手助けをする者たちが数人同居しており、赤い短髪の柾もその一人だ。
「駿は?」
「駿に用か? 朝餉もそこそこに出ていったよ」
「ふうん」
 真尋と胡蝶は何となく顔を見合わせてみる。
「何の用?」
「妙な掛け軸があるって聞いたからさ、見に来たんだ」
「早耳だな、おまえら」
「でも、里長様が留守じゃ仕方ないね。真尋、出直してこようか」
「ちょっとくらいいいじゃねえか。掛け軸は屋敷にあるんだろう?」
 好奇心旺盛な真尋に、柾は苦笑した。
「真尋は物見高いな。駿の書院にかけてあるよ。見てみるかい?」
「いいの?」
 胡蝶が控えめに訊く。
「駿は緋翔を連れてすぐに戻ってくるだろうから、中で待ってな。掛け軸には絶対に触るなよ。妖気を放っているから」
「ありがとう、柾」
 外へ出ていく柾とは入れ違いに、二人は里長の屋敷に入る。
 勝手知ったる他人の家だ。
 真尋と胡蝶は廊下を歩み、書院に辿りついた。
 戸を開けて、そっと書院を覗いてみる。
「胡蝶、あれだ」
「これが、妖気を放つ掛け軸?」
 床の間に一幅の掛け軸がかけられている。
 そっとその前に立った二人は、しげしげとそれを眺めた。
 掛け軸の中に淡い色彩で描かれた世界。
 星空の下、わずかに眼を伏せた天女が憂い顔でたたずんでいる。
「普通の掛け軸にしか見えねえよなあ。おれたちに妖気は判らねえし」
「この絵は七夕の織女だって八尋が言ってたよね。牽牛を待ってるのかな」
「牽牛と出会う前じゃねえの?」
 物珍しさからここまで来たものの、妖気を感じ取れない二人にはただの絵にしか見えず、真尋はいささかがっかりした様子だ。彼は熱心に天女の絵を見つめる胡蝶に声をかけた。
「胡蝶、おまえ、駿を待ってるか? おれ、そろそろ刀工の師匠のところへ行くけど」
「うん……」
 胡蝶は曖昧に答えた。
「おまえも今日は工房へ行く日だろ?」
「うん。でも、もう少し……里長様に挨拶してから行く」
「解った。じゃあな」
 書院を出ていく真尋を手を振って見送り、胡蝶は再び絵の中の天女に視線を戻した。
 そのとき、ふと、窓際の文机の上に置かれた四角い糸巻き──苧環が目に入った。
「糸巻き? 何でこんなところに……」
 衣裳工房のものだろうか。
 けれど、この里では染織は女たちが一手に引き受けているはずだ。
 不思議に思った胡蝶はその糸巻きを手に取ってみた。
(軽い……)
 よく解らないままにそれを文机の上に戻し、掛け軸を振り返った胡蝶の鼓動がどきんと跳ねた。思わず息を呑んで眼を見張った。
(織女の顔が?)
 その視線が、こちらに向けられている。
 絵の中の天女と目が合ったような気がした。
(どうして……?)
 記憶と異なる。
 さっき見たとき、確か、天女は物憂げに眼を伏せていたように思ったのに──


 駿が祭司の緋翔とともに屋敷に帰ってきたのは、それから間もなくだった。
 八尋と伊吹も一緒だ。
 問題の掛け軸がある書院に四人が入ったとき、そこは無人だった。
 童子たちは床の間の前に立った。
 掛け軸には、背子をまとう天女がわずかに眼を伏せ、物憂げにたたずむ様子が淡く描かれている。
「で、この絵の天女が夢に出てきたと?」
 掛け軸の前に右手をかざし、妖気を探りながら緋翔が訊く。
 緋翔はいつものように狩衣姿で、深緋色の長い髪を背に垂らして丈長で束ねている。
「ああ。宝髷に背子。この国の女でそんな格好してる者はいないよ」
「それで?」
 駿はやれやれと肩をすくめてみせた。
「それだけならただの夢だろう。でも、朝、起きたら、おれはあんなものを手に持っていた」
 駿が目を向ける先、文机の上に糸巻きがひとつ、置いてある。
「それ、掛け軸の天女が持っていた糸巻きじゃないか?」
 思わず八尋が声を上げた。
「おかしいじゃないか。今、天女は何も持っていない」
「なに?」
 眉をひそめる緋翔は、八尋から伊吹へと視線を流した。
「ええ。確かに、昨日見たときは、この絵の天女は糸巻きを持っていました。だから、八尋が織女ではないかと」
「夢に出てきた天女がその糸巻きをおれに手渡したんだよ。それで、眼が覚めたら本当におれが持ってるんだぞ? 吃驚した」
 大して吃驚したふうもなく、平然と駿は言葉を続けた。
「それに夕べ、掛け軸をしまうときに奇妙な視線を感じたんだ。たぶん、この絵の天女の視線だったんだろう」
「……面倒なことになったな」
 右手を下ろした緋翔は大きくため息をつく。
「これには半端な術がかけられている。霊力を持つ絵師が描き、その後、何らかのまじないをかけたのだろう」
「何者かが絵から天女を召喚しようとして失敗したとも考えられますね」
「そんなところだろうな。不完全で意味をなさなかった術が、この浮き島の妖気に中てられ、動き出したようだ。今からでもこの掛け軸を封印しよう」
「眠れる天女が目覚めたか」
 ぽつりと八尋がつぶやいた。
 そうして、四人で掛け軸を封印する方法を相談しているところへ、ひょいと柾が顔を出した。
「あ、駿。帰ってたんだ。真尋と胡蝶が掛け軸を見たいって来てたぞ?」
「え? 会ってないが」
「じゃあ、二人とも、もう仕事に行ったかな」
 柾はそのまま自分の仕事へ戻ってしまったが、残された童子たちは顔を見合わせて苦笑した。
「相変わらず、あの二人は好奇心が強いですね」
「全くだ。彼らのことだから、きっと掛け軸を見てから帰ったのだろう。妖気の影響を受けていなければいいが」
 やや心配げに緋翔が腕を組んだとき、玄関から彼の妻の声が響いた。
「緋翔、駿! 誰かいないかい?」
「卯木じゃないか」
 何事かと、四人そろって玄関へ行くと、緋翔の妻の卯木が物思わしげにそこに立っていた。
「ああ、緋翔。ねえ、胡蝶、ここに来てないかい?」
「どうした?」
「今日、胡蝶は工房に来る日なんだけど、まだ来てないんだよ。ちょっと遅すぎると思って」
 卯木は心配そうに夫を見た。
「時間に遅れるような子じゃないし。八尋んち行っても誰もいないし。ほら、緋翔、妖気を放つ掛け軸があるとか言ってただろう? もしかしたら、真尋とそれを見に行ったんじゃないかって」
 そう言って、彼女は駿に視線を移した。
「……来てないの?」
「いや、来たらしいんだが」
 嫌な予感を覚え、四人の童子たちは無言で顔を見合わせた。
 屋敷の廊下を振り向いた八尋の瑠璃色の瞳が、奥の書院のほうをじっと見つめた。

≪ 壱   参 ≫ 

2019.7.7.