織り姫幻想 [陸]

 濃い藍の中にきららかな数多の瞬きを秘めた星河を目の前にして、胡蝶は足がすくみそうだった。
 雄大な天と大河は遠い地点で融け合うように重なり合い、どこからが星空でどこからが天の川か判らない。見つめていると気が遠くなってくる。
 胡蝶は震える足に力を入れて、隣に立つ八尋を見上げた。
「これが川なら進めないよ。この壁沿いに行くしかないね」
「いや、まっすぐだ。徒に天人から逃げていても仕方ない。浮き島に帰るんだ」
「でも、どうやって?」
「浮き島へ続く“道”がまだ繋がっているはずだ。その“道”へ向かって進んでいるんだが……」
「その“道”がどこにあるのか、八尋には解るの?」
「浮き島の妖気をね、感じる」
 天の川へ飛び込もうとするクロを、八尋はひょいと抱き上げた。
「おれとクロだけなら、泳いでも行けるかもしれないけど、胡蝶にはきついな」
「あたし、頑張るよ。もし、足手まといになったら、置いていってもいい」
 思いつめたような様子の胡蝶の言葉に八尋はふっと苦笑した。
「胡蝶を迎えに来たのに、おれ一人で帰れるわけがないだろう。ここはクロに神頼みだ」
 八尋が、抱いているクロの首の辺りに触れようとしたので、黒い仔犬は身をよじって彼の腕から逃れようともがいた。慌てて胡蝶がクロの躯を抱き取る。
「駄目だよ、八尋。クロは首を触られるのが嫌いなんだよ」
 彼女はかばうようにクロの頭を撫でて青年をたしなめたが、彼は後方の空を仰ぎ、わずかに眼を細めた。
「そうも言ってはいられない。胡蝶、空を見てごらん」
「えっ?」
 振り返った胡蝶の目に、星空を飛行してくる複数の物体が映った。
 鳥ではない。
 それはこちらへ向かって次第に大きくなり、やがて何かの動物に天人が騎乗しているのだと判った。
 金色の毛並みの馬のように見える獣は、火を灯したように赫く光る眼をしていた。
「馬……? 馬が空を飛んでいる……」
「馬のように見えるが、あれは火眼金睛獣だろうな。胡蝶を連れ戻しに来たんだよ。金睛獣に乗った天人たちを振り切るには、クロの力を借りるしかない」
「でも、そんなことをしたら、クロはまた自我を失ってしまう」
 そう言っている間にも、金睛獣に乗った天人たちは、どんどん天の川の畔にいる彼らのほうへと近づいてくる。
「そこはクロの成長に期待するしかないな。でも、胡蝶がいるから、今回は大丈夫だとおれは思うけど」
「また血を与えて鎮めるの?」
「いや。胡蝶がいることがクロの舵取りになると思う」
 清流のような夜風が、八尋の青い髪をさやさやとそよがせる。
 彼の青褐色の髪は、銀河の光と影を受けて、夜空に同化するように深い色に染まって見えた。それは、端麗な彼の顔をより神秘的に見せていた。
「胡蝶、クロの逆鱗に触って。早く。クロを覚醒させなければ」
 天の川に照らされる彼に見入っていた胡蝶は、はっと我に返り、躊躇いつつも、抱いている黒い仔犬の喉元にそろそろと手を伸ばした。
「ごめん、クロ。我慢してね」
 しかし、クロは胡蝶の動きにおとなしく身を委ねていた。
 娘の指先が龍神の血をひく仔犬の逆鱗に触れる。
──っ」
 風が湧き、思わず胡蝶が眼を閉じてクロから手を放し、身を固くしたとき、雷鳴が響いた。
 と、同時にざわざわと風が妖しく渡り、天上からはぽつぽつと雨が降り出す。
「胡蝶」
「……」
「胡蝶、しっかり」
 八尋の声が耳元で聞こえ、両腕を縮めて固く眼を閉じていた胡蝶はそろそろと瞼を開いた。
「クロ……?」
 目の前に、漆黒の美しい龍の姿がある。
 太い丸太のような胴体に黒真珠を思わせる鱗が連なる龍は、金色の眼で、じっと胡蝶を見つめていた。
「クロ!」
 龍に呼びかける胡蝶を、八尋が後ろから抱き上げ、龍の胴体に横向きに座らせた。そして、自身も彼女の前に龍に跨ると、彼女を振り返って言った。
「おれにしっかり掴まっていろよ。やはりクロは、おれより胡蝶に心を許しているようだ」
「どうして?」
「胡蝶が清らかな乙女だから、かな」
 胡蝶が何か答えるより早く、雨を受け、黒い龍は瑞々しく宙を滑り出した。
 天界の、深い藍色の空ときらめく天の川を細い雨が紗のように覆う。火眼金睛獣を駆る十騎ほどの天人たちも、すぐそこまで八尋たちに迫っていたが、クロの操る雨風に圧され、次第に速度を落としていった。
 風が走る。
 黒と紺と藍色の世界。
 さらさらと降る紗のような雨の中、数多の星が雨粒にけぶってなお美しい天空を、青年と娘を乗せた黒龍は翔けた。
 胡蝶は必死に八尋の腰にしがみついていたが、少しばかり飛翔に慣れると、そっと眼を開けた。
 風は速く、雨が降っているのに、星は瞬く。
 雨が舞い、広大な天の川に降りそそぐと、天の川の水面がそのたびに滲むように発光した。
 これは現実なのだろうかと彼女は思う。
 夢か現か判らない。
 ただ、なめらかに天を進む龍の背に運ばれるのは、無重力の無限の空間に浮かぶような心地だった。
 天が川となり、川が星空に重なる。
 聞こえるのは風の音だけだ。
「見えた!」
 突然、八尋が叫んだ。
「“道”だ。クロ、前方にある星形の空間の亀裂を目指してくれ」
 彼の声に、胡蝶も身を乗り出して、前方を確認しようとした。
 だが、彼女に見えるのは藍色の空間に散りばめられた星の輝きばかり。
 八尋の瞳は、その星々の中にぽつんと浮かんだ小さな白い五芒星を捉えていた。
 龍が天の川に雨を降らせる。
 金睛獣を遥か後方に引き離していく。
 五芒星は少しずつ大きく、クロの目前に迫ってきた。
 流れゆく空、星降る川。その五芒星が、見る間に光の糸の束と化した刹那、五芒星の中に突入した八尋と胡蝶を乗せた黒龍は一瞬にして真っ白い光に包まれ──

 掛け軸の上に光の糸で描かれた五芒星の中央から風が迸った。
──戻ってきた!」
 駿、緋翔、伊吹。そして、真尋。
 里長の屋敷の書院に集まった童子たちは息を呑む。
 ごうっ! という風の唸りとともに、室内に出現した黒い仔犬がとんと床に降り、次いで八尋が、宙に投げ出されるように現れ、鮮やかに一回転して着地した。
 ふっと風が消えた。
 雨が降る天を翔けていたはずの八尋とクロは、全く濡れていない。
 その場に片膝をついてうずくまる八尋が大きく肩で息をした。
「八尋──
 真尋がつぶやき、そこにいる童子たちも、八尋の無事な帰還にほっと胸を撫で下ろした。
 膝をついたまま、八尋がつと視線を流す。
 駿の隣にいる胡蝶に。──胡蝶の姿をした織姫に。
 凍るような冷たいその一瞥に織姫はどきりとした。
「八尋、胡蝶は……?」
「真尋、糸を斬れ」
 真尋の言葉を緋翔がさえぎる。
「糸を断ち切らなければ終わらんぞ」
 真尋がはっとして胡蝶の姿をした織姫を見遣ると、織姫はそばにいる駿に哀しげな眼を向けた。
「駿さま」
「文月七日の夜、絵の中で会おう」
 静かに織姫に告げて、駿は真尋に向かってうなずいてみせた。
 真尋が短刀を抜き、掛け軸に近づいた。
 掛け軸の表面に作られた、異界の糸と縫い針で形成された白く光る五芒星。その糸の先は緋翔が手にした糸巻きに繋がっている。
「はっ!」
 短刀の刃が閃き、掛け軸から糸巻きに伸びた糸を両断した。刹那、光の束が弾けたように糸が白く発光し、真尋の眼が眩む。
 そろそろと少年が眼を開けたとき、緋翔の手に糸巻きはなかった。
「糸巻きが……」
 掛け軸の絵の上に作られていた五芒星も消えている。そこには、ただ五角形に刺された縫い針だけが残されていた。
 真尋が振り返ると、崩れ落ちた胡蝶の身体を駿が抱きとめていた。
「……胡蝶」
 真尋の呼びかけに、しばらくして、胡蝶は重たげに瞼を開けた。
「胡蝶……!」
 駿に支えられて立つ胡蝶が、真尋のほうを見た。
「ま、ひろ……」
「胡蝶なんだな?」
 真尋の姿を認め、胡蝶の顔が泣きそうにゆがむ。
「こ、怖かったっ……」
 彼女に近づいた真尋が震える肩を抱き寄せると、彼女は彼の衣をぎゅっと握った。
「怖かったけど……八尋が、来てくれたから……」
 涙をためた瞳で室内を探すと、すぐに見つけた八尋と目が合い、彼女は泣き出しそうに微笑んだ。
 八尋も胡蝶へ労るような微笑みを返す。
 クロが娘の足許にじゃれつくと、彼女はその場に座り込み、ぎゅっと黒い仔犬を抱きしめた。そんな胡蝶を見守る童子たちの顔にも、安堵の表情が浮かんでいた。
「織姫は絵の中へ戻ったのでしょうか」
 ふと、伊吹が言った。
 掛け軸の絵に、まだ織女の姿は消えたままだ。
「じき、もとの絵に戻るだろう。そうしたら封印する」
「駿、掛け軸は社で封印して焚き上げるのがいいと思うが」
 緋翔の言葉に、駿は静かに首を横に振った。
「いや。おれが封印して、屋敷の蔵で保管するよ」
「情が移ったか?」
「そういうわけじゃないが」
「あれは物精ですらないぞ」
 緋翔が困ったように眉をひそめると、八尋がふっと苦笑する。
「相変わらず人がいいことだな、駿」
「褒め言葉だと取っておくよ」
 駿が伊吹を見遣ると、伊吹はにっこり笑ってうなずいた。
 緋翔もうなずく。
「解った。里長に任せよう」

* * *

 そろそろ夕闇が辺りを支配する時刻。
 駿は、ひとり、書院で墨をすっていた。
 文机の上には例の掛け軸が広げられている。
 異界との“道”を作るまじないに使った縫い針で、己の指を傷つけ、血を一滴、彼はその墨にたらした。
 彼の右手が筆をとり、掛け軸の絵にすっと筆の先を落とすと、黒い墨汁は紙の上で自然に変化し、一人の若者の姿を描いた。
「これが封印だ」
 駿は筆を置いた。
「一年に一度、文月七日の一日だけ、蔵から出して床の間にかけよう。絵の中で、おまえがおまえの夏彦との逢瀬を楽しめるように」
 絵の中には、もとの通り、星空の下で織姫が糸巻きを手にたたずんでいる。
 違うのは、彼女の背後に小さく唐風の衣装をまとった青年が描かれていることだ。
 駿は立ち上がり、窓を開けた。
「さて。今日は何日だっけ」
 彼は窓から天を仰いだ。
 すでに空は藍色を帯び、星が瞬き始めている。

 星の宿り。星合いの空。
 いま、星が流れた。

≪ 伍 〔了〕

2019.10.8.