織り姫幻想 [参]

 緋翔は広い玄関の土間を下りて、妻の肩に手を置いた。
「胡蝶は私たちで捜そう。おまえは工房に戻っていなさい」
「ああ、解った。頼んだよ」
 踵を返しかけた卯木を八尋が呼びとめた。
「卯木」
 その声に卯木が振り向く。
「クロ、貸して。蘇芳に呼びに行かせるから」
「……あ、うん。解った」
 クロは祭司の緋翔の家で世話をしている龍神の血をひく仔犬だ。
「おい、緋翔」
 と、卯木が帰ってから、駿が重い口を開くと、緋翔は難しい顔で小さくうなずいた。
「とりあえず、私たちで真尋と胡蝶を捜してみよう。掛け軸の妖気に影響を受けたのかもしれん」
「では、おれが刀鍛冶のところに行ってみましょう。そこに真尋が来ているかどうか」
「ああ、伊吹、頼む。話はそれからだな」
 八尋は口笛を吹いて彼の真朱の鳥を呼び、鳥を──蘇芳を、クロのいる社へと向かわせた。

 伊吹が刀鍛冶の工房へ行ったあと、残された三人が里長の屋敷の居間で待っていると、蘇芳に連れられ、すぐにクロがやってきた。
「クロ」
 とことこと居間まで上がってきた愛くるしい黒い仔犬は、待っていた童子たちに平等に愛嬌をふりまくと、尻尾を振りながらお座りをした。
 優雅に飛んできた蘇芳は太い梁に羽を休める。
「相変わらず可愛いなあ、おまえ」
 駿が両手でクロの頭をくしゃくしゃと撫でまわして言った。
 八尋は懐から小さな巾着袋を取り出した。
「こっちだ、クロ。この匂いを追ってほしいんだ」
 呼ばれたクロは、八尋が差し出す匂い袋に鼻を近づけた。
「胡蝶だ。解るか? これと同じ匂い袋を持った胡蝶を捜してくれ」
 それは、地上の定期市に行ったとき、胡蝶が八尋への土産として買ってきたものだった。同じ香りの揃いの匂い袋で、八尋は桜色の、胡蝶は瑠璃色の巾着をそれぞれ身に付けている。
「おい、抜け駆けするなよ、八尋。道理で、おまえら二人、同じ匂いがすると思ってたんだ」
「抜け駆けじゃないよ。胡蝶からくれたんだから」
「いや、ずるいだろ。そこは遠慮しろよ」
「胡蝶の自由意志だ。何の問題もないだろうが」
 いつもの調子で、また妙なところで張り合おうとする八尋と駿にクロがきょとんとする。
 小さくため息を洩らした緋翔が割って入った。
「二人とも、今はそれどころじゃないだろう。……クロ、胡蝶を捜すんだ」
 わん! と答えたクロは、部屋の中を嗅ぎまわり、廊下に出ると、たたたっと奥に進んだ。
「えっ、書院?」
 駿が戸惑ったような声を洩らす。
 クロはまっすぐに駿の書院へ向かうと、床の間の前で、甲高く吠えた。
「おい、八尋──
「つまり、胡蝶は屋敷からまだ出ていないってことか? もしかしたら、真尋も」
 訝しげな表情の三人が書院へ入ると、クロは掛け軸に向かって吠え掛かっていた。
「掛け軸……?」
「っ……!」
 その掛け軸を見た八尋、駿、緋翔の三人は、愕然と眼を見張った。
 掛け軸の中に淡く描かれているのは、仄白い雲と満天の星空──それだけだ。
 天女が忽然と消えている。
「どういう──ことだ……?」
 八尋が低くつぶやいた。
「織女がいない」
 そんな八尋を振り返り、クロはもう一度、掛け軸に向かって吠えた。
──緋翔、おまえはどう思う?」
 駿が緋翔を顧みる。
 緋翔はしばらく黙して考え込んでいたが、突然、はっと文机の上の糸巻きに目をやった。
「……そうか、空間が繋がったのか」
 八尋と駿が見つめる中、緋翔は糸巻きを手に取った。
「駿がこの糸巻きを受け取ったため、絵の中の世界とこの浮き島が繋がってしまったのではないだろうか」
「絵の中の世界と繋がる?」
「つまり、この絵の世界が紙の中に実体を持ってしまったのだろう」
「実体を持ったらどうなる?」
 緋翔は少し考えた。
「平面の絵ではなく、実在する世界として機能する。実体を持っただけでなく、道ができた。消えた織女はこちらの世界へ召還されてしまったと考えられるな」
「じゃあ、真尋と胡蝶は……」
「クロを信じるなら、この絵の中に引き込まれた可能性が高い」
「……」
 八尋と駿は息を呑んだ。
「クロ、道は見えるか?」
 わん、と答え、クロはひらりと何かに飛び乗った。
 そのまま空中に浮揚したままでいる仔犬を、八尋と駿は驚きの眼で凝視する。
「クロには見えるようだ。私たち浮き島童子の鬼神の血よりも、クロの持つ龍神の血のほうがより神に近しいのだろう」
「道って……」
「これだよ」
 緋翔は手にした糸巻きを軽く持ち上げてみせた。
 彼が糸巻きを動かすと、宙に浮いているクロの位置もわずかに動いた。あたかも、糸巻きと掛け軸の絵との間に一直線に伸びる道があるかのように。
「糸──か?」
 八尋が訊くと、深緋の髪の祭司はうなずいた。
「この糸巻きから糸が伸びて、こちらの世界と絵の中の世界を繋いでいる。クロはその糸の上に乗っているのだ。妖気の質が異なるため、私たちには見えんが」
「真尋と胡蝶は帰ってこられるか?」
「二人に道は見つけられないだろう。誰かが迎えに行かなければ」
「おれが行く」
 すぐに八尋が言った。
「二人はおれが浮き島に連れてきた。おれに責任がある」
 彼の瑠璃色の瞳は、静かだが決然としていた。
 八尋が駿を見遣ると、駿は力強くうなずいた。
「よし。八尋、武器はどうする? おれのを何か持ってこようか」
「待て、駿。紙の中の世界だ。そこに外部の刃物を持って行くのはその世界を破壊する恐れがある」
「……そうか」
 緋翔がとめると、二人の青年は顔を見合わせた。
「じゃあ、このまま行く」
 空中に浮かぶクロに近づき、八尋はクロの背を撫でて言った。
「緋翔。向こうへ行ってしまったら、おれは帰りの道を見つけられるだろうか」
「八尋なら大丈夫だろう。道を見つけやすいよう、私がこの絵の妖気を浮き島の妖気に同化させる」
 八尋はうなずいた。
「クロ、おれを伴って進むことはできるか?」
「わぅ」
「よし、胡蝶の匂いを追ってくれ」
 クロの背に片手を置いた八尋が軽く床を蹴ると、たっ、とクロは跳躍した。
 掛け軸の絵がまるで水面をかきまぜたように混沌と揺らぐ。
 赤い髪の二人の童子が見守る中、八尋は一瞬にして掛け軸のその揺らいだ本紙の中へ吸い込まれるように、クロとともに書院から消えていった。
「……」
 次の刹那には、それはただの掛け軸に戻っていた。
 残された駿と緋翔は言葉もなく、わずかに揺れる軸木の辺りを見つめていた。

「八尋!」
 真尋が伊吹とともに駿の屋敷の書院に駆け込んだとき、そこに八尋の姿はなかった。
「真尋……!」
 緋翔と二人で床の間の前に座っていた駿が、眼を見張って少年を見遣る。
「おまえ、無事だったのか」
「胡蝶がいなくなったって、本当?」
 息せききって駆けてきた真尋は、崩れるようにそこに座り込み、駿に尋ねた。伊吹は部屋の入り口に立ったままでいる。
「八尋は?」
「落ち着け、真尋。八尋は今、胡蝶を捜しに行っている」
「え?」
 呼吸を整えようとする真尋の後ろで、静かに伊吹が問うた。
「何か手伝えることはありますか?」
「……そうだな」
 駿は緋翔を顧みた。
 緋翔は糸巻きを手に、掛け軸の正面に向かって静かに座している。掛け軸に自分の妖気を送っているのだ。
「緋翔、どのくらいかかる?」
「解らんな。だが、急ごう。伊吹、衣裳工房へ行って、卯木から縫い針を借りてきてくれ」
「縫い針、ですか?」
「ものが糸巻きだから、縫い針がいいだろう。五本ほどな。それから、胡蝶の行方が判らないことはまだ内密にと卯木に伝言を頼む」
「解りました」
 伊吹がうなずくと、駿はわずかに眼を伏せ、考えるふうに拳を顎に当てた。
「里の者たちを徒に動揺させてはいけないな。掛け軸や胡蝶のことは、しばらく伏せよう。柾にも口止めをしておく」
 そして、再び視線を伊吹へと向ける。
「緋翔はこの場を動けないだろうから、伊吹は引き続き、緋翔の手助けを頼む。事の仔細は緋翔から聞いてくれ」
「はい」
 おもむろに立ち上がった駿が、部屋を出ようとした。
「駿? どこへ?」
「絵の織女が浮き島に召喚されたのなら捜さねばなるまい」
「……絵の、織女?」
 不安げに、真尋が硬い声で問い返す。
 緊迫した空気を振り払うように、駿は、八尋がよくそうするように、真尋の頭をぽんぽんと軽く叩いた。
「大丈夫だ、真尋。おまえはここにいろ。おれは浮き島をひと回りしてくる」
 軽く手をあげ、駿は一人で屋敷の外へ出た。
 何の気負いもなく、ちょっと近くを散歩してくるような、そんな気安げな様子であった。

≪ 弐   肆 ≫ 

2019.7.22.