金銀妖瞳 [肆]
大きな木の枝の上で、白い仔猫が、朝日が昇るのを見ていた。
東の空を眺める仔猫の首の後ろには鮮やかな朱色の組紐が蝶結びにされており、愛らしい。
そうやって、夜が明けきるのをじっと待っていた仔猫だったが、不意に耳をぴくりとさせた。
「──!」
仔猫は大急ぎで樹上から地に降りると、近くの納屋の中に駆け込んだ。
「八尋!」
仔猫が男の子の姿に変化したとき、納屋の中で寝ていた青褐色の髪の青年はもう身を起こしていた。
「八尋、聞こえたか?」
「ああ。笛だな。鳴くのが下手な鶯みたいだった」
「あっ、また聞こえる」
興奮した紫苑の声に、真尋と胡蝶も眼を覚まし、起き上がる。
「おはよう。……何かあったの?」
「聞こえねえか、真尋。姉者の笛だ」
「へ?」
眠そうに眼をこする真尋が胡蝶を見遣ると、胡蝶も不思議そうに首を傾けた。
「はっきりと聞こえるじゃねえか」
「紫苑、これは人間には聞こえないよ。でも、下手な吹き方だな。人間が吹いているみたいだ」
「でも、姉者の笛の音だよ。その方向に、姉者がいるんだ!」
紫苑の主張に一応うなずき、八尋は蘇芳を呼び寄せた。
「蘇芳、笛の音のもとを探れ」
真朱の鳥が舞い上がる。
晴れ渡った一日の始まりだった。
蘇芳の報告を待っている間ももどかしい。
朝餉をすませ、身支度をした三人を急かし、仔猫の紫苑は蘇芳が飛び去った方角へと走り出そうとした。
「駄目だよ、紫苑」
そんな紫苑を胡蝶が抱き上げる。
「最初から飛ばすと体力が持たないよ?」
「みゃう」
諭すように顔を覗き込まれ、紫苑は恥ずかしそうに胡蝶から視線を外した。けれど、おとなしく抱かれている。この道行きでは紫苑はずっと胡蝶に抱かれて移動している。
「方角としては間違ってはいない。すぐに蘇芳が戻ってくるさ」
八尋の言葉通り、三人が歩を進めていると、蘇芳は四半刻も経たないうちに戻ってきた。
青い髪の青年が腕を伸ばし、大きく羽ばたいた朱い鳥はそこに止まる。
「さて」
八尋は両手の人差し指と親指で菱形を作り、そこに目を凝らした。
蘇芳は真尋の肩に飛び移る。
「何してるの?」
胡蝶が八尋に近づくと、彼女に抱かれていた紫苑が身軽に八尋の肩に飛び乗った。そして、八尋の四本の指の間を覗き込む。
「みゃあ」
「遠見だよ。蘇芳が見てきたものを見てるんだよ」
以前、真尋が真朱の羽根を使って水鏡に映像を映してみせたように、八尋の指の間に空からの映像が映っている。八尋の妖力を糧にしている妖鳥・蘇芳と八尋は視界を共有することができるのだ。
「よし。方向はこのまま。確かに旅芸人の一行だ。彼らも移動中だ」
「女の子はいる?」
「一人いるな。普通の人間だ。でも、他に妖気を持つ者の存在も感じる。たくさん荷を運んでいるから、杏子は荷車に乗せられているんだろう」
「にゃあ」
催促するように鳴く紫苑にうなずいて、八尋は真尋を見遣った。
「ただ、この距離じゃ、すぐに追いつくのは無理だな」
「おれと胡蝶がいるから?」
「ああ。おれだけなら、そう時間はかからないだろう」
真尋と胡蝶は顔を見合わせた。
「八尋に先に行ってもらう?」
胡蝶が言うと、真尋はちょっと不服そうに答えた。
「おれも紫苑の姉者を助けたいんだけど」
「でもさ、杏子の身が危険だったらどうするの。杏子は儚くて非力なんだよ。八尋にまず行ってもらったほうがよくない?」
「紫苑より非力ってことはねえんじゃねえの?」
真尋は真面目に言ったのだが、仔猫は気を悪くしたように背中を丸めてフーッと怒ってみせた。怒ってみせたところで可愛いだけで怖くはない。
菱形にした八尋の両手の指の間に、蘇芳が見てきた空からの地形が映し出された。
それを確認しつつ、八尋は口を開いた。
「ちゃんとした道じゃないけど、抜け道になりそうな道があるな」
「抜け道?」
「胡蝶の足でも大丈夫そうだよ。傀儡師たちは荷があるし、そう早くは歩けないだろう。おまえたちはその道を行くといい。蘇芳に導いてもらおう」
真尋が胡蝶を見遣ると、彼女もうなずいた。
「解った。できるだけ早く八尋に追いつくよう、急ぐよ」
「無理はするな」
彼らは二手に分かれることにした。
八尋と紫苑と。
蘇芳に先導された真尋と胡蝶と。
* * *
傀儡師の一座は大きな町を目指して進んでいた。
驢馬に曳かせた二台の荷車に荷を載せ、男が三人、女が二人、荷車について旅装束で歩いている。
小さな少女もいる。
三鈴だ。
三鈴は後ろの荷車のそばを歩き、手に例の土笛を持っていた。
時々、少女はそれを口につける。
「なんだい、三鈴? それは」
近くを歩いていた女が怪訝そうに土笛を見遣る。
「石ころかい? それをそんなに大事そうに」
「これは……」
三鈴はちょっと困った様子を見せたが、
「あたしのお守り」
と、尤もらしくつぶやいた。
表向き、杏子は大人しく傀儡師たちに従っている。
一座の出し物の白子の舞はなかなかの評判だった。けれど、見世物である杏子は自分の足で歩くことを許されず、大きな樽に入れられて、荷車で運ばれた。
三鈴はいつも、杏子を入れた樽のそばを歩いていた。
そして思い出したように土笛を吹く。
こうして笛を吹いていれば、杏子の弟が早く自分たちを見つけてくれるだろうと三鈴は信じていた。
太陽が穏やかに移動していく。
肩に白い仔猫を乗せた八尋は、風のように移動していた。
たまに旅人とすれ違い、または追い越すが、彼らは八尋の存在に気づいてはいないだろう。
蘇芳を介して掴んだ杏子の妖気を目指して彼は進んだ。ときたま、杏子の笛の音も流れてきた。
「見えてきた。あれだね」
前方の荷車の一行を視界に捉え、彼は肩の上の紫苑に声をかけた。
にゃーお、と仔猫が答える。
風が吹き抜けた。
道から外れ、茂みの後ろを通って、八尋は傀儡師たちの先回りをする。
紫苑の姉のものらしい妖気は、少し離れた場所からもはっきりと感じ取ることができた。
むしろ、その“気”の強さに八尋は驚く。
「どこが非力だって……? すごい妖気を感じる」
紫苑の様子から想像していた猫又の子供のものとは思えないほどの妖気だ。これなら、一人で人間から逃げきるのも容易いのではないだろうか。
「みゃう」
と応じたのは、おれの姉者なんだから当然、というような紫苑の鳴き声だった。
雲が流れるように道程は続く。
「町はまだ遠いの?」
ふと、三鈴が傍らを行く女に問うた。
「夕方までには着くさ」
女が答えたそのとき、前を行く二台の荷車の歩みが止まり、それに続いて傀儡師の一行の足が止まった。
つられて三鈴も立ち止まる。
「……?」
何かと思って前方へ目を向けると、一人の青年が一行の道を塞いでいた。
美貌のその青年は、白い仔猫を肩に乗せている。
近づきながら、彼は人懐こく会釈して話しかけてきた。
「突然すみません。人を捜しているのですが」
「人捜し?」
先頭にいた男が怪訝そうに青年の顔を見遣る。
「わしらは旅の傀儡師だ。近隣の住人のことは知らん」
「白い髪の女の子を捜しています」
男たちがぴくりと反応した。
八尋の瞳がゆるやかに一行を観察する。
旅姿の男が三人、女が二人。そして、幼い少女が一人。
驢馬の曳く荷車が二台。
その二台目の荷車の後ろに積まれた大きな樽の中から、強い妖気を感じる。
「あなたたちがその子らしい子供を連れていると聞きまして。ご存じありませんか?」
瑠璃色の瞳で探るように八尋が男たちを見廻すと、はっとした三鈴が口を開きかけた。
「あっ、白い髪なら……」
思わず声を上げそうになった三鈴の口を横にいた女が塞いだ。
「知らん、知らん。道をあけてくれ。わしらは急いでいるんだ」
険しい顔をした先頭の男が八尋の肩を押しのけるようにして進もうとしたが、八尋はすたすたと二台目の荷車に近寄った。
「お、おい!」
「何をするんだ!」
気色ばむ三人の男たちが八尋を荷車から遠ざけようとする。
「荷は全て商売道具だ。おれたちの商売の邪魔をするなら、こっちも手加減しねえぞ」
長い旅芸人の生活の中で、暴力沙汰も少なからず経験しているようだ。
「こいつ……!」
一番近くにいた男が八尋に殴りかかってきた。が、八尋は難なく相手の拳をかわす。朱色の組紐を首に蝶結びにした白い仔猫が素早く八尋の肩の上から地面に降りた。
「捜している子供の名は杏子。この樽の中を見てもいいですか?」
「野郎!」
別の男が棍棒を持って八尋の腹に打ち付けようとした。ひらりとそれをよけ、八尋は続いて振り下ろされた棍棒を片腕で受けた。
ばきっ
と音がして、青年の腕ではなく、棍棒のほうが割れた。
尋常ならざる事態に男たちは蒼ざめる。
「おれはあなたたちと喧嘩をしたいんじゃない。白い髪の女の子がいるかどうか、訊いているだけだ」
「そ、そんな子は知らん」
「そうですか」
八尋は背に負っていた細い革の袋に入れた金砕棒を抜き放った。彼はそれを流れるように、荷車に積んだ大きな樽に打ち付けた。
「……っ!」
一同は息を呑んで立ちつくす。
細い棒でただ軽く打ったように見えたのに、一瞬にして、樽は砕け散ったのだ。
「あんず──」
三鈴は眼を見張る。
粉々になって飛び散る大量の木切れの中心に、刹那、小さな猫の影が見えたような気がしたのだ。
2021.10.26.