金銀妖瞳 [伍]
小さな猫の影が見えた。
が、すぐにそれは錯覚で、静かに座る杏子の影だと解った。
肩までの白い髪に金色の大きな瞳。
白の水干と紅の袴をまとった姿。
壊された樽の木切れが宙に舞い上がる中、少女はうつむき加減に座ったままだ。だが、彼女が発する強力な妖気に八尋は驚いていた。
猫又の子供の妖気にしては強大すぎる。
「みゃあお」
八尋の足許で二股の尾を持つ白い仔猫が鳴いた。
「紫苑」
八尋ははっとした。
妖気が──杏子の強大な妖気が紫苑の小さな躯に吸い込まれていく。仔猫が首につけた組紐の真朱の羽根が媒体となっているようだ。
一度眼を閉じた仔猫がゆっくりと両目を開くと、銀目だった彼の左眼が金色に変わっていた。
(金銀妖瞳……)
金目銀目の猫は、妖怪でなくとも特別視される。
それが猫又の子となれば、どれほどの妖力を持つのか。
「杏子の、力か……?」
つぶやいた八尋の声に顔を上げ、彼を顧みた杏子の眼が、右眼が金色、左眼が銀色に妖しく光った。
その場に立ち上がった杏子は、ひらりと荷車を下りた。
「親方」
白い仔猫を抱き上げ、落ち着いた声で白い髪の少女は淡々と言葉を紡ぐ。
「短い間だったが、世話になった。弟が迎えに来たので、わたしはここで別れる」
「弟……?」
傀儡師たちの怪訝な視線が八尋に向けられたので、八尋は慌てて金砕棒を鞘代わりの革袋に収めて、両手を振った。
「あ、おれじゃないですよ。おれは杏子の弟の代理人です」
親方と呼ばれた五十がらみの男が、怒気を孕んだ表情で杏子に近づいた。
「冗談じゃねえ! おまえを買うのにどれだけの銭を払ったと思ってるんだ」
「それはわたしには関係ない。食べさせてもらった分は、舞を舞って返したつもりだ」
「何だと?」
「杏子……行っちゃうの?」
不安げに問う三鈴を見遣り、杏子はうなずく。
「三鈴にはよくしてもらった。でも、いつまでも旅芸人をしていられない。わたしは人間ではないからな」
「おい、行かせるな! 杏子を止めろ!」
親方の怒声に二人の男がじりじりと動いた。
男たちは力ずくで杏子を取り押さえようと少女に迫ってきた。
杏子をかばおうと八尋が動きかけたそのとき、彼女は両手に抱いていた白猫を地面に放った。そして、声をかける。
「紫苑」
呼びかけとともに妖気が迸った。
仔猫が地に降りた刹那、突然、ごうっと凄まじい風が渦巻く。
「──!」
次の瞬間、そこに現れたのは純白の巨大な獣だった。
「うわあ……!」
「ひっ、ひいっ」
風に煽られ、よろめいた傀儡師たちは一斉に驚きと恐怖にどよめいた。
荷車に繋がれた二頭の驢馬が怯えて暴れ出しそうになり、近い位置にいた男と女が慌ててそれぞれ驢馬を押さえた。
「紫苑が化けたのか……!」
八尋も唖然と眼を見張る。
鋭い大きな瞳の右眼が銀色、左眼が金色の、唐獅子のような猛獣に変化した猫又の紫苑には、浮き島で倒れていた仔猫の弱々しさなど微塵もない。
二股の尾を持つ白一色の妖獣──それは、まるで四神のひとつ、白虎を思わせる堂々たる姿であった。
「この子をけしかけられたくなければ、わたしの邪魔をするな」
後退さる大人たちを見て、杏子は静かに言った。
「……さあ、紫苑。行くぞ」
巨大な獣に化けた猫又の弟を促し、白い髪の少女は八尋のほうへ行こうとしたが、
「す……すごい、素晴らしい……! これはいい見世物になる」
恍惚と叫んだのは親方の声だった。
「杏子、その獣を見世物小屋で操れ。きっと、すごい評判になるぞ……!」
「この子は見世物ではない!」
金と銀の杏子の瞳が屹となった。だが、親方から目配せを受けた傀儡女の一人が、いつの間に取り出したのか、奇術用の短刀を手に、三鈴の身体を捕まえた。
「杏子。言うことを聞かないと、三鈴の顔に傷がつくよ」
「三鈴──!」
驚いた杏子が振り返ると、女は短刀の刃を三鈴の頬に突き付けている。
妖獣が咆哮して人間たちを威嚇した。が、
「やめろ、紫苑」
刃が三鈴の頬に食い込むのを見て、杏子がとめる。
怯えた三鈴が、震えながら、強張った表情で白い少女を見つめていた。
「あ……あん、ず……」
そのとき、何かが鋭く風を切った。
「つうっ!」
傀儡女が三鈴から手を放し、右手を押さえてその場にうずくまった。
「な、何だ……?」
思わぬ事態に傀儡師たちが動揺してどよめいたとき、素早く移動した八尋が三鈴の身体を軽々と抱き上げて、女から遠ざけた。
女の右手の甲には、棒手裏剣が刺さっていた。
「八尋!」
真尋の声だ。
「真尋、胡蝶。思ったより早かったな」
道を向こうから駆けてくるのは、別行動をとっていた二人だ。
棒手裏剣は胡蝶が投げたものだった。
空を飛んできた蘇芳がひらりと八尋の肩の上に止まる。
「真尋、この子を頼む」
追いついてきた真尋に三鈴を託し、八尋は胡蝶の頭にぽんと手を置いて微笑んだ。
「やるな」
「もう止まっている的には当てられるんだよ」
褒められた胡蝶は役に立ったことが嬉しそうだ。
合流した八尋たちの前では、杏子と傀儡師たちが睨み合っていた。
三鈴を傷つけようとしたことに対する杏子の怒りに呼応して、紫苑が低く唸りながらじりじりと傀儡師たちに迫った。人間たちを睨めつける妖獣の金銀妖瞳が妖しく光る。
その大きな牙や爪を見て、傀儡師たちは震えあがり、金縛りにあったように立ちすくんでいた。
「妖怪を操り、見世物にしようなどと思い上がるな。この子は一瞬でおまえたちを皆殺しにできるんだぞ」
二頭の驢馬が落ち着かなげにいななく。
妖獣はまず親方に狙いを定め、相手の恐怖を弄ぶように距離を詰めた。
「ひっ……!」
杏子はとめない。
紫苑を制止したのは八尋であった。
「もういいだろう」
青い髪の青年は純白の妖獣に近づくと、その背を押さえた。
そして、恐怖に眼を見開く親方に顔を向け、穏やかに言った。
「親方、おれたちはあなた方に危害を加えるつもりはない。ただ、攫われて売られた杏子を弟に返してほしいんだ」
「あ、う……」
傀儡師たちは恐ろしそうに眼を見交わし合った。
恐怖が身に染みたのだろうか。
「抵抗しても、杏子は連れていく。それに、あなた方が危害を加えようとしたあの女の子もね」
「……」
真尋と胡蝶の間に立つ三鈴が眼を見張った。
「行け」
八尋の眼がわずかに細められ、鋭い妖気が空気を裂いた。
刹那、それに反応した驢馬たちが歩き出す。
驢馬を押さえていた者たちも引っ張られるように歩き出した。
「お、親方、行こうぜ」
「そいつらとは関わらねえほうがいい」
八尋や杏子たちが見守る中、紫苑がひときわ強く唸り声を上げると、蒼ざめた傀儡師の一座は、夢から醒めたようにのろのろと重い足を進め始めた。
* * *
傀儡師たちが去ったあと、人目を避けて、八尋たちは道から少し外れたところにあるお堂の中に落ち着いた。
持っていた菜飯の握り飯を杏子と三鈴に与えると、お腹が空いていたのか、二人ともよく食べた。
「にしてもさ」
真尋が苦笑する。
「紫苑があんまり綺麗だの可愛いの言うから、杏子はどんな顔してるのかと思ったら……」
胡蝶もくすくす笑い出した。
「確かにとっても可愛いけど、紫苑と瓜二つだよね。ある意味、期待通りだけどさ」
人の姿に化けた猫又の姉弟は、白い髪も目鼻立ちも背格好も、何もかもが同じであった。
全く同じ容姿で並んでちょこんと座っている姿は愛くるしく、異なるところといえば、大きな眼の色が、杏子が金目、紫苑が銀目であることと、まとっている袴の色が杏子は紅で、紫苑が髪を結んでいることくらいだ。
「姉者は世界一綺麗で可愛いぞ」
向きになって言う紫苑に三鈴が同調した。
「そうだよね。杏子はお姫様みたい」
「そうだろ、おまえ、見る目あるな」
「でも、杏子の弟はあんまり若君様って感じじゃないね」
「……」
納得のいかない表情を見せる紫苑の様子に、一同が笑う。
「紫苑、おまえ、いいもの付けてるな」
弟の髪を結んだ朱色の組紐を見遣って、杏子が言った。
「これの妖気のおかげで、わたしから紫苑への妖力の移行が素早く行えた」
「妖力の移行?」
八尋が問うと、杏子は大人びた表情でうなずいた。
「紫苑を猛獣に化けさせるため、わたしの妖力を紫苑に移したんだ」
「杏子の妖気を見るに、仔猫とはいえ、二人は人間に捕まるほど弱くはないんじゃないか?」
「わたしたちは二人で一人前だ。わたしは妖力を生み出すことに長けているが、人の姿以外に化けられない。紫苑は猛獣に化けられるが、自分で必要な妖力を作ることができない」
握り飯を食べ終えた杏子は胡蝶から受け取った竹筒の水をこくこくと飲み、それを三鈴に渡した。
「だから、わたしが妖力をため、紫苑に渡す。それではじめて紫苑が大人の猛獣の姿に化けることが可能になる」
「なるほど。だから離れ離れになると、二人とも非力ってわけか」
「妖気が高まると、二人とも金目銀目になる。今回はすんなりといったが、いつもは妖力を紫苑に移すのに手間取っていた。その紐の妖気が手助けしてくれたようだ。興味深い品だな」
杏子の手が紫苑の髪を結ぶ組紐に触れた。
今は杏子は金目、紫苑は銀目に戻っている。
「それには妖力を喰う鳥の羽根が編み込まれている。だから、妖力を吸収する助けになったんだろうね」
「とにかく世話になった。弟ともども礼を言う。ありがとう」
「ありがとう」
白い髪の双子はそろってぴょこんと頭を下げた。
その様はとても愛くるしい。
「あたしはこれからどうしよう……?」
小さな声でつぶやいたのは三鈴だった。
「悪かったな。おまえは傀儡師たちに虐待されているのかと勘違いして……」
さすがに八尋も困ったような表情になったが、真尋が反発するような声を出した。
「いや、まともに育ててもらってないだろ。そんなに痩せてるし、腹すかせてるし」
「手もあかぎれだらけじゃないか。ひどい扱いを受けてたんじゃないの?」
眉をひそめる胡蝶も言葉を添えた。
あたたかな家庭を知らない三鈴は困惑したように下を向く。
「とにかく、おれたちが責任もって、おまえを引き取ってくれる人を見つけるよ」
しかし、杏子がやや含みのある目付きで、にっこりと言った。
「それはわたしに任せてくれ」
双子の猫又と三鈴をつれた八尋たちは、杏子の言う通りに道を戻り、ある村へと辿り着いた。
傀儡師たちとあちこちを巡る間に、杏子は、次の住処となるところの目星をつけておいたのだという。
「儚いどころか、相当強かだよな。杏子って」
「杏子なら、一人でも世を渡れそう」
真尋と胡蝶がひそひそとささやく。
杏子が身を寄せる家に選んだのは、裕福な老夫婦の屋敷だった。
やさしそうな老夫婦は双子の真っ白い仔猫を見て眼を細め、身寄りのない三鈴も引き取ってくれるという。
「確かに、人を見る目と人間の懐に入る手腕は見事だな。末恐ろしい」
真尋と胡蝶のやり取りに八尋も加わり、ひたすら感服する。
「杏子と紫苑は猫として飼われるんだね」
「そうだ。白い髪の子供の姿は見せられないからな。でも、三鈴も同じ屋敷で面倒を見てもらえるんだから、いつも一緒にいられるぞ?」
「うん」
三鈴は初めての友達と一緒にいられることがとても嬉しそうで、杏子から預かっている土笛を大切そうに握りしめた。
親切な老夫婦の家に一泊させてもらい、八尋たちは翌朝、村を発つことにした。
翌日の朝早く、村外れまで八尋たちを見送りに来た杏子と紫苑、三鈴の三人の子供を、胡蝶は一人ずつきゅっと抱きしめて、別れを惜しんだ。
「元気でな。頑張って修行して、早く一人前の猫又になれよ」
真尋の励ましの言葉から紫苑が気まずそうに眼をそらすと、杏子はきょとんとした。
「修行なんかしないぞ?」
「あっ、姉者……」
紫苑が慌てる。
「え? だって」
「早く一人前の金目銀目の猫又になれと山から出されたが、どうせ年を経れば一人前になる。それまでは猫に甘いご隠居の家を転々として、のんびり暮らすことにしている」
ばつが悪そうな紫苑とは対照的に杏子は堂々としたものだ。
一瞬、絶句して顔を見合わせた八尋、真尋、胡蝶の三人は、同時に吹き出した。
「紫苑、すげえ姉者だな」
「杏子には負けるよ」
旅装束の八尋たち三人が、朱い妖鳥を伴って浮き島に帰っていくのを、双子の猫又と三鈴は、その姿が見えなくなるまで見送っていた。
紫苑の髪には朱色の組紐が残されている。
「またいつか、会えるといいな」
「ああ。紫苑が迷い込んだという鬼の里にも行ってみたい」
「そろそろ帰ろうか。姉者、三鈴」
「うん」
そうして、白い髪の子供たちは、その姿を二股の尻尾を持つ白い仔猫に変化させた。
「杏子、紫苑、おいで」
三鈴が愛くるしい二匹の仔猫を抱えると、杏子と紫苑は甘えた声でにゃあおと鳴いた。
雲が流れ、陽光が降り注ぐ。
三鈴にとっては、見知らぬ土地での新しい生活が始まるわけだが、大好きな杏子と、新しい友達の紫苑がいれば、これからの毎日には楽しいことがたくさん待っているような、そんな気がするのだった。
≪ 肆 〔了〕
2021.12.8.