金銀妖瞳 [壱]

 山で鳥たちが騒いでいる。
 野鳥ではない。
 真朱まそおの鳥たちだ。
 山中で薬草探しをしていた真尋は、異常なその声を聞きつけ、鳥たちが騒ぐほうへと向かった。
 浮き島の里を取り巻く山々には、人間界から入ってくる獣たちがいる。
 その獣たちと真朱の鳥たちとの間に、諍いでもあったのかと真尋が急ぐと、地面で鳥たちが何か小さなものを取り囲んで鳴き交わしている姿が目に入った。
「何だ?」
 少年が近づくと、数羽の朱い鳥たちは羽ばたき、真尋に道をあけた。
 小さなものは動かない。
 意識がなく、倒れている。
「え? 猫……?」
 真尋は驚いた。
 野鳥や、または鹿や猪のような獣ならともかく、猫が浮き島を囲む山に入ってきたのは、彼の知る限り初めてであったからだ。
 まだほんの仔猫だ。
 倒れている仔猫の白い毛は汚れ、全身に傷があり、血が滲んでいた。
 死んでいるのだろうか。
 手を伸ばした真尋がそっと小さな躯に触れると、温かかった。
「生きている。介抱しなきゃ」
 白い小さな猫を抱き上げた真尋は、すぐに山を下り、里長の屋敷へ向かった。

 屋敷の縁に出た里長・駿は、自らに従わせている真朱の鳥・あかつきを空へ放った。
 山で何らかの異変が起こっていないか、調べさせるためだ。
 飛び去っていった暁を見送り、駿は部屋の中を振り返った。
「……で? その場にはその猫一匹しかいなかったんだな?」
 敷布の上に寝かされた仔猫の傍らに、八尋と真尋が座っている。
「うん。その猫一匹。可哀想に、何かの獣に襲われでもしたのかな」
「もうすぐ医者が来る。それより、妙だな」
「何で?」
「そいつの尻尾。真尋はそれを見ておかしいとは思わなかったのか?」
 真尋は意識のない小さな猫の姿を見遣る。
 白い尻尾は二股に分かれていた。
「尻尾が二本? 変わった猫だね」
「いや、猫又だよ」
 と、呆れたように八尋が口をはさむ。
「子供のようだが、立派な妖怪だ」
「この猫に妖気は感じないが、ふつう浮き島の山の霊気に阻まれて、妖怪の類はこの里には入ってこられないはずだ」
 仔猫のそばに駿が腰を下ろすと、ああそうか、と、得心したように真尋がうなずいた。
「でも、じゃあ……この猫、何者?」
「それを調べなければな」
 赤みを帯びた髪をかきあげ、駿はいささか面倒そうに、ため息を洩らした。
 ふと、八尋が顔を上げて玄関のほうを見た。
「誰か来たぞ」
「……ああ、女たちか。五人いる」
 真尋には何も聞こえなかったが、やはり面倒そうに、駿が応じた。
 そして、すぐに数人の人の気配が玄関から三人のいる部屋へと移ってきた。
 開け放した戸板の向こうから、ひょいと顔を出したのは、この里の年若い女房たちだ。その五人の中に胡蝶もいる。
「駿、猫を拾ったんですって?」
 女たちはたちまち横たわっている仔猫の周りを取り囲み、異口同音に「可愛いー!」と声を上げた。
 彼女たちは、卯木がまとめる衣裳工房で働いている。
「猫なんて見たの、久しぶり。この子、飼おうよ、駿」
「誰が世話をするんだよ。可愛くても妖怪だぞ?」
 眉をひそめて八尋が言うと、女房たちは顔を見合わせた。
「大人しければ、あたし、飼ってもいいわ」
「ずるい、あたしだって世話したい」
 姦しく騒ぐ女たちの華やいだ様子に、駿はやれやれといったふうに肩をすくめる。
「猫又がいるって、どこから聞いてきたんだ?」
 駿が女たちを見廻すと、胡蝶と佐保が眼を見交わし、困ったように答えた。
「クロを借りたいって、工房の卯木さんに柾を使いに寄こしたでしょう? 彼、おしゃべりだから」
「押しかけたら迷惑かとも思ったんだけど、だって、猫又を見たいじゃない? ねえ」
 苦笑する胡蝶と佐保は、その実、あまり申し訳なさそうでもない。
「可愛い」
「小さい」
「撫でても大丈夫?」
「やめとけ。怪我してる。小さくても、まだ安全な存在か判らないんだぞ」
 そこへ、老人と若い男が、黒い仔犬と一緒にやってきた。
「ご苦労。クロも一緒か」
「屋敷の前でばったり会ってのう」
 二人は浮き島の医者だ。
 恰幅のよい老人は名雲、三十ほどに見える男は和泉という。
 名雲のほうは、真尋の生命の恩人であった。崖から落ちて、人間の医術では助からないと思われたほどの怪我をした真尋の治療をしたのが彼だ。
 五人の女たちは壁際に退き、二人の医者が意識のない仔猫のそばに座った。
 好奇心の塊のような瞳のクロが仔猫に近づこうとしたので、素早く八尋がクロの躯を抱き取った。
「名雲老まで来なくても、和泉だけでよかったのに」
「わしも猫又を見てみたかったんじゃ」
 背後で女房たちがくすくすと笑う。
 駿が咳払いをした。
「で、どう思う?」
「どうもこうも、妖力を失ったから、浮き島の山に入ってこれたんじゃろうが。ひどく体力も消耗しておるようだ」
「意識は戻るか?」
 和泉が仔猫の躯のあちこちに触れて、外傷を調べた。
「全身に傷を負っているな。山の霊気の中に放っておけば、衰弱して死んでいただろう」
 和泉の診立てに名雲もうなずいた。
「治療できるか?」
「なんじゃ、駿。猫又の子を飼うつもりか?」
 背後の女房たちの期待した様子を意識して、苦々しそうに駿は言った。
「名雲老も猫又を飼い慣らしたいのか? そうじゃなくて、地上に帰してやらなくちゃだろ?」
 女房たちが残念そうに顔を見合わせる。
「浮き島の里の妖気に触れていれば、猫又自身の妖気も回復するだろう。傷だらけだが、妖気が戻れば、妖怪には大した傷ではない」
「放っておいても大丈夫じゃろう」
 二人の医者の言葉に駿はうなずき、クロを見た。
「クロ、ちょっとこいつを舐めてみろ」
 クロが小さく鼻を鳴らす。
 八尋が仔犬の躯を抱きとめていた手を放すと、クロはとことこと白い仔猫に近づき、匂いを嗅いだ。
 そして、ぺろぺろと仔猫の躯を舐め出す。
 と、
「ふみゃあぁっ!」
 意識のなかった仔猫が飛び上がり、次の瞬間、仔猫は男の子の姿に変化した。
「あ、化けた」
「化けたな」
 八尋と駿がつぶやいた。
 白い髪、白い衣の、七つくらいに見える真っ白い男の子である。
「きゃあ!」
「白い子供になったわ」
「可愛いー!」
 たちまち女たちから黄色い声が上がった。
 男の子は顔を寄せてくるクロを睨みつけ、上擦った声で早口に言った。
「こ、こ、怖くなんかねえぞ? たかが犬っころが……!」
 白い子供の目尻の上がった大きな眼は鋭く光る銀色だ。
 その銀の瞳でクロを睨めつけ、男の子はそろそろと敷布の上を後退さった。
「わん!」
 と、クロは尻尾を振って人懐っこく鳴いたが、八尋がクロを掴まえる。
「いっ、犬っころの分際で、あ、あ、妖のおれに敵うと思うなよっ」
「そんな後退さりながら言われても」
 精一杯の強がりを言ったものの、男の子はクロから身を遠ざけようと、ふるふる震えていた。男の子の後ろにいた駿が、ぽんと彼の頭に手を載せると、子供はびくっと身をすくませた。
「意外に元気だな」
「浮き島の妖気と相性がいいんじゃなかろうか」
 二人の医者も顔を見合わせる。
 男の子の白い髪は肩ほどの長さ、まとう水干も袴も白一色である。その顔も手足も傷だらけだった。
「おい、化け猫小僧」
「化け猫って言うな! おれは猫又だぞ!」
「似たようなもんだろう」
 駿はため息をつく。
「妖力が回復したら、地上へ送ってやる。しばらくこの里で養生してろ」
「地上? ……ここ、どこだ?」
 子供はきょときょとと室内を見廻した。
「ここは異空間の鬼の里だ。おまえ、妖力を失って倒れていたんだ」
「異空間?」
 彼は銀の瞳を大きく見張る。
「すぐ帰らなきゃ! おれをもといた場所へ戻してくれ!」
 途端にそわそわし始めた男の子を諭すように、駿がゆっくりと言った。
「あのな、化け猫小僧」
「おれは紫苑だ」
「あのな、紫苑。おまえが見つかった場所はこの里を取り巻く山の中で、山には霊気が満ちている。おまえは妖力を失って迷い込んだようだが、里人以外が妖力を持ったまま山に踏み込むと、生命に関わる」
「じゃあ、どうすれば……」
 少年の白い肌がさらに蒼白くなった。
「地上に出られる道を作ってやる。だから、しばらくここで静かに過ごせ。外傷はそこにいる医者二人が手当てしてくれるだろうが、まだ妖力が完全じゃないだろう」
「そんなこと言ってられねえ。おれは姉者を助けねえと……」
「姉者?」
「きょうだいがいるのか」
 駿が訊き返し、八尋が軽く眼を見張る。
「双子の姉者が人間に捕まってしまったんだ。おれはその人間たちから逃げて……」
 幼い猫又の姉弟が悪い人間に狙われ、姉だけが捕まり、弟は逃れた。
 しかし、逃れたものの、姉を救おうと人間に立ち向かった弟は散々に痛めつけられ、人里離れた場所へ逃げるしかなかった。そして、迷い込んだのが浮き島の山というわけだ。
 どんな道を通ってここまで来たのか、少年には記憶がない。
 悔しそうに紫苑はうつむく。
「姉者は綺麗で可愛くて非力で儚げだから、きっと心細い思いをしてる。泣いてるかも。早く行ってやらねえと」
 この場合、綺麗で可愛いはあまり関係ないだろう。
 あの子、よっぽど姉者が好きなんだね、と、胡蝶が隣の佐保にささやいた。
「ところで、小僧。猫又には子供もおるのか。年を経た猫が猫又になるんじゃなかったかの?」
 名雲が穏やかに問うと、紫苑は誇らしげに胸を張った。
「聞いて驚け。おれは両親ともが猫又の、生まれながらに猫又という猫又の純血種だ!」
 子供の猫又は珍しいと言いたいのか、少年はたいそう自慢げだったが、その場にいる面々は、皆ただ「ふーん」という反応だ。
 唯一、クロだけが興味深そうに尻尾を振った。
「そういうことなら手を貸してやらなきゃ」
 真尋が身を乗り出した。
「こいつ一人じゃ妖力が足りなくても、おれたちが一緒に行けば、こいつの姉者を助けられるんじゃねえか?」
「真尋が行くのか?」
「駄目かな。これも斥候の仕事じゃねえ? な、八尋」
 一同の視線が青褐色の髪の美しい鬼の上に注がれた。
「化け猫小僧のお守りか……」
 前髪をかきあげ、やや困惑げになる八尋を見て、おもむろに、真面目くさって駿が告げる。
「仕方ない。八尋、出番だ」
 八尋は小さく吐息をついた。
「他の妖怪一族の揉め事に手を出すのは気が進まないけどな」
「なに言ってんだよ、八尋。まだ子供なんだよ? 人助けだよ。化け猫、助けてやろうよ」
 真尋は乗り気だ。
「化け猫違う!」
 紫苑が叫んだ。

弐 ≫ 

2021.7.23.