織り姫幻想 [肆]

 そこは一面の白い世界だった。
 その仄白い空間の中で、胡蝶は途方に暮れていた。
 掛け軸に描かれた天女と目が合ったと思った次の瞬間、何かが起こったのは確かだ。
 けれど、とうてい信じられないことだった。
 絵が、──絵の中の景色が、突如、現実のものとして、彼女の前にある。そこは、駿の書院からさっきまで見ていた、あの絵の中に相違なかった。
(何なの、これ……?)
 呆然と立ち尽くすも、前も後ろも、仄白い雲と靄が広がっている。
 掛け軸に描かれた空には星空が広がっていたはずだが、やわらかな陽光は、まだ昼のようであった。
 突然、全く別の世界に放り込まれた胡蝶は、言葉を失い、ただぼんやりと辺りを彷徨うしかなかった。
 白い靄がゆるやかに流れ、すると、前方に建物らしき影がけぶるように見え隠れした。
「織姫さま」
「えっ……?」
 不意に女の声がした。
 人がいる。
「誰かいるの?」
「やはり織姫さまなのですね。お姿が見えないので、皆、心配していたのですよ」
 靄の奥から現れたのは、背子をまとった若い女であった。掛け軸に描かれていた織女と同じく、天人のような風体である。
 胡蝶は幾分ほっとして、現れた女に駆け寄った。
「よかった。あの、あたし、迷ってしまって……ここは一体……」
 女は恭しく胡蝶の手を取ると、にっこりと彼女に微笑みかけた。
「今宵は夏彦さまとの祝言でございましょう。すぐにお支度を」
「あの、人違いしてない? あたしは胡蝶って名前で、織姫さまという人じゃないんだ。ちゃんと顔を見て?」
 仄白い靄は出ていても、互いの顔を確認できる距離にいる。
 だが、女は意に介さないように、ほほほ、と笑った。
「お戯れを。あなた様は天帝の姫君、織姫さまです。さ、参りましょう」
「ちょっと待って!」
 いくら否定しても聞き入れてもらえず、半ば強引に、胡蝶は前方の大きな建物の中へ連れていかれた。


 まぶしいほどの緑が視界に入った。
 里を囲む山々の色は濃い。
 屋敷を出た駿は、眼を閉じ、神経を尖らせて、この浮き島の持つ妖気とは異質の妖気の存在を探った。
「……」
 しばらくして、眼を開けた彼は天流川に足を向けた。
 天流川は、浮き島の里を北東から南西にかけ、ゆるやかに蛇行して流れる大きな川だ。その川の水は田畑にも引かれ、浮き島の生活を支えている。
 川の流れに沿って駿が北上していくと、河原に座り込む一人の女の姿があった。
 この辺りからは八尋の家が近い。
「見つけた」
 口角を上げ、駿はつぶやく。
 女は川面を覗き込んでいた。
 音もなくその背後に近寄った駿は、気軽に声をかけた。
「やあ」
 けれど、振り向いた娘を見て、驚いたのは彼のほうだ。
「って、えっ? 胡蝶……!」
 河原に座り込み、水面に顔を映していたのは、胡蝶だったのだ。
 美しい面立ちも、可憐な姿も、着ている衣も。
 その場に足をとめたまま、胡蝶をじっと見つめていた駿は、ややあって、形のいい眉をわずかにひそめた。
──おまえ、誰だ?」
 胡蝶はきょとんと首を傾げた。
「その妖気。胡蝶じゃない。何故、胡蝶の姿をしている?」
「胡蝶……というのですか、わたくしは」
 彼女は再び川面に身を乗り出し、己の顔をつくづくと眺める。
「この世界でのわたくしの姿、気に入りました」
「おい、ふざけるな」
 駿は厳しい声で言って、胡蝶の姿をした娘の肩を掴み、彼女を立ち上がらせた。
 娘は戸惑ったような顔をしたが、にっこりと駿の顔を見上げた。
「ここは緑が美しい土地ですのね。わたくしの国は雲ばかりが目立つところでした」
「いや、だから、おまえは何者だ?」
 姿かたちは胡蝶だが、その所作は、胡蝶と全く違っていた。
「天帝の娘です。国では織姫と、そう呼ばれておりました」
「織姫……」
 この娘が掛け軸に描かれた天女なら、八尋の言ったように、やはり七夕の織女なのだろう。
「国というのは、絵の中の天界か?」
「はい。平面の世界ゆえ、わたくしが召喚されるためには憑人よりましが必要だったのです」
「憑人?」
「異界への渡しである糸巻きに、あなた以外に最初に触れた娘を憑人に選びました。同じ年頃の娘でよかったこと」
「我々がおまえを召喚したと、そう言いたいのか?」
 川面が陽光を反射し、きらきらと光っている。
 ふと駿を見つめ、胡蝶の顔をした織姫は、胡蝶とは違う顔で笑った。
「単独で召喚されるには術が不完全でしたが、こちらの世界へ渡るため、あなたに糸巻きをお渡ししました。お忘れですか?」
「覚えてはいる。しかし……」
 つ、と、織姫の手が駿の腕に添えられた。
「駿さま、わたくし、ここで暮らしとうございます」
「は?」
 織姫はじっと駿の顔を見つめたまま、可憐に首を傾けてみせた。
「天界の父は、毎日、神御衣を織っているわたくしを心配し、わたくしの結婚を決めました」
「そうだろうな」
 七夕の伝説通りである。
「ですが、わたくしは決められた結婚の前に、恋というものをしてみたくなったのです」
「……」
 それは伝説にはない。
「そんなとき、駿さまに出会いました。わたくし、これは運命だと──
「ちょっと待て」
 赤い髪の青年は織姫を制し、彼女の肩を掴んだ。
「おれと出会ったって、一体、いつ……」
「まぶしい光がさして、眼を開けたら天の川の水鏡に幾人かの殿方の姿が映っていました。その中にいらした駿さまをひと目見て、わたくし──
 恥じらいにほんのり頬を染め、織姫はうつむいた。一方の駿は、織姫の肩から手を放し、険しい表情で拳を口許に当てて考え込む。
 おそらく、里長の屋敷で掛け軸を広げたときのことだろう。
 童子たちが絵を見たあのときに、絵の中の織姫も童子たちを見たのだ。そして、そのとき、すでに浮き島の妖気は平面の絵である織姫に生命を与えていたのだ。
「この方が許婚の夏彦さまだったらと……それで、あなた様の夢に入らせていただき、あちらとこちらを繋ぐ役割をする糸巻きをお渡ししたのです」
 駿は小さくため息を洩らす。
「織姫。伝説の通りなら、おまえは結婚相手と相思相愛になる。それから恋はできるよ」
「お忘れですか。わたくしの国は、外界から何らかの力が加えられねば何も動かない、平面の絵なのですよ?」
「つまり?」
「わたくし一人に意思という力が加わっても、天界自体は動くことのない絵のままです。そして、絵の中に夏彦さまは描かれていません」
「……」
 描かれていない夏彦は、織姫の結婚話には登場しても、絵の中の天界に実在しないということだろうか。
 駿は眩暈を覚えた。
「……ややこしいな」
「けれど、わたくしは、わたくしの夏彦さまを見つけました」
 織姫は駿の手を取り、両手でぎゅっと握りしめる。
 胡蝶の姿で。
「わたくしは自分の意思と身体を得たのですから、この地で、駿さまのおそばにいとうございます」
「いや、それは困る」
 今度ははっきりと、駿は大きなため息をついた。
「その身体には持ち主がいる。胡蝶を返してもらわなければならない」
 駿を見つめる織姫の眼差しが、胡蝶の目許がきつくなった。
「嫌です」
「そうは言っても、それは胡蝶の身体だ」
「わたくしに意思だけを与えて、動かない絵の世界でじっとしていろとおっしゃるのですか」
「そりゃ、気の毒かもしれないけど、おれたちだって天女を召喚しようとしたわけじゃない」
「駿さまは、わたくしがお嫌いですか?」
 織姫の手を解くと、きっぱりと駿は言った。
「好きも嫌いもない。ただ、胡蝶は大切な里人だ。胡蝶の身体を乗っ取るのであれば、誰であろうと許さないよ」
 ぴりっと空気に静電気のようなものが走った気がして、刹那、織姫は戦慄した。
 それは駿の妖気だった。
 いつも陽気で気さくな印象を崩さない駿ではあったが、その本質は、強い妖力を持つ鬼の一族の長なのだ。

* * *

 紗のような仄白い靄の向こうに、大きな建物の影があった。
 そこへ向かって、黒い仔犬が駆けていく。
 八尋は周囲を見廻して、ほっと息をついた。
「広い御殿だな」
 絵の中の天界。
 八尋は今、そこにいる。
 クロにいざなわれ、胡蝶の匂いを追っている。
 雲が広がる空に太陽は見えないが、陽光の加減からすると、今は夕刻だろう。その、白い雲と靄に覆われた不思議な世界を、八尋は文字通り雲の上を歩くような感覚で足早に歩いていた。
 御殿の庭を抜けていく中、幾人かの官人や官女が慌ただしく行き交う姿を見かけたが、そのたびに、巧みに靄の影に身を潜ませ、やり過ごす。皆、まとう衣裳は天人のそれに見えた。
 あるかなきかの風に、広い庭園の梶の木々が葉を震わせている。
 クロは迷うことなく、まっすぐに進む。
 前方に大きな池が見えてきた。
 現実とは思えない幻想的な雰囲気が満ちる。
 池の水面はまるで夜空を映したような藍色で、数多の小さな星を閉じ込めたようにきらきらしている。さらに無数の蓮が咲き乱れ、神秘的な光景を作り出していた。
 その向こう岸、雲が渦巻くように小高くなった場所に、典雅な四阿あずまやがあった。
 池を迂回し、クロは四阿に近づいていった。
「わん、わん、わん!」
「おい、クロ。そんなに吠えたら、御殿の者に気づかれてしまうぞ」
 だが、黒い仔犬は八尋の言葉にはお構いなく、嬉しそうにさらに声を大きくして吠え、四阿の中にいた人物に飛びついた。
「うそ、クロ……?」
 か細いその声を八尋が聞き逃すはずがない。
「胡蝶──!」
「! や、ひろ……」
 クロに続いて四阿を覗き込んだ八尋の前に、身を隠すようにうずくまっていた娘が、驚いて背の高い青年を見上げた。
 捜していた胡蝶に間違いなかった。

≪ 参   伍 ≫ 

2019.8.13.