織り姫幻想 [伍]

 八尋の姿を目にした胡蝶は、一気に緊張がゆるんだように、ぽろぽろと涙をこぼした。
「やっ、八尋、あたし……」
「大丈夫、迎えに来たから」
 八尋はその場に膝をつき、小さく震える胡蝶の身体を、労わるように己の両腕でやわらかく包み込んだ。
 彼女が腕に抱いているクロごと、その華奢な身体を抱きしめる。
「どう……やって、ここへ?」
「緋翔の術とクロの嗅覚で。それより、胡蝶、怪我はないか?」
「うん」
「真尋は?」
 えっ、と胡蝶は眼を見張った。
「真尋は刀鍛冶の工房へ行ったよ。……何で?」
「いや、それならいいんだ。あいつは浮き島にいるんだな?」
「うん。ここへは、あたし一人で」
 星空のような水面を持つ蓮の咲き乱れる池の畔、八本の朱塗りの柱に支えられた四阿はどこか唐風であった。
 空を覆う雲を橙色に染めていた光が徐々に薄暗く変化していき、ゆっくりと雲が動いていく。水に墨汁を落としたように、雲の合い間に濃い藍色が広がっていく。
 全天は夜の様相を映し始めた。
 胡蝶が落ち着くのを待って、八尋は問うた。
「ずっとここにいたの?」
「うん。御殿から逃げてきたんだ。お姫様と間違えられて……」
 そうして胡蝶はふと口をつぐみ、八尋の瞳をじっと見た。
「なに?」
「あたし、ちゃんとあたしに見えてるよね?」
「どうして?」
「御殿の宮女たちは、みんなあたしを織姫さまって呼ぶんだ。今宵、織姫は祝言らしくて、宮女たちはあたしをつかまえて着飾ろうとするんだけど、そのとき、鏡を見て、吃驚して」
 胡蝶はクロを下ろすと、懐から小さな手鏡を取り出した。
「見て、これ。おかしいの」
 胡蝶が示すままに、八尋は彼女の手鏡を覗き込んだ。
 そして、鏡の中の胡蝶の顔をじっと見つめた。
「これ──
「変でしょ? これ、あたしの顔じゃない」
 鏡に映った胡蝶の顔は、全くの別人だった。そしてそれは、掛け軸に描かれていた天女の顔にどこか似ていた。
 八尋はほうっと吐息を洩らす。
「おまえと織姫のいるべき世界が、入れ替わってしまったんだな」
「御殿の人たちには、あたしが鏡に映ったこの顔に見えるみたい」
 ふと背後を顧みた八尋が、胡蝶の手を取って立ち上がった。
「胡蝶、御殿の中が騒がしい。官人や官女たちが庭園にも出てきたようだ。急いで外へ出よう」
「織姫を捜しているの?」
「つまり、胡蝶を捜しているんだろう」
 彼の聴覚は、御殿の者たちの足音や動きを正確に捉えていた。
「あたし、どうしたら……」
「どうもしなくていい。一緒に帰ろう」
 可憐な娘の頭を軽くぽんと叩き、八尋は瑠璃色の瞳でふわりと微笑む。
 いつもと変わらない八尋の様子に、胡蝶は安堵とともに微かなときめきを覚えた。鼓動が速い。
「初めて会ったときを思い出すな」
「え?」
「あのときも、おまえは祝言から逃げて、追われていた」
 悪戯っぽく言う彼の表情が優艶で、思わず胡蝶は頬を染めた。


 胡蝶は──胡蝶の姿をした織姫は、駿に手を掴まれ、里長の屋敷へと向かって歩いていた。
 青々とした田畑を心地よい風が吹き抜けていく。
 点在する家々。
 田畑で働く人々の姿。
 里を取り巻く滴るような緑の山。
 そんな美しい田園風景に見惚れていた天人の姫は、出し抜けに言った。
「駿さま、どうせなら、手を繋ぎとうございます」
「え? ああ」
 織姫の手首を掴んで歩を進めていた駿は、その手を放し、彼女が言うままに小さな手を握った。
「遠回りをしておられますのね」
 駿の手をきゅっと握り、織姫は言葉を続けた。
「お屋敷に戻るのに、わざと遠回りしていらっしゃる。この世界を、わたくしに見せるためですの?」
「いい里だろう? この里と里人を守るのがおれの務めだ」
 景色を眺める駿は、ゆったりと歩きながら言った。
「……だから、せめて、わたくしに思い出をくださろうと?」
「おまえにとっては気休めにもならないかもしれないが」
 彼なりの心遣いに気づき、彼の気持ちに触れ、織姫は淋しげにうつむいた。
 心はさらに彼に惹かれていく。
「……」
 織姫はふと足をとめた。
 自然と、手を繋いでいる駿の足もとまる。
 振り返った駿の秀麗な顔を、織姫は切なげにじっと見つめた。
「では、せめて思い出に……一度だけ、口吸いをしてくださいませんか?」
 真剣な織姫の眼差しを受けた駿はふっと微笑んだ。
「ごめんね」
「何故……」
「その身体はおまえのものじゃないだろう?」
 織姫はその声音に何かしら感じるものがあって、はっとした。
「もしかして、この身体の持ち主は、駿さまの想い人……ですか?」
「親友の大切な娘だ」
 彼の琥珀色の瞳が微かに揺れたような気がした。
「中身が別人でも、あいつを裏切って胡蝶に手を出すわけにはいかない」
「……」
「胡蝶の身体、返してくれるね?」
「駿さまが望まれるなら」
「聞き分けのいい姫でよかった」
 駿の言葉を聞いて、織姫なりに納得したようであった。
 この里に己の居場所はない。そう悟ったのだ。
「その代わり、伝説通りに、七月七日の夜にはおれの分身を織姫のもとに送ってみるよ」
「分身? 駿さまの?」
「絵の中の天界におまえの夏彦を作ろう」
 織姫は小首を傾げた。
「行こうか」
 里を歩き、やがて、二人は里長の屋敷へと足を向けた。

 駿が織姫を伴って屋敷の書院の扉を開けると、中にいた者たちが一斉に振り向き、真尋が大きな声を上げた。
「胡蝶!」
 少年は駿と一緒に部屋へ入ってきた娘に駆け寄り、肩を掴む。
「里にいたのか? 心配したんだぞ!」
「待て、真尋。これは胡蝶じゃない」
「え?」
「身体は胡蝶だが、胡蝶の精神はここにはない。これは掛け軸に描かれていた天女の織姫だよ」
「……」
 言葉を失って、真尋は唖然と胡蝶の姿をした娘を見つめる。
 緋翔と伊吹は掛け軸の前に立っていた。駿はそちらへ視線を向けた。
「どんな感じだ?」
「もうすぐだ」
 と、緋翔が答えて言った。
 床の間の掛け軸の、本紙の周りの中回しの部分に、緋翔は縫い針を刺していた。五本の縫い針が、ちょうど五角形に本紙を囲む具合にである。
 そして、伊吹に持たせていた糸巻きを受け取り、五本の縫い針に、規則正しい順番に糸巻きの糸を掛けていく。
 糸巻きの糸は白い光の糸として、可視化されていた。
 その光の糸をちょうど五芒星を描く要領で針に掛けていくと、掛け軸の上に白い五芒星が浮かび上がった。糸の先は緋翔の手にある糸巻きに繋がっている。
「これで、こちらとあちらを繋ぐ道が、八尋にも見つけやすくなるだろう」
「ご苦労」
 緋翔の言葉に駿がうなずく。
 次いで、緋翔は真尋を見遣った。
「八尋たちがこちらへ戻ってきたら、真尋、頼むぞ。私の合図で、この糸を斬ってくれ」
「う、うん。解ってる」
 いつも持っている短刀を、真尋は取り出す。
 静かな緊張が書院の中を浸していた。
「あとは、八尋が戻ってくるのを待つだけですね」
 伊吹がつぶやき、それからはただ沈黙が降りた。

* * *

 満天の星空の下を、八尋と胡蝶はクロに先導されて走っていた。
「すごい星……」
 空を仰ぎ、胡蝶がつぶやく。
「わぅ」
 立ち止まったクロが八尋を顧みて鳴いた。
 彼らの行く手には巨大な──無辺といっていい壁が立ちはだかっていた。
 それは、なめらかな乳白色の、陶器製らしく見える壁だった。
 高さは優に二十尺はあるだろう。
「跳べるか、クロ?」
「わんっ」
 黒い仔犬は元気よく答える。
 強く地を蹴り、クロは軽々と宙を飛んだ。
 黒い毬のように、跳躍し、壁の上に降り立ち、向こう側へと飛び降りた。
「おれたちも行くよ」
 八尋は胡蝶を背負い、身をかがめた。
「行くって、この高さを?」
「鬼の身体能力を見くびるなよ」
 次の瞬間、胡蝶は自分の身体が飛翔するのを感じて、驚いて眼を瞑り、八尋の背にしがみついた。
 ずいぶんな距離を跳躍し、再び下へと急降下する。
 風が頬を叩き、その浮遊感に背筋がぞっとした。
「胡蝶、もう大丈夫だ」
 恐る恐る眼を開くと、視界一面に、無数の星々のきらめきがあった。
「え──
 空にも星。
 地にも星。
 見える全てが星空だ。
 そのあまりの煌煌しさに眩暈を覚え、八尋の背から降りた胡蝶は、ふらふらと彼の腕にしがみついた。
 恐怖を覚えるほどの美しさだ。
「まるで、星の海」
「たぶん、天の川だろうね」
 きらめく光が立ちつくす二人の姿に陰影を刻む。
 陶器の壁を越えた先に広がる景色は、広大な光の川であった。
 クロが小さく鼻を鳴らした。

≪ 肆   陸 ≫ 

2019.8.31.